松 代 大 本 営

 

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敗戦後の“名物”となった「上野の浮浪兒」が収容されたのが、長野県の松代町の旧大本営松代大本営であった(『アサヒグラフ』1947〔昭和22〕年4月1日号−−『アサヒグラフに見る昭和の世相』−−6〔昭和21年〜22年〕168頁)

 

この松代大本営は、日本帝国陸軍の本土決戦戦略の中で、もっとも進捗した施設であった。すなわち東条内閣の下、1944(昭和19)年5月に東部軍令部により、米軍の猛爆と予期された本土決戦に備えて、松代に皇居を移転し、天皇を安全な場所に移すと同時に大本営、参謀本部、軍令部および政府の諸機関を収容する大地下防空壕の建設が決定され、同年11月月11日より、小磯内閣によって、極秘のうちに、総工費6千万円と延べ工事人員75万人をかけて建設に着工されたものが松代大本営であり、敗戦時にはほぼ9分どおり完成していた。

 

この施設は、象山、皆神山、狼烟山の三山をくり抜く延長10キロの坑道式防空壕であった(それは16カ年の歳月を費やして掘り抜かれた東海道本線丹那トンネルより長かった)が、この施設を初めて世に報じたのは、1945(昭和20)年10月26日付の『信濃毎日新聞』であった。

 

翌27日付『朝日新聞』も、「無用の長物」として放置されていた松代大本営の状況を、次のように報道した。

 

「まづ御座所と拝察される狼烟山南面山麓の堅固なる建物は鉄筋コンクリートの3棟約6百坪で屋根は山に続き上空からは完全に隠蔽され、廊下は狼烟山の地下壕になつてゐる、その内部は畳は勿論その他の家具等は簡素ながらも森厳さを備へてゐる半地下宮殿である。一方大地下壕は三山を碁盤の目のやうに掘り抜いたさながら地下都市とも称すべきもので内部は檜材と漆食で補強し、大小さまざまの部屋のほか炊事場、浴場、水洗式便所など至れり尽せりの設備を持つてゐるものである」(『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20年下半期』236頁)

 

しかしこの内部の立派な家具や建具等は、敗戦後1年半にもわたって、大蔵省、東京都、長野県が三つ巴になって獲得戦をやっている間に、例によってすっかり消え失せてしまい、上野の浮浪兒が収容されたときは、ほとんどなにも残っていなかった(『アサヒグラフ』1947〔昭和22〕年4月1日号−−『アサヒグラフに見る昭和の世相』−−6〔昭和21年〜22年〕168頁)

 

この松代大本営を宮中側が正式に聞かされたのは、1945(昭和20)年6月13日であった。このことが天皇にも言上(ごんじょう)されると、天皇は陸軍の独走に激怒して「私は行かないよ」といわれたとの噂もあった(『新聞集成・昭和史の証言』第19巻412頁)

 

すなわち、一億総玉砕という日本帝国陸軍の狂気としかいえない無謀な計画をもってしてでも、天皇主権という国体を護持しようとして、天皇を無視して、天皇の名で実行されたのが、松代大本営の建設であったが、そこに天皇の名で始められた無謀な侵略戦争の結果、親や兄弟を奪われ、家を焼かれた寄る辺なき無辜(むこー罪のないこと)の子(戦争孤児)が、天皇の代わりに住みついたのである。それは歴史の”ドンデン返し“であり、”皮肉な巡り合わせ“であった。

 

そして巡り巡ってこの戦災孤児と天皇、つまり戦争の被害者と加害者との対面が行われたのである。時は1947(昭和22)年10月12日であった。甲信越『巡幸』を迎えた長野県屋代町(後に更埴市〈こうしょくし〉。現・千曲市の屋代小学校の校庭は、「奉迎」の人並みで埋まった。その最前列に恵愛学園の園児17人が、「戦災孤児収容所・恵愛学園」との立札とともにたった。「こちらにいるのが、戦災孤児たちです」との丸山園長の言葉に天皇は、「あ、そう、戦災孤児か」と一言いってから、園児たちに「みんな元気でやってネ」と声をかけ、園児の頭をなでたのである(大島前掲書29頁)

 

なおその後この地下壕は、地震観測所に利用され、掘り出された岩石は、東京都内の主要道路の舗装に利用された(『新聞集成・昭和史の証言』第19巻412頁)

 

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松代大本営 工事に従事の朝鮮人労働者名簿 米国で発見(2018年8月30日配信『毎日新聞』)

 

帰国を希望する朝鮮人労働者らの名簿。実際に帰国したかどうかは不明=長野市で

 

現在の松代大本営地下壕入り口(左)と朝鮮人労働者のための追悼碑(右)=長野市松代町で2018年8月29日

 

 太平洋戦争末期、本土決戦に備えて、大本営や政府機関などを移転するために作られた松代大本営地下壕(ごう)(長野市)の工事などに従事した、朝鮮人労働者などの名簿が見つかった。2600人を超える名前や本籍の住所、年齢などが記されており、労働者の妻や子どもと思われる名前もあって、これほどの人数の名簿が見つかったのは初めてとみられる。

 資料は、国学院大学の上山和雄名誉教授(71)=日本近現代史=が、1990年代初め、戦後に日本から押収した資料を保管している米議会図書館で発見した。資料の表紙には「帰鮮関係編纂(へんさん)」と「内鮮調査報告書類編冊」というタイトルがつけられ、名簿のほか帰国希望者の人数を記録した書類などがまとめられている。

 名簿はほぼ帰鮮関係編纂にあった。地下壕の工事を示す「東部軍マ(一○・四)工事」を担当した西松組(現西松建設)の松代出張所長名で県知事宛てに提出された名簿では、朝鮮人の創氏改名後の名前と本籍地、日本に来る前の住所、年齢、生年月日が書かれている。別の工事を請け負った鹿島組(現鹿島)が作成した名簿には、労働者の妻や子どもなどの名前が記録されていた。

 「内鮮調査報告書類編冊」は、県内の工事現場などに集住していた朝鮮人の集団帰国について、各事業場や警察署がまとめた資料からなっている。備考欄に「八月十五日以降工事中止ニヨリ食料ノ略奪其他治安上憂慮スベキモノニ付、至急送還ノ要アルモノ」と記されている資料もあり、朝鮮人の暴動を心配していた様子がうかがえる。

 戦後の朝鮮人帰国について研究する駒沢大学非常勤講師の鈴木久美さん(56)=東アジア現代史=は「戦争で労働力として動員され、戦争が終わると朝鮮半島の状況を考慮せずに帰国させた。帰国政策の一連の流れや、政府の朝鮮人に対する悲惨な扱いが読み取れる」と指摘する。また、「消息不明の朝鮮人の行方を明らかにしたり、日本の住所がある引率者をたどったりして、実際に朝鮮人たちはどのように帰国したのかなどを調査できる」と話す。

 資料を実態解明に活用しようという動きも出ている。松代大本営追悼碑を守る会(長野市)は7月、名簿を基に調査を実施するよう政府に求める請願書を郵送した。塩入隆会長(84)は「研究はほとんど手詰まり状態。名簿の情報で分かることが広がれば」と語る。また、県強制労働調査ネットワークの原英章代表(69)は「県内各地の工事で朝鮮人が従事していたことの裏付けになる。朝鮮半島のどの地域から来ていたのか、家族連れはどれほどいたのかなど資料を分析して、松代大本営の全体像をはっきりさせたい。遺族が生き残っている可能性もあり、証言の聞き取り調査も実施したい」と期待している。

帰国者の実数分からず

 朝鮮人のうち、労働者を優先して帰国させる方針は、1945年9月1日に政府から各都道府県に具体的に通知された。10月初旬ごろまでは日本が独自に進め、その後は連合国軍総司令部(GHQ)の管理で行われた。帰国者は140万〜150万人とされているが、漁船を借りて個人で帰国した朝鮮人もおり、正確な数字は分かっていない。

 松代大本営の地下壕は、44年11月に始まり、計画の75%、約13キロを掘ったところで終戦を迎えた。「松代大本営の保存を進める会」などの市民団体が集めた証言によると、約6000〜7000人の朝鮮人労働者がいた。しかし、名簿が残っているのは、旧厚生省が90年代に韓国政府に提出した鹿島組の78人分のみだという

 

案内活動30年以上「平和とは 考えて」 高校生語り継ぐ戦争史跡(2018年8月14日配信『東京新聞』)

 

見学者を案内する長野俊英高郷土研究班の生徒(左)=長野市の象山地下壕で

 

 太平洋戦争末期、政府の中枢機能をまるごと移転させようと長野県・松代(まつしろ)地区(現長野市松代町)周辺の山麓で極秘に建設が進められた地下壕(ちかごう)「松代大本営」の関連施設で、長野俊英高(同市)の生徒たちが見学者を案内する活動を30年以上続けている。生徒たちは「戦争が人々の記憶から消えないよう、語り継いでいきたい」と話す。 

 「この削岩機のロッド(先端)は70年たった今も抜くことができず、突き刺さったままです」

 7月末、松代大本営地下壕群の一つ「象山(ぞうざん)地下壕」。湿った空気に包まれた暗い壕内で、同校の「郷土研究班」の生徒が岩盤に突き刺さった鉄の棒について解説すると、見学者から「おお〜」と感嘆の声が上がった。この日、案内を受けたのは東京都世田谷区の大東学園高の一行。生徒会長の住吉姫咲(きさ)さん(3年)は「説明がすごく分かりやすい」と感心していた。

 活動のきっかけは1985年、長野俊英高(当時は篠ノ井旭高)の生徒たちが修学旅行で沖縄県を訪れ、多くの住民が地下壕に追い詰められて犠牲になった沖縄戦について学んだこと。「地元・松代にも同じような場所がある」と調査することにし86年から部活動として郷土研究班が発足した。

 当時、地元の人たちの間で地下壕の存在は知られていたが、危険な場所として立ち入りが規制されていた。生徒たちが保存、公開を市に提案し、90年から公開がスタート。郷土研究班は見学者の案内や、工事関係者らへの聞き取りを続けてきた。

 現在は2年生6人が活動。年10回ほど、長野県内外の高校や中学などの見学者を案内している。事前に練習を重ね、ダイナマイトを使う危険な突貫工事で犠牲者が出たこと、周辺住民が立ち退きを迫られたことなど、過去の聞き取り調査で把握した工事の様子を生々しく伝える。掘削で出た大量の岩くずが戦後、東京・霞が関周辺の道路舗装に使われたというエピソードも紹介している。

 心がけているのは、主観を交えず、ありのままに伝えること。顧問の海野修教諭は「戦争がいけないのは当たり前だが、まず歴史的な事実を伝える。そこから始まるのが私たちの活動」と説明。活動を通じ、生徒たちが人前で堂々と話せるように成長したとも話す。

 班長の高野礼さん(16)は「時代が変わって、戦争を体験した方から話を聞けなくなっている。私たちが懸け橋になり、何があったのかを伝え、平和とは何かを考えてもらえたら」と話している。

 

<松代大本営> 太平洋戦争末期、「本土決戦」を想定して政府の中枢機能を移そうと長野県・松代地区の象山、舞鶴山、皆神山を中心に進められた計画。舞鶴山地下壕に大本営、象山地下壕に日本放送協会などが入る予定だった。1944年11月に本格的に工事が始まり、終戦までに計十数キロを掘削。現在、象山地下壕の500メートル余りが年間を通じて一般公開されている(休壕日あり)。松代大本営建設を含む本土決戦の時間を稼ぐため、沖縄戦が展開されたという歴史観もある。

 

松代大本営の説明板 「強制的に」の文言巡り表記修正(2014年10月9日配信『信濃毎日新聞』)

 

太平洋戦争末期に作られた長野市の地下壕「松代大本営」の建設経緯を記した説明板で、朝鮮人労働者らが携わった経緯について「強制的に」と記した部分を同市がテープで隠していた問題をめぐり、加藤久雄長野市長は2014年10月8日、新たな表記内容を発表した。

もとの説明版には「延べ三百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され」と記されていた。だが、この記述ではすべてが強制的だったと解釈されるとして、市は2013年4月以降、パンフレットの「強制的に」という表現を外し、8月には説明版の「強制的に」の部分にテープを貼った。その後、一部団体などからテープをはがすよう要望があり、修正を検討していた。

信濃毎日新聞など複数紙によると、修正版では「多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われている」という記述に変更。労働者の具体的な人数を示さず、強制性の断定を避けた。加えて「必ずしも全てが強制的ではなかったなど、さまざまな見解がある」と表記した。10月中にも新たな看板に付け替えるという。

 

松代大本営 歴史を曖昧にするのか(2014年10月22日配信『信濃毎日新聞』−「社説」)

 

多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています―。

戦争遺跡である松代大本営地下壕(ごう)(長野市)の説明板に記す朝鮮人労働者らの実態は、こんな表現に変えられる。

地下壕建設の労働の強制性をめぐり論議になり、壕を管理する長野市が検討結果を発表した。「と言われている」と伝聞表現にして、決着を図った格好だ。

歴史認識に関わる問題だ。庁内検討会を3回開いただけで、新たな説明文を決めたのは拙速ではないか。

説明板は、市が1990年に壕の一部の一般公開を始めた時に設置した。建設の実態について「延べ三百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され」と書かれていた。

その「強制的に」の部分がテープで隠されているのが今夏、発覚。市が、外部から「朝鮮人の労働は強制ではなかったのではないか」との指摘を受けて、テープを貼っていたことが分かった。深い議論のない安易な対応だった。

1910年、日本は当時の韓国を植民地化した。太平洋戦争が始まると「数十万人の朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し、鉱山や土木工事現場などで働かせた」(山川出版社「詳説日本史」)。

その人たちが松代でも働かされていたことは、大本営地下壕研究の第一人者、故青木孝寿さん(元県短大教授)の著書や長野市誌、長野県史にも書かれている。

確かに「延べ三百万人」という数字には諸説あり、日本に移住した「自主渡航組」と呼ばれる朝鮮人らも働いていたことは青木さんの著書なども触れている。

市が新たな説明文に「必ずしも全てが強制的ではなかったなど、さまざまな見解があります」と追加したのは理解できる。だからといって、強制的な動員自体に疑問が生まれるものではない。

加藤久雄市長は、地下壕の建設が戦時下の国家的プロジェクトだったとして「国が責任を持って調査すべき問題。一自治体が踏み込むのは避けたい」と述べた。そうだろうか。

 

 来年で終戦から70年になる。戦争の記憶は風化が進む。だからこそ、市民と一緒になって検証しながら身近な歴史を学ぶ積極的な仕掛けをつくりたい。子どもたちの関心を引き付ける機会にもなる。

 

 市役所内の検討だけで案内板を掛け替えて終わらせてしまっては、もったいない。

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