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世界のどこに坂東のような俘虜収容所があり

 

世界のどこに松江のような所長がいたであろうか

 

板東(ばんどう)俘虜(ふりょ=捕虜。第2次世界大戦以前は捕虜を公式には俘虜〈ふりょ〉と呼んでいた)収容所(ドイツ兵の間で「模範収容所」と噂された)

 

第1次世界大戦期、日本の徳島県鳴門市大麻町桧(おおあさちょうひのき=旧板野郡板東町)に1917(大正6)年4月17日に建てられ、1920(大正9)年4月20日まで、ドイツの租借地(そしゃくち=ある国が、他国から特別の合意のうえ領土の一部を一定の期間を限ってかりた土地。19世紀末から20世紀にかけて、中国に多くみられた。租借期間中は、貸した国には潜在的な主権が存在するが、実質的な統治権は借りた国が持つ、立法・行政・司法権は借りた国に移る)であった青島(チンタオ=中国山東省、山東半島の膠州〈こうしゅう〉湾に臨む港湾都市。1893〈明治26〉年、ドイツが租借し、第1次大戦中は日本が占領したが1922〈大正11〉年中国に返還した)で、日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、香川・丸亀、愛媛・松山、徳島の俘虜収容所から約930名を統合(後に久留米収容所から約90名が移送された)、計953名を約2年10か月間収容した。

 

鉄条網の中の収容所は、甲子園球場(敷地面積5.4ヘクタール)よりやや広い5・7ヘクタールで、すぐ前にはスポーツを楽しんだり、農園として使ったりするための広場があり、これを合わせると約8ヘクタールもあった。その上、所内にはドイツ人が経営する店が80件も軒を連ねる「タパオタオ」という商店街のほか、ボーリング場や飲食物の販売店もあった。

 

 

 

 

 

唯一の問題点は、兵舎の部屋が4人で6畳ほどと狭かったことであるが、その欠点を補うために、小高い丘にはプライバシー確保のために俘虜が個人で使用できる「別荘(小屋)」を建てることも許されていた。

 

収容所長に就任した会津出身の松江豊寿(とよひさ=1872〈明治5〉年〜1956〈昭和31〉年。陸軍士官学校卒。1922〈大正11〉年に第9代若松市長。引退後は飯盛山の白虎隊墓地広場の拡張に尽力した。南洋興発を創立し、サイパン島での製糖事業に成功し「南洋開発の父」と呼ばれた松江春次は実弟)陸軍中佐が、捕虜は愛国者であって犯罪者ではないので人道に扱うべきと主張し、捕虜らの自主活動を奨励するなど、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとして有名である。特に、ドイツ人捕虜と地域の人々との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促した国際的にも高く評価されている。

 

 

 

 

捕虜の多くが志願兵となった元民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋などであったことから、収容所では、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場も有し、農園では野菜を栽培していた。

 

同時に自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を紹介した。

 

文化活動も盛んで、1918(大正7)年6月1日にベートーヴェンの交響曲第9番「歓喜の歌」が日本(アジア)で初めて全曲演奏された。

 

 

指揮・;H・ハンゼン

 

このエピソードを素材に2006(平成18)年、「バルトの楽園(がくえん)(松江豊寿には松平健)として映画化され、6月17日に公開された(「バルト」とはドイツ語で「ひげ」で、松江所長やドイツ人捕虜の生やしていたカイザー「髭」Bartげをイメージしている。なお、正式にはバールトと長く発音。また、「楽園」とはその『第九』の園という意味)

 

なお現在、映画のロケで使用されたセットを中心に、実際の収容所建造物も交えて、収容所や映画撮影時の模様を紹介している「阿波大正浪漫バルトの庭」が、徳島県鳴門市大麻町桧にある(運営は、特定非営利活動法人〈NPO〉の「ドイツ村BANDOロケ村保存会」)

 

映画のロケで使用されたセットを中心に、実際の収容所建造物も交えて、収容所や映画撮影時の模様を紹介し、また、旧ロケ村から兵舎や管理棟、印刷所など11棟を移設し、製パン所では独兵が焼いていた黒パンを再現して販売している。

 

地元民との交流の盛んに行われた

 

 

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この地は、第1次世界大戦に参加した953人のドイツ兵が、大正6年から9年まで過ごした所である。

いまもなお 、青々と生い茂っているセンダンの大木や、兵舎の基礎に使われていたレンガ積みが、そのまま残っている。

広場の中央にある石積みの橋は、当時、ドイツ兵がつくったドイツ橋を模したものである。

丘の上には、日本各地で死亡した85名のドイツ兵士の合同慰霊碑が建設されている。

ここが市民の憩いの場となり、あわせて日独友好の広場となるよう願っている。

昭和53年4月1日

鳴門市長  谷 光次

 

注;谷 光次(たにみつじ。1907(明治40)年〜2007(平成14)年)。1959(昭和34)年に鳴門市長に初当選。その後、28年間、7期に渡り鳴門市長を務めた。徳島市の病院で老衰のためで死去。享年95歳。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドイツ橋を模した橋

 

 

 

 

捕虜のドイツ人達が、すぐれた母国の土木技術を生かしてによって造られた徳島県鳴門市大麻町桧の大麻山にある大麻比古(おおあさひこ)神社(俘虜収容所から北へ約2Km。なお、徳島県徳島市明神町の大麻比古神社は、「おおまひこじんじゃ」と読む)の裏の敷地の丸山公園を流れる小さな板東谷川に架かる長さ3メートル、高さ3メートルの石積みのアーチ橋。日独両国民の友情の架け橋として大きな役割を果たしている。1919(大正8)年4月初旬に工事がはじまり、6月末に完成した。

 

 

 

 

ドイツ兵の慰霊碑&赤十字ゆかりの地

 

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(2020年1月22日配信『徳島新聞』−「鳴潮」)

 

 ソーセージの製法を日本人に教えてくれたのは、第1次世界大戦で日本軍の捕虜となった5人のドイツ職人だという。千葉県にあった習志野俘虜収容所にまつわる日独交流の逸話である

 鳴門市の板東俘虜収容所と同様、約千人のドイツ人が暮らした。19201月、ベルサイユ条約の発効を受け、全員が自由の身に。習志野市は「解放100周年」を記念してゆかりの品や写真を展示、26日には講演会を催す

 市民へのキャッチフレーズは「大正8年の青きドナウ」。その年の6月に開かれた演奏会のプログラムには、ワルツの名曲「美しく青きドナウ」があった。写真に収まるオーケストラの面々は、とても誇らしげだ

 劇団を結成し、映画館を造り、サッカーや体育祭を楽しんだ。住民には、船の模型をガラス瓶に入れた「ボトルシップ」が贈られ、友情の証しとなった

 初代所長は西郷隆盛の息子、西郷寅太郎だ。「賊軍」を率いた父のために不遇を強いられたが、ドイツ留学を経て軍人として復権した。世界を席巻した「スペイン風邪」に倒れ、ドイツ兵25人と共に命を落とした

 収容者の中には、山梨県で醸造術を伝えた「日本のワインの父」ハインリッヒ・ハムがいた。解放後も帰国せず、ソーセージ作りの指導を続けた技師もいた。彼らの面影が日本人の暮らしに息づいている。

 

【奇跡の収容所】次代に伝えるべき理想(2019年11月20日配信『福島民友新聞』―「社説」)

 

 松江豊寿[とよひさ]という会津人が残した人道主義という理想の尊さを再認識する機会となった。9日、徳島県鳴門市で開かれた鳴門市・会津若松市親善交流都市提携20周年を記念したシンポジウム。関係者が熱く語ったのは、松江が所長を務めた鳴門市の板東俘虜[ふりょ]収容所で、敵味方を超えてドイツ人捕虜と住民との間にあった友好と信頼には、相互理解の困難な今の時代にこそ見直すべき普遍的な価値があるという訴えだ。松江が残した大事なことを語り伝えるのが現代のわれわれの役割だ。

 素直にこう感じることができたのは、実際に現地を訪れてシンポの意見交換を聞き、徳島の皆さんの気持ちに触れてふに落ちたからだ。鳴門市のドイツ館には戊辰戦争で敗れた会津藩士の長男であった松江が、一定の規律のもとに商業、文化、スポーツなど捕虜の自主的な活動を許したことを示す豊富な資料が残る。収容所の遺構や捕虜の慰霊碑も保存されている。100年も前のわずか3年弱の営みが、当時の国際法が求める以上の理想を実現していた事実は、現代につながる日独友好の底流の一部をなしていた。

 「松江豊寿が遺[のこ]したもの」と題したシンポは鳴門市が主催し、会津若松市、福島民報社、徳島新聞社が共催した。泉理彦鳴門市長、斎藤勝会津若松市副市長、大石雅章鳴門教育大理事兼副学長、さらに松江の孫の松江行彦さん、副官として松江を支えた高木繁大尉の孫の高木康男さんが意見を交わした。

 行彦さんは言う。「祖父は人間の本質は同じという視点を持っていたのではないか。異文化と見るのではなく、共有する部分を大事に、敬意を払うことで収容所のマネジメントにつなげた」

 康男さんは「自国さえ良ければいいという風潮がまん延する時代だからこそ、素晴らしい国際交流があったことを大切にしてほしい。スポーツでは『ワンチーム』が注目された。共生を考えるべき時代だ」と呼び掛けた。

 人類の歴史を見れば、国家の存亡を掛けた戦いのはざまにあって、捕虜への人道的な扱いのほうがまれだ。だからこそ板東は「奇跡の収容所」と呼ばれた。

 だが、現代に生きる者が百年前の出来事を奇跡と呼び続けてはならないだろう。私たちの身近にも、人権をないがしろにし、人道にもとる行為は多々ある。目を背けず、理想を求めて声を上げなければならない。2022(令和4)年は松江の生誕150年に当たる。人間像を掘り起こし次代に伝えよう。

 

ドイツ兵慰霊碑100周年献花式(2019年8月31日配信『NHKニュース』ー「徳島」)

 

 

 

  第1次世界大戦中、徳島県鳴門市にあったドイツ兵捕虜の収容所に慰霊碑が建てられてから31日で100年を迎え、記念の献花式が行われました。
 鳴門市にあった「板東俘虜収容所」は、第1次世界大戦で捕虜となったドイツ兵の収容所で、跡地には、ドイツ兵たちが四国各地の収容所で亡くなった11人の仲間を悼むために建てた慰霊碑が残されています。
 この慰霊碑が完成してちょうど100年を迎えた31日、記念の献花式が行われ、地元住民のほか、ドイツの政府関係者などおよそ120人が参列しました。
 はじめに、ドイツ総領事館のウーヴェ・メアケッター首席領事が「収容所のドイツ兵と日本人の間にはとても親切な交流があった。日独交流のシンボルとしても慰霊碑を残してほしい」とあいさつしました。
 続いて、収容所のドイツ兵たちがアジアで初めて演奏したとされるベートーベンの「第九」などを地元の子どもたちが合唱する中、参列した人たちは慰霊碑の前に白い花を供え、遠い異国の地で亡くなったドイツ兵たちの霊を慰めていました。
 式のあと、ドイツ大使館のカーステン・キーゼヴェッター大佐は「もともと敵だった人々の間にこんな友情が生まれたことは、とてもすてきなことだ。市民の皆さんがここまで慰霊碑を大事にしてくれたことに感謝したい」と話していました。

 

ドイツ人捕虜と日本人との交流 史実基にミュージカル化 江東で28、29日上演(2018年11月1日配信『東京新聞』)

 

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日本で初めて第九を演奏したドイツ人捕虜による「徳島オーケストラと合唱団」

 

 第1次世界大戦中の1918年、徳島県に連れてこられたドイツ人捕虜がベートーベンの第九「歓喜の歌」を日本で初めて演奏した、という史実に基づくミュージカル「よろこびのうた」が11月、江東区住吉2の「ティアラこうとう」で上演される。首都圏ではあまり知られていない100年前の「歴史秘話」を知る貴重な機会になりそうだ。 

 日本は中国でドイツと交戦し、大勢のドイツ兵を捕虜にした。現在の徳島県鳴門市にあった「板東俘虜(ふりょ)収容所」には約千人が収容された。

 捕虜の史料を集めている鳴門市ドイツ館によると、待遇は比較的自由で、捕虜たちは地元の人にパンの製法や酪農、建築技術などを教えた。地元の人も「ドイツさん」と呼び、親しく交流したという。捕虜の中には楽器職人や演奏家がおり、楽隊や合唱隊もあった。こうした人たちが1918年6月にコンサートを開き、望郷の思いや住民への感謝の気持ちを込め、第九を全楽章演奏した。

 

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ドイツ人捕虜と日本人の交流を描いたミュージカル「よろこびのうた」の一場面

 

 ミュージカルはこうした史実をもとにしている。演じるのは、愛媛県を拠点に活動する劇団「坊っちゃん劇場」の13人。物語はドイツ人兵士と、地元老舗旅館の娘のロマンスを中核にしながら進む。脚本はNHKドラマ「マッサン」で知られる羽原大介さん、演出は少年隊の錦織一清さん、音楽監督・作曲はシンガー・ソングライターの岸田敏志さんが担当した。

 坊っちゃん劇場企画開発室マネジャーの岡本美智子さんは「100年前の四国で、日本人とドイツ捕虜の心を震わせるような交流があったことを、一人でも多くの東京のみなさんに知ってほしい」と話している。

 上演は11月28、29日。両日とも2回公演。チケットはS席7千5百(前売り7千)円、A席6千5百(同6千)円。問い合わせは「坊っちゃん劇場」=電089(955)1174=へ。

 

(2018年10月21日配信『徳島新聞』−「鳴潮」)

 

 ねえ、母さん、やるだけの価値があるんだろうか? 舞台を見るたび学生時代に読んだ「演劇―なぜ?」(晶文社)の一節が思い浮かぶ

 舞台に関わる人たちは常に意識しているはずだ。書きたいテーマか、役者は演じきれるか、観客に届くだろうか…

 鳴門市大麻町にあった板東俘虜(ふりょ)収容所のドイツ兵捕虜によるべートーベンの「第九」アジア初演から100年。当時の交流を描いたミュージカル「よろこびのうた」を徳島市のあわぎんホールで見た。捕虜と老舗旅館の一人娘の恋物語を中心にした創作だが、史実や舞台をより近くに感じたのは小欄だけではあるまい

 クライマックスでは<フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン・・・>と、観客も一つになって歌った。カーテンコール後も拍手が鳴りやまず、再び主役が舞台へ

 一人娘の父を演じた中村元紀さんは「演者だけでは成り立たない舞台。お客さまと空間を共有し、シンパシーを感じてもらえるのがうれしい」。そんな空間のすぐそばにあるのは、収容所を人道的に運営した松江豊寿(とよひさ)所長の住まい跡。松江が信条としていた「武士の情け」と刻んだ碑が舞台を守護するように見守っていたに違いない

 涙が頬を伝いながらも、笑顔の人がどれほどいたか。人も古里もいとおしくなる舞台。「よろこびのうた」徳島公演はきょうまで。

 

 

(2018年9月25日配信『徳島新聞』−「鳴潮」)

 

 鳴門市大麻町の市ドイツ館前に立つ胸像と対を成すように、故郷の福島県会津若松市にも記念碑が建立された

 鳴門市にあった板東俘虜収容所で所長を務めた松江豊寿を顕彰する碑だ。第1次世界大戦中、ドイツ兵捕虜を人道的に処遇したことで知られる。その捕虜によってベートーベンの「第九」が演奏された

 除幕式は、折しも会津藩が降伏し福島県内の戊辰戦争が事実上終結してから150年に当たった。式を待っていたかのように降り続いた雨がやんだ。幼稚園児による白虎隊剣舞に拍手が起きた。「義に死すとも不義に生きず」という矜持が受け継がれた会津らしさを見る思いもした

 碑は松江の人類愛を象徴する地球をモチーフにした球形で高さ2メートル。碑文には寛容さと博愛、仁慈の精神を忘れなかった松江の姿がにじむ

 「第九」アジア初演から100年がたった鳴門市もそうだが、戊辰戦争から150年を迎えた会津若松市も新たな一歩を踏み出した。大切なのは未来に何を刻むかだ

 碑は、市民ホール「會津風雅堂」前から鳴門に向かって立つ。その風雅堂できのう、「会津第九演奏会」が開かれて、鳴門「第九」を歌う会のメンバーも歌った。松江の縁で両市が親善交流都市になり来年20周年になる。一対になって歌い継いでいく。平和の道から決してそれることがないよう。

 

【松江豊寿記念碑】人の心をつなぐ(2018年9月20日配信『福島民報』−「論説」)

 

 会津出身で第九代若松市長を務めた松江豊[とよ]寿[ひさ]の記念碑が会津若松市の會津風雅堂前に建つ。松江は古里の発展に尽くしたばかりでなく、どんな相手をも尊重する友愛の精神を貫いた人物として知られる。22日に行われる除幕式には、松江の功績と精神をたたえ、関係者が集う。広く世界に伝えるシンボルとして期待がかかる。

 松江は旧会津藩士の長男として生まれた。陸軍の軍人となり、第一世界大戦中は、徳島県鳴門市の板東俘[ふ]虜[りょ]収容所長としてドイツ人捕虜に人道的に接した。自由な生活を許し、周辺地域にドイツの技術や文化をもたらした。ベートーベン作曲「交響曲第九番合唱付」が、捕虜によって日本で初めて演奏された。エピソードは映画「バルトの楽[がく]園[えん]」の公開とともに有名となった。

 今年は「第九」初演から百年、会津では戊辰戦争百五十周年の節目が重なる。会津若松商工会議所など地元団体による松江豊寿記念碑建設事業実行委員会が設立され、建設費用を広く募金してきた。これまでに約70の団体、個人から寄付が寄せられた。記念碑のデザインは松江の精神が世界に広がるよう、地球をモチーフとしている。地元企業が開発した特別な漆塗料も使っている。

 除幕式には、泉理彦鳴門市長はじめ徳島県からの関係者が出席する。鳴門市では6月に百周年記念事業が展開された。市内には松江の銅像が建立された。鳴門市では、収容所の関連資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録しようと、動きが活発化している。銅像と記念碑の完成を契機に、松江を世界に発信する取り組みの輪を広げてほしい。

 24日には、会津第九の会主催の演奏会が會津風雅堂で予定されている。福島空港利用のチャーター便で、徳島からも合唱の出演者が多数訪れる。1995(平成7)年の鳴門ライオンズクラブ(LC)と会津若松鶴城LCの友好クラブ締結から始まった交流が、大きく拡大するチャンスでもある。多くの人と人の心をつないでいくのは、分け隔てなく人と接する松江の精神を受け継いでいくことそのものと言える。

 うれしいのは、松江の子孫と南洋開発でシュガーキングと呼ばれた弟春次の子孫合わせて8人が、家族と共に除幕式に駆け付けることだ。松江との直接の記憶が残っている子孫も会津を訪れる。松江の素顔に触れる好機にもなりそうだ。

 

鳴門の花火1万発 「第九」100年記念し、例年の倍(2018年6月26日配信『徳島新聞』)

 

 鳴門市阿波おどり・納涼花火大会実行委員会は、今夏の花火大会(8月7日)で例年の倍の1万発を打ち上げる。ベートーベン「第九」アジア初演100周年を記念した。1万発は四国最大級で、大鳴門橋架橋30周年を記念した2015年に続いて2度目。

 花火大会は、同市撫養町の撫養川沿いで午後7時45分から同8時50分まで行う。直径130メートルの大輪が開く4号玉やスターマインが夜空を彩る。

 観覧席(大人千円、小学生未満500円)は1300席を用意。7月1日午前10時から市うずしお観光協会で入場券を販売する。

 ボートレース鳴門に臨時駐車場(1台500円)を設け、会場近くまでシャトルバスで結ぶ。

 昨年は市制70周年を記念して7千発の打ち上げを企画したが、台風接近で中止した。残念がる声が多かったため、今年は予備日を8月31日に設けた。

 

「第九」初演100年(2018年6月10日配信『京都新聞』−「凡語」)

 

 「第九」の名で親しまれるベートーベンの交響曲第9番全曲を日本で初演したのは、1918年6月1日、徳島県鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所のドイツ人捕虜だった。100周年に当たる今月1日、収容所跡地近くで当時を再現した演奏会が開かれた

▼第1次世界大戦中、日本は中国・青島のドイツ軍を攻撃した。5千人の捕虜が全国で収容されたが、板東では新聞発行や活発な文化活動が許された

▼異国で聴いた第九の調べに捕虜たちはどれほど強く平和を願ったことだろう。一人は本国の母親にはがきを送り「何とも言えない安らぎ、慰めが流れ出てくる」と記した

▼「あなた(歓喜)の魔力は再び結びつける 時流が厳しく分け隔てたものを すべての人間は兄弟となる あなたの柔らかな翼のとどまるところでは」。シラーの詩に基づく「歓喜の歌」。平等、友愛、希望…歌い手のさまざまな思いが込められる

▼日本では年末の風物詩だが、世界では東欧革命、ベルリンの壁崩壊など政治的な局面で歌われた。五輪ではかつて東西ドイツの共通国歌に使われ、欧州連合の歌(歌詞なし)でもある

▼初の米朝首脳会談が近づく。朝鮮半島非核化の行方は予断を許さないが、南北分断の解消や地球規模の核廃絶につながるなら、歓喜の歌が世界に響くだろう

 

「第九」鳴門初演100年;日独結ぶ、友愛の絆 収容所史実、次世代につなぐ 鳴門で記念式典(2018年6月2日配信『毎日新聞』−「徳島版」)

 

記念式典で徳島県鳴門市の泉理彦市長(右)に100年前の演奏会プログラムを手渡すペトラ・ボーナーさん=同市内で

 

捕虜の子孫ら100人

 鳴門市の板東俘虜(ふりょ)収容所でのベートーベン「第九」アジア初演から100年を迎えた1日、市内では当時のドイツ人捕虜の子孫など約100人の関係者らが集まる記念式典があった。泉理彦市長は冒頭で「鳴門第九や友愛の史実が世界中に発信され、末永く温かい国際交流が続いてほしい」と話し、日独を結ぶ収容所の史実を次なる100年につなぐ決意を新たにした。

 記念式典では、独日協会連合会のルプレヒト・フォンドラン名誉会長が「板東の地では戦争の混乱が平和へと姿を変えた。板東で受け継がれてきた記憶には価値がある」とあいさつした。また、100年前に第九が初めて演奏された際のプログラムなどをドイツ兵の孫のペトラ・ボーナーさんが寄贈し、泉市長が受け取った。ボーナーさんの祖父で収容所内の新聞「ディ・バラッケ」編集部員だったグスタフ・メラーさんが所有していたもので、ボーナーさんは「祖父は絵やデザインを描くのが好きで、収容所で技術を育むことができた。彼の絵画はここに残されるのが望ましい」と語った。

 レセプション会場では、子孫のステファン・プフルーガーさんが手紙を披露。収容所で亡くなったドイツ人を祭る慰霊碑を守ってきた高橋敏夫さん(81)らに宛てた手紙で、「慰霊碑を守ってくださることは、尊敬と友情、平和の実践例を示している。世界はあなた方のような人をもっと必要としている」と記されていた。高橋さんは体調不良で出席がかなわなかったが、朗読を聞いた子孫らの中には涙を見せる姿もあった。

 続いて認定こども園IZUMI(鳴門市)の子ども達が第九の第4楽章「歓喜の歌」などを披露すると、参加者らは笑顔で聴き入った。子孫のフレア・エックハルトさんは「素晴らしい歌だった。小さい頃から第九を大事にしてくれてうれしい」と表情をほころばせた。

 ドイツ人捕虜を人道的に扱い「第九」が初演される礎を築いた松江豊寿所長の孫、行彦さん(71)は「ドイツ兵子孫の皆さんから話を実際に聞き、感動した。人を全面的に信頼する祖父の信念が、文化を越えて理解してもらえていることを実感した」と穏やかな表情で話していた。

 

除幕された松江豊寿所長の銅像=徳島県鳴門市大麻町の市ドイツ館前広場で

 

第54回徳島新聞賞 努力と挑戦が県民励ます(2018年6月2日配信『徳島新聞』−「社説」)

 

 第1次世界大戦のさなか、ベートーベンの交響曲「第九」がアジアで初めて鳴門市で演奏されたことは、徳島が誇る史実である。

 きのうでちょうど100年。鳴門市の第九演奏会は、全国から注目を集めるイベントとして定着している。

 記念すべき節目の年に、認定NPO法人鳴門「第九」を歌う会が、第54回徳島新聞賞の大賞に輝いた。心から喜びたい。

 歌う会が設立されたのは1981年。翌年、鳴門市文化会館の落成記念として第九演奏会が始まった。

 特筆すべきは、出演者としてだけでなく、演奏会の運営も担ってきたことである。参加募集や会場設営はもちろん、指揮者やソリストの選考まで行っている。大変な努力が要るだろう。

 89年には全国の合唱団に呼び掛け、第九を歌う会の連合会を発足させた。さらに、鳴門市の姉妹都市であるドイツ・リューネブルク市への「里帰り公演」を実現させるなど、第九を縁に親善交流の輪を広げてきた。

 こうした取り組みは、市民合唱団の理想的な在り方を具現化したものと言えよう。

 きょうとあす開かれる演奏会にはドイツ、中国、米国の合唱団も加わる。分断と不寛容の風潮が漂う昨今である。平和と融和のメッセージを鳴門から発信してほしい。

 奨励賞はNPO法人アクア・チッタ、特別賞はラフティングチームのザ・リバーフェイスに、それぞれ贈られた。

 奨励賞のアクア・チッタは2005年から、徳島市の新町川沿いにある万代中央埠頭(ふとう)で清掃活動や屋台飲食、水産市、音楽ライブなどのイベント開催に取り組んでいる。

 川べりの古い倉庫をおしゃれに改修し、一帯を魅力ある空間へと変える試みは、特に若い人たちを引き寄せた。県の規制緩和に結びついたことで常設店舗や事務所も増え、にぎわいを創出している。

 「水都」を標榜(ひょうぼう)する徳島市のまちづくりに、今後も大いに貢献してもらいたい。

 特別賞のザ・リバーフェイスは、三好市などの吉野川上流で昨年10月に開かれたラフティング世界選手権での総合優勝が見事だった。

 この競技の世界大会の日本開催は初めてである。ラフティングの醍(だい)醐味(ごみ)と吉野川の魅力を世界に伝えた功績は、大いにたたえられる。

 メンバーは吉野川を愛し、県外から三好市に移住してきた。彼女たちの熱意と挑戦が地域を動かし、世界大会開催への道を開いた。吉野川が国内外から年間4万人も訪れるラフティングスポットとなったのも、チームの存在と活動があったからこそである。

 本県は人口減少などの深刻な課題に直面しており、将来展望が描きにくい。

 郷土の活性化を旗印とした3者の活動や成果は、県民の励みとなろう。改めて敬意を表すと共に、一層の活躍に期待したい。

 

(2018年6月1日配信『産経新聞』−「産経抄」)

 

ベートーベンの「交響曲第9番」が、ウィーンで初演されたのは、1824年の5月だった。すでにほとんど耳が聞こえなかったベートーベンは、聴衆の拍手に気づかず、作品の出来栄えを確認することもかなわなかった。

▼この曲はやがてドイツのみならず、「人類の遺産」として世界中で愛されるようになる。とりわけ日本では年末の風物詩として、毎年100回を超える演奏会が開かれる。「第九」にとって、第二の故国といえるだろう。

▼その原点をたどると、第一次世界大戦の最中、徳島県鳴門市に開設された板東俘虜(ばんどうふりょ)収容所にいきつく。中国・青島で日本軍の捕虜となったドイツ兵約4700人のうち、千人が収容されていた。

▼所長の松江豊寿(とよひさ)は、ドイツ人捕虜の待遇に心を配り、地元民との交流を進めたことで知られる。そのために、軍上層部との衝突も辞さなかった。会津藩士の家に生まれた松江は、父親から戊辰戦争における会津の屈辱を聞かされて育った。だからこそ、ドイツ人捕虜に対して「武士の情け」を示し続けた。

▼収容所内では、パンやソーセージが作られ、スポーツや芸術活動も盛んだった。その一つとして、大正7年6月1日に演奏された「第九」が、日本いやアジアでの初演とされる。45人編成のオーケストラに4人の独唱と約80人の合唱団で構成されていた。当然ながら、女声だけは望むべくもなかった。

▼ちょうど100年となる本日、収容所跡地近くに建設された鳴門市ドイツ館で、当時をそっくりそのまま再現する演奏会が開催される。捕虜たちが望郷の念にかられ涙を浮かべながら歌った「歓喜の歌」は、今や欧州全体を象徴する歌となった。初めて聞く日本人の心に、どのように響いたのだろう。

 

第九初演から100年 「板東の記憶」継承誓う(2018年6月1日配信『徳島新聞』−「社説」)

 

 100年前の1918年6月1日、鳴門市大麻町にあった板東俘虜収容所でドイツ兵捕虜たちがベートーベン「第九」交響曲全楽章を奏で、歌声を響かせた。日本で最も知られたクラシック音楽の一つ、「第九」。この日の演奏がアジアでの初演だった。

 人類愛、世界融和をうたう第4楽章の合唱「歓喜の歌」が敵国の収容所で演じられた史実を、鳴門とドイツの住民は絆を強めながら語り継いできた。この友好の輪を発展させつつ次代につなぐ。これが今を生きる私たちの役割だ。

 収容所では人道主義に徹した松江豊寿所長(1872〜1956年)の運営方針のもと、捕虜たちは音楽や演劇、スポーツなどに活発に打ち込め、生産活動も認められた。音楽指導など、住民と捕虜との交流も生まれた。

 鳴門市では行政と市民が協力し、地域の財産と言っていい、この歴史を大切にしてきた。1972年にはドイツ館を建設、1年交代で使節団を派遣し合うドイツ・リューネブルク市との交流は44年に及ぶ。捕虜の子孫とも交流を深めてきた。82年に始まった演奏会は今年で37回を数え、毎年、全国から人が集う。

 第九の持つ意義がこの史実の価値を高めている。

 「おお友よ」と始まり、「全ての人々は兄弟になる」「抱き合おう、世の人々よ」と続く「歓喜の歌」からは、人類愛のメッセージが読み取れる。89年のベルリンの壁崩壊を祝う記念コンサート、98年の長野冬季五輪など、国内外の節目で演奏されてきた。その多くは、人々の心をつなごうとする場面だった。

 世界的指揮者の佐渡裕さんは2011年3月26日、東日本大震災の被災地を思い、第九のタクトを振った。

 「苦しみや悲しみを背負っているからこそ、人と人とのつながりに、心の底から『フロイデ(歓喜)』と叫ぶことができる」。本紙1面連載「第九永遠なり」の取材に、そう言葉を寄せた。

 歓喜の時も、苦難の時も、第九は人々と共にあった。世界に通じる普遍的な文化遺産と言える。

 しかし、板東の史実を残した日本とドイツは、共にその後、次の大戦へと突き進み、敗戦国となった。

 1世紀たった今も、世界はテロや紛争に脅かされている。板東をはじめ、2度の大戦の教訓はどこに行ってしまったのか。

 鳴門の第九は、まだ磨く余地がある。県教委や鳴門市がドイツ側と連携して取り組むユネスコ「世界の記憶」(世界記憶遺産)への登録も実現してほしいし、合唱指導を含め学校現場での第九に関する教育の充実も、次代に継承するためには欠かせない。

 全ての人は兄弟に―。現実は程遠く、理想にすぎないかもしれない。だが今こそ板東に学びたい。第九初演の地から、世界に何を発信できるのか。自問しつつ、次の100年への一歩を踏み出したい。

 

(2018年6月1日配信『徳島新聞』−「社説」)

 

コウノトリの「百」と「歌」の巣立ちも、故障していた「ばんどうの鐘」が再び鳴り始めたのも、きょうという日に合わせたかのようである

 鳴門市大麻町にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜がベートーベンの「第九」を演奏してから100年を迎えた。人と人の縁ほど不思議なものはない。「第九」は敵と味方を結んだ

 板東の地で生まれ、育まれてきた絆。その歴史を知っていれば、初対面でも、百年の知己のように思えよう。日独で共通する言葉は「フロイデ(歓喜)」である

 シンポジウムでは、先人が残した目に見えない遺産を、後世にどう引き継ぐのかを話し合う。「人はパンのみにて生くるものにあらず」。収容所で捕虜は、どう人間らしく生きようとしたのか。心の飢えを満たすことに腐心した跡をたどりたい

 福島県会津若松市出身の松江豊寿所長は人道主義に徹し、温かく遇した。古里からも、ドイツからも関係者が集う。武士の情けや、敗者へのいたわりを大切にした松江。銅像の除幕式もある。大きな曲がり角にあるこの時代を見守ってくれるだろう。愚者になるな、賢者であれと戒め、励ましながら

 鳴門市では、記念すべき「第九」演奏会が開かれる。共に歌おう。平和を喜ぶようにコウノトリが舞い、友愛の証しである鐘が鳴る。日独の懸け橋よ、永遠なれ。

 

(2018年6月1日配信『高知新聞』−「小社会」)

 

青地に12個の星が円を描く欧州連合(EU)の旗「欧州旗」。国際会議などでおなじみだろう。星の数は加盟国に関係なく、円は欧州市民の団結と調和を表しているという。

 「EUの歌」もある。多くの人がよく耳にしている曲だ。ベートーベンが作曲した「交響曲第9番」の「歓喜の歌」の主題部分。自由と団結という統合された欧州の理想を表現しているとされる。公式行事の際にはあのドイツ語の歌は付かず、楽器による演奏のみのようだ。

 その第9がアジアで初めて演奏されたのは第1次世界大戦中の1918年6月1日。きょうで100年になる。中国戦線で捕虜となったドイツ兵が徳島県鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所で演奏した。母国の偉大な作曲家の楽曲は捕虜生活の応援歌だったに違いない。

 例年の演奏会とは異なり、鳴門市ではきょう、初演当時を再現する「よみがえる『第九』演奏会」が開かれる。開演時間や演奏人数など全てをよみがえらせるという。地元住民に「ドイツさん」と親しまれた世界の再現でもある。

 EUの歌を巡っては、オーストリアの作曲家がラテン語による歌詞を提案しているという。かつて多くの欧州諸国で使われていた共通語だ。歌詞には「多様性における統一は、世界の平和に貢献するだろう」とある。

 欧州だけの話ではない。第9の終楽章は「全人類が同胞になる」という人道主義の理想を歌い上げているそうだ。

 

年の瀬を彩るベートーベンの交響曲第9番…(2018年6月1日配信『西日本新聞』−「春秋」)

 

 年の瀬を彩るベートーベンの交響曲第9番。合唱部分の「歓喜の歌」が有名だ。アジアで最初に演奏されてから、きょうで100年になる。場所は徳島県鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所

▼第1次大戦中、中国で捕虜になったドイツ兵約千人が暮らしていた。「世界のどこにバンドーのような収容所があるでしょうか」。当時の捕虜の一人はこう述懐したという

▼劣悪な環境や捕虜に過酷な労働を強いる収容所が珍しくなかった当時。板東では、ドイツのパンやソーセージ、菓子などを作って売る商売や新聞の発行、スポーツ、音楽などの活動が認められた。住民との交流も活発に行われた

▼四国霊場1番札所のこの地には巡礼者をもてなす「お接待」の習慣が根付いていて、住民は捕虜を「ドイツさん」と呼んで親しんだという。板東が「模範収容所」となったのは、よそ者に寛容な土地柄に加え、当時の所長、松江豊寿の力が大きかった

▼松江は会津藩の出身で、戊辰(ぼしん)戦争後は「朝敵」の汚名を受けて苦しい生活を送った。それだけに「敗者の気持ちが分かる人」と伝わる。軍部の「捕虜に甘い」との非難にも「彼らも祖国のために戦ったのだから」と人道的な収容所運営を貫いた

▼第9は、人々が手を取り合って苦しみを乗り越える喜びを歌う。松江の志と板東の歴史とも響き合おう。鳴門市ではきょう、当時の演奏人数などを再現した記念演奏会が開かれる。

 

(2018年5月31日配信『山形新聞』−「談話室」)

 

▼▽指揮者の佐渡裕(ゆたか)さんには7年前の忘れ難い思い出がある。東日本大震災の発生3日後、母国が被った打撃の大きさ故に音楽家として無力感に襲われていた頃だった。ドイツの名門オーケストラから演奏の依頼を受けた。

▼▽曲はベートーベンの交響曲第9番である。被災地にドイツからも祈りと希望を届けようと、人々が行動を起こしてくれたのだった。本番は2011年3月26日、デュッセルドルフ。楽団と合唱団が演奏を終えると長い黙(もくとう)の後、大歓声が起こった。「日本へのエールでした」

▼▽この第9の日本初演からあすで100年になる。第1次世界大戦中の1918年6月1日、徳島県鳴門市の板東俘虜(ふりょ)収容所でドイツ兵らが奏でた。捕虜の尊厳は守られ芸術活動もできた。戊辰(ぼしん)戦争で敗れた旧会津藩出身の松江豊寿所長が敗者の機微に通じていたからという。

▼▽1日には収容所跡地近くで、100年前の開演時間や奏者数を再現しながら演奏される。「分け隔てられていたものが歓喜の魔法で再び結び付き、全ての人はきょうだいになる」。第9が高らかに歌い上げる理想は、混乱と分断が目立つ世界で今なお輝きを失わないはずだ。

 

(2017年12月9日配信『河北新報』−「河北春秋」)

 

年の瀬が迫る東北の各地に『喜びの歌』が響く。ベートーベンの第9交響曲。住民の大合唱が街々を一つにつなぐ。第9の演奏会が師走の風物詩になったのは戦後。来年は国内初演からは100年になる。場所は収容所だった

▼第1次世界大戦で中国にいたドイツ軍が日本に降伏し、1917年春、「板東俘虜(ふりょ)収容所」(現徳島県鳴門市)に約1000人が入った。捕虜は「祖国愛で敢闘した勇士」と遇され、パン作りや大工、印刷、楽団などの仕事、住民との交流も自由に許された

▼「世界のどこに、あんな所長がいたか」と語られたのが松江豊寿(とよひさ)大佐。父は戊辰(ぼしん)戦争に敗れた旧会津藩士で、同胞の苦難に学んで「敗軍にこそ情けを」との思いを収容所に注いだ。感銘した捕虜たちが翌年6月1日に演奏したのが、人間愛をうたう第9だった

▼「今の世界は分断と反目のさなか。松江の心を子どもたちに伝えたい」と語るのは仙台市の水彩画家古山拓さん(55)。初演から100年を記念する絵本『「第九」 未来への標(しるべ)』(仮題)の共作を、と地元徳島の児童文学作家から声が掛かった

▼「松江と同じ東北の画家に」との言葉を熱く感じ、収容所の人々の姿を絵によみがえらせている。刊行は来年3月。「『喜びの歌』が流れ出すような絵本に」と意気込む。

 

【松江豊寿記念碑】後世に伝え続けたい(2017年10月30日配信『福島民報』−「論説」)

 

 会津人の心に残る偉人の一人である松[まつ]江[え]豊[とよ]寿[ひさ]を顕彰する記念碑建設事業の実行委員会が発足した。来秋の完成を目指し、幅広い寄付を募る。会津若松市は戊辰戦争から150周年となる来年、記念の各種事業を進める。松江が所長を務めた徳島県鳴門市の板東俘虜[ふりょ]収容所で、ドイツ人捕虜によるベートーベン作曲の交響曲第九番合唱付きが日本で初演されてから100年にも当たる。市内の會津風雅堂を予定地とする記念碑の建立は時宜を得ており、二つの節目を盛り上げる事業にしたい。

 松江は会津の礎を築く多くの事業に関わっている。1922(大正11)年に、第九代の若松市長に任命された。3年弱の在任だったが、市長として市制施行25周年の祝賀事業を取り仕切った。上水道敷設の議会決定にも関わり、近代的な市街地整備に尽力した。市長退任後も会津弔霊義会の専務理事として、白虎隊士の眠る飯盛山拡張に心血を注いだ。当時の根津嘉一郎東武鉄道社長、親友の山川健次郎東大総長の協力を取り付け、自らも工事の作業に当たるなどして、現在の飯盛山の姿を築いた。

 松江は明治初期に旧会津藩士の家に生まれた。陸軍士官学校を卒業後、軍人としても会津人の信念を貫いたエピソードがいくつもある。

 松江は徳島県鳴門市で早くから高い評価を受けていた。2006(平成18)年に製作された映画「バルトの楽園」は、ドイツ人捕虜に人道的に対応した姿を描き、注目を集めた。鳴門市の板東俘虜収容所の所長を務めていた松江と捕虜の間には、固い信頼関係があったことがうかがい知れる。「第九」の日本初演は松江の人柄によって実現したといえる。

 こうした松江の功績について、地元会津でも知らない人が多い。実行委員会の発足と募金活動は、松江を広く知ってもらう機会にもなるだろう。戦争などで敵対せざるを得ない状況でも、相手の立場を尊重する精神は、複雑化する世界に発信する価値があるのではないか。

 発足した実行委員会は、会津若松市や会津弔霊義会、飯盛山商店会といった松江に関係の深い組織、団体や会津若松商工会議所、会津若松観光ビューロー、会津青年会議所、会津鶴ケ城を守る会など商工業や観光、若者の団体も加わる。初会合では、デザインや材料などに会津らしさを取り入れる案も提示され、多くの人に親しまれる記念碑を目指すこととなった。松江の精神を末永く後世に伝え続けていきたい。

 

今年3月、ウィーンで東日本大震災の復興支援コンサートがあった(2017年6月25日配信『西日本新聞』−「春秋」)

 

 今年3月、ウィーンで東日本大震災の復興支援コンサートがあった。ベートーベンの交響曲第9番。苦しみを乗り越えようと歌う「歓喜の歌」を、日本とオーストリアの市民合唱団にウィーン少年合唱団も加わって合唱した

▼欧州では第9をコンサートホール以外でも耳にすることができる。先月のフランス大統領選で欧州連合(EU)推進派のマクロン氏が勝って支持者2万人以上が集まったルーブル宮殿にも流れた

▼19世紀前半にベートーベンが耳の不自由な中で作り出したこの曲は、欧州だけでなく世界各地で、苦難のあとの喜びを共有する人々と共に今もある

▼日本での第9演奏会や合唱イベントは、日本独特の味付けがなされて歳末の風物詩になったが、年の瀬以外でも企画される。なかでもよく知られているのが毎年6月に徳島県鳴門市で開かれている「鳴門の第九」だ。今年も先日開かれた

▼第1次世界大戦中、鳴門にあった板東俘虜(ふりょ)収容所に連れてこられたドイツ兵捕虜たちが演奏したのが日本、そしてアジアにおける最初の第9演奏とされる。1918(大正7)年6月のこと

▼鳴門の翌年、福岡県久留米市にあった俘虜収容所のドイツ兵捕虜が市内の女学校で演奏したのが日本人向けの初演奏になった。24年には福岡市記念館で九大フィルが…、と演奏史は続く。鳴門初演から来年で100年になる。演奏、合唱の輪が広がりを増すだろう。

 

板東収容所資料  交流の証しを記憶遺産に(2017年6月2日配信『徳島新聞』−「社説」)

                             

 第1次世界大戦中、鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所で紡がれた日独交流の物語を語り継いでいくのは、私たちの務めである。

 徳島県の飯泉嘉門知事とドイツ・ニーダーザクセン州のシュテファン・ヴァイル首相らが、収容所の関連資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に共同で登録申請することを正式に決めた。

 共同での申請に伴って、ドイツ兵捕虜が家族に宛てた絵はがきなどリューネブルク市文書館が保有する50点以上が資料に加わる。申請資料は、捕虜がアジアで初めてベートーベン「第九交響曲」を演奏した際のプログラムや収容所内で発行された新聞などと合わせ、約700点に上る見通しである。

 ヴァイル首相は「敵から友人へと交流を発展させた例は他にない。一緒に登録を目指したい」と述べた。テロや紛争が絶えない中で、記憶遺産にすることは意義がある。平和の尊さを象徴するものになるはずだ。

 登録申請は、2カ国以上が共同で行う場合、国内選考を経ずにユネスコに直接申請できる。今後は、県と鳴門市、ニーダーザクセン州、リューネブルク市の4者がいかに協力し、記録物の貴重さを理解してもらえる資料を作成するかが鍵になるという。

 2018年春に申請し、19年度の登録を目指す。しっかりと連携し、実現にこぎ着けてもらいたい。

 収容所は1917年4月から3年間設置され、約1千人のドイツ兵が収容されたが、そこには収容所とは思えない自由があったようだ。

 福島県会津若松市出身の松江豊寿所長による人道的な運営の下、捕虜たちは兵士になる前のそれぞれの技能を生かし、パン作りや野菜栽培、印刷物の発行などを進め、地元にドイツの技を残した。

 スポーツや演劇、音楽活動なども謳(おう)歌(か)し、住民と交流を深めた。それが基礎となり、「第九」の演奏会が毎年開かれている。

 今月4日に鳴門市文化会館で開かれる演奏会は、「第九」がアジアで初演されてから、2018年で100周年となるのを前にしたプレイベントと位置付け、鳴門と「第九」の関わりをPRする。

 収容所があったからこそ、徳島での日独交流が生まれた。登録申請を機に、資料の保存、収集、活用にさらに力を入れなければならない。

 記憶遺産は、世界の重要な遺産の保護と振興を目的に登録が始まった。「アンネの日記」「マグナカルタ」などが登録され、国内では「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」「慶長遣欧使節関係資料」などが選ばれている。

 板東俘虜収容所の関連資料にも、後世に伝えていかなければならない歴史の「証人」といえる記録がある。

 国境を超えた人間愛や絆の物語を、ぜひ国内外に発信していきたい。

 

ベートーベン『第九』演奏会、ドイツから指揮者(2017年5月30日配信『徳島新聞』)

 

ベートーベン『第九』演奏会、ドイツから指揮者 

[上]演奏会で初めて指揮をするトーマス・ドーシュ氏(鳴門「第九」を歌う会提供)

[下]全国の合唱団が高らかに歌い上げるベートーベン「第九」交響曲演奏会=2014年6月、鳴門市文化会館

 

第34回「ベートーベン『第九』交響曲演奏会」(鳴門市、認定NPO法人鳴門「第九」を歌う会主催)が6月7日、鳴門市文化会館で開かれる。第1次世界大戦中、板東俘虜(ふりょ)収容所(同市大麻町)のドイツ人捕虜がアジアで初めて第九を演奏してから97年。市は本年度を100周年へ向けたカウントダウン開始年と位置づけており、姉妹都市ドイツ・リューネブルク市から指揮者を招くほか、8日には大塚国際美術館で特別公演を催す。
 指揮者は、リュ市の市立劇場で音楽監督を務めるトーマス・ドーシュ氏。「第九」交響曲演奏会に同劇場から指揮者を招くのは、2002年に当時の音楽監督だったウルス・ミハエル・トイス氏以来、13年ぶり2人目。特別公演でもタクトを振る。
 ドーシュ氏は2日に鳴門入り。4日に鳴門西小学校で楽器の演奏や合唱の指導を行うほか、9日までの滞在中、歌う会や徳島交響楽団が催す懇親会に出席して交流を深める。
 演奏会は午後1時半から。県内の4合唱団172人を含む全国51団体の577人と、ドイツから女性1人が出演。ソプラノの西本真子、テノールの谷浩一郎の両氏ら全国公募で選ばれたソリスト4人と共に歓喜の歌声を響かせる。
 板東俘虜収容所の松江豊寿所長の出身地で、鳴門市の合唱団と15年間交流を続ける福島県会津若松市の合唱団「会津第九の会」の小熊慎司会長ら3人もステージで高らかに歌う。
 特別公演は「美術館でなるとの第九」と銘打ち、大塚国際美術館のシスティーナホールで午前10時半に開演。27団体190人が第九を歌い、ソリストがオペラの名曲「トスカ」などを披露する。

(2017年3月26日配信『徳島新聞』−「鳴潮」)

 

「いらっしゃーい」。このあいさつを聞いただけでも「大阪まで落語を聞きに来たかいがあった」と思った。そんな記憶がある。上方落語家の桂文枝師匠である

 というより、前名の三枝さん、いや、くだけた調子の愛称「三ちゃん」とも呼んでみたい。それほど親しみの持てる落語家だ。と書けば「前置きが長い」とお叱りを受けそうだが、演題に入る前の枕が巧みなことも文枝さんの持ち味である

 「こないだ…」。世間話かなと思って聞いていると、いつの間にか本題の創作落語が始まっていた。笑わせ、ハラハラさせ、時にほろりと涙も誘う。独特の世界に引き込まれる

 発想豊かな創作落語は文枝さんのライフワークで、271作に上る。そこに、鳴門市の依頼で「鳴門第九物語」が加わる。板東俘虜(ふりょ)収容所でベートーベンの「第九交響曲」がアジアで初めて演奏されたのは1918年6月だった

 松江豊寿(とよひさ)所長が人道的に処遇したので、捕虜たちは心置きなくドイツ音楽を楽しめた。映画でも、人情味にあふれる松江の姿が描かれていた。文枝さんの「鳴門第九物語」やいかに

 知名度が抜群の人気落語家は5月に、鳴門市の独演会で「第九」を語るという。来年は初演から100年。文枝さんの至芸に、松江所長と捕虜たちが雲の上で腹を抱えて笑い、泣く。私たちもまた渦の中に。

 

百年の響き(2016年9月17日配信『福島民報』−「あぶくま抄」)

 

 欧州の夏は音楽の季節でもある。オーストリアのザルツブルク、ドイツのバイロイトなどでクラシック中心に多くの音楽祭が繰り広げられる。英国では100年以上続く最大の祭典「BBCプロムス」が先週まで催されていた。

 8週間、日替わりでプログラムが組まれ、最終夜は聴衆も一緒に「希望と栄光の国(威風堂々)」などを大合唱する。紳士、淑女が国旗を振り声を張り上げ、熱狂の渦となる。在英県人のファンも多い。「まさにお祭り。英国だけでなく世界の国旗が揺れる。日の丸も毎年ある」と、国を超えた一体感を楽しむ。

 東京・二子玉川で今週、「第九」の演奏会が開かれた。人気店が並ぶ広場で楽団が重厚な音色を奏でる。通行人に紛れていた会津の合唱団員らが突然、「歓喜の歌」を響かせる。美しいハーモニーに囲まれ、驚く買い物客の表情が楽しい。日本初演の地・徳島県鳴門市と歴史をつくった会津若松市出身の松江豊寿の物語を発信した。

 初演100周年を記念する演奏会が平成30年6月に鳴門で、9月に会津若松で開かれる。単発では惜しい。歌声をつなぎ次の100年に続く音楽祭に育て上げれば、第九が結ぶ友愛の絆を世界に発信できる。

 

まさに奇跡である(2016年9月14日配信『徳島新聞』−「鳴潮」)

 

まさに奇跡である。鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所でドイツ兵捕虜によってベートーベンの「第九」が演奏されてから来年で白寿、再来年で百歳を迎える

 アジア初演となったこの第九は、福島県会津若松市出身の松江豊寿(とよひさ)(1872〜1956年)が所長として寛大に、人道的に捕虜を処遇したからこそ生まれた。鳴門と会津、ドイツをつなぐ第九の物語

 そんな第九の演奏がきのう、東京・世田谷区の二子玉川ライズと渋谷区の表参道ヒルズで、突然始まる「フラッシュモブ」という形で繰り広げられた。たまたま居合わせた人たちは、さぞ驚いただろう

 史実を広く伝えたい−。二子玉川では、指揮者平井秀明さんのタクトに合わせて、第九が歌声となって流れ、阿波踊り、福島ゆかりのフラダンスが続いて披露された。平和と融和を象徴し、人を励まし、元気づける第九の力を感じた人も多かったのではないか。この様子はインターネットで世界に発信される

 第九初演の地の徳島新聞と、松江の古里の地元紙・福島民報による号外も配られた。第九は、鳴門と会津の絆ばかりではなく、図らずも、いつもならすれ違う、見ず知らずの人をもつないだに違いない

 史実を生んだのは人、世代を超えて引き継いでいくのも人だ。鳴門の第九、その縁は国境を超え、上寿を超えて紡がれていく。

 

第九歌う会文化賞  「初演地・鳴門」を世界へ(2016年8月26日配信『徳島新聞』−「社説」)

                             

 「第九」のアジア初演100年に向けて、大きな励みになるものだ。

 認定NPO法人・鳴門「第九」を歌う会が、「第38回サントリー地域文化賞」に選ばれた。

 鳴門市の第九演奏会を支えてきた市民の地道な活動が、地域文化の向上や活性化に貢献していると評価されたのは喜ばしいことである。

 ベートーベンの第九交響曲は、第1次世界大戦中の1918年6月1日、鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所のドイツ兵捕虜によって演奏された。

 この史実を、世界平和と人類愛を未来に伝える文化遺産と位置づける鳴門市は、6月1日を「第九の日」と定め、82年から毎年、市民参加により歌い継いできた。

 この年に結成された歌う会は、主催団体の一つとして演奏会を運営し、国内外で歌声交流を展開するとともに、第九初演の地・鳴門の情報発信に努めてきた。

 経済優先志向からの脱却や東京一極集中の是正が求められる今、地方の持つ歴史的、文化的な財産に改めて目を向け、次代に引き継いでいくことは大きな意義がある。歌う会の活動は、その代表例だ。

 「歓喜の歌」はこれまで、東四国国体の開会式や神戸淡路鳴門自動車道全通のほか、大型公共施設のこけら落とし、植樹祭など、折々の晴れの舞台で歌われてきた。

 演奏会には、「初演の地・鳴門で第九を歌いたい」という愛好家らが参加し、今年は51団体・601人が思いのこもった歌声を響かせた。この演奏会には、知恵と情熱が詰まっている。

 初演から100年を迎える2018年には、さまざまな記念行事が予定されており、歌う会への期待も大きくなっている。

 収容所では、1917年4月から20年1月までの2年10カ月間、千人前後の捕虜が過ごした。

 映画「バルトの楽園(がくえん)」の主人公として描かれた福島県会津若松市出身の松江豊寿(とよひさ)所長の寛大で人道的な管理運営のもと、捕虜による多彩な活動が花開いた。

 美術工芸や演劇、演奏などを披露し、牧畜や製パン、建築といった技術を伝えながら、地元住民と交流した史実も残っている。

 歌う会は、こうした戦争の最中に国境を越えて結ばれた絆や、捕虜が残した財産を生かし、鳴門市と姉妹都市のドイツ・リューネブルク市との交流も進めている。

 捕虜の活動を認めてきた収容所内での友愛や人類愛を広く伝えようと、ドイツへの里帰り公演も実現している。

 第九には、人を励ます力や人をつなぐ力がある。世界中の人々から愛されるゆえんである。テロや紛争が絶えない中で、第九の輝きは一層増しているといえよう。

 歌う会と共に、私たちもまた第九を歌う文化を鳴門から世界へ、しっかりと広げていきたい。

 

「第九」交響曲(2016年6月7日配信『徳島新聞』−「鳴潮」)

 

福島県会津地方の方言に「ない」「なし」というのがある。会話でよく耳にする「…ね」や「…よ」に当たり、「…んだなし」のように使われる

 「なし」が丁寧語になると、「なんし」となる。野口信一さん著「会津とっておきの歴史」(歴史春秋社)に笑い話がある。ある嫁が何でも「なんし」を付けていると、姑が注意した。恐縮した<嫁は「そうだなんし、なんし、なんしと言うめいと思ったんだがなんし、またもなんしが出たわいなんし」と答えたという>

 鳴門にあった板東俘虜収容所の所長を務めた松江豊寿は会津生まれ。ドイツ人捕虜を人道的に処遇し、1918年6月1日、その捕虜によって「第九」が演奏された

 歴史に「…たら」「…れば」はないけれど、松江が所長でなければ、鳴門が「第九」アジア初演の地となっていただろうか。鳴門でおととい開かれた「第九」交響曲演奏会で、全国から駆け付けた人たちの歌声を聞きながら、第九が取り持つ縁の広がりを実感した

 演奏会を取材した福島民報の記者と共に初演100年となる2年後、お目見えするだろう松江の銅像に思いをはせた。さて、松江の目はどこに向かうのか。会津か、ドイツか

 泉下の松江は、回を重ねる演奏会を、響き渡った歓喜の歌を、こう言いながら聞いたかもしれない。「ありがとなし」と。

 

鳴門の「第九」  力合わせ新たな絆紡ごう(2016年6月4日配信『徳島新聞』−「社説」)

 

 鳴門の「第九」があす、高らかに響き渡る。

 鳴門市文化会館で開かれる第35回「ベートーベン『第九』交響曲演奏会」では、51団体・601人がステージに上がる。今回は、4月に発生した熊本地震を受け、被災者への祈りと復興への願いも歌に込める。

 第九には、人を励ます力がある。601人の思いがこもった歌声が響くだろう。かけがえのない鳴門の第九を、合唱する人たちと共に、しっかりと発信したい。

 鳴門の第九の歴史をひもとくと、鳴門市にあった板東俘虜収容所の所長を務めた福島県会津若松市出身の松江豊寿に行き着く。

 第1次大戦当時、松江はドイツ兵捕虜を人道的に処遇し、捕虜たちは音楽活動や新聞発行、ビールを飲むことまで許された。その捕虜によって第九交響曲が演奏されたのは1918年6月1日。これがアジア初演とされる。

 この史実を、世界平和と人類愛を未来に伝える文化遺産と位置付ける鳴門市が6月1日を「第九の日」と定めて、82年以来、市民参加による第九を歌い継いできた。

 演奏会の歴史には、多くの人の知恵や情熱が詰まっていることを忘れてはなるまい。

 鳴門の第九に特別な思いを寄せている人が全国にいる。本紙連載の「第九永遠なり 鳴門初演100年」にその人たちの姿を見る。

 東日本大震災から1年後の2012年6月、鳴門のステージに、福島県の「ふくしま第九”すみだ歌う会“」の代表ら会員7人が立った。

 被災地で手を取り合って前に進もうという人たちに思いを重ねて歌声を響かせた。今年も駆け付けるという。「私たちを支えてくれた鳴門の第九で、今度は熊本の人たちにエールを送りたい」。そんな願いを込め、鳴門から新たな絆が紡がれるのは心強いことである。

 関東大震災翌年の1924年、東京音楽学校(現東京芸大)で、初めて日本人による第九が演奏されている。この演奏会も、被災した大勢の人の復興の光となった。

 鳴門での第九初演から、98年の歳月が流れた。2年後には100年を迎える。

 節目に向けて、鳴門市の産学官でつくる「アジア初演『なると第九』ブランド化プロジェクト推進協議会」が昨年12月、100周年記念事業の実施計画を策定した。初演の地から、賛同の輪が広がっているのはうれしい。

 メーンの記念演奏会は、2018年6月3日に開催される予定で、板東俘虜収容所で暮らしたドイツ兵捕虜の子孫らが招かれる。初演から100年になる6月1日には、当時の収容所の雰囲気を伝える舞台演出で特別演奏会が開かれる。この年までに、松江を顕彰する銅像が、有志の手で鳴門市内に建てられる。

 鳴門と第九、鳴門と松江の歴史を語り継ぐ機運を高めていきたい。

 

「武士の情け」(2016年5月27日配信『徳島新聞』−「鳴潮」)

 

 鳴門市と福島県の会津若松市は浅からぬ縁がある。両市を結んでいるのが会津若松出身の松江豊寿。第1次世界大戦時、板東俘虜収容所の所長として、ドイツ兵捕虜を人道的に処遇した。「武士の情け」でも知られる。それがベートーベン「第九」のアジア初演につながった

 松江の父は旧会津藩士で、薩摩、長州を主体とした新政府軍と戦火を交えた。会津藩が開城降伏してから、父は旧藩士と家族ら1万7千人と共に、不毛の地だった斗南(青森県)に移住。浮浪者のような暮らしを強いられ、辛酸をなめた

 その戊辰戦争から4年後に生まれた松江は、父の労苦を唇をかみながら聞き、育った。節を曲げなかった旧藩士の生き方も、学んだのだろう

 思い出すのは、松江を主人公にした映画「バルトの楽園」公開前に取材した時のこと。地元の歴史家から「会津の戦後の地図です」と広げられたのを見て「ここから昭和が始まったんですね」と相づちを打った途端、こう言われた。「会津で戦後といえば戊辰戦争後のことでしょ」

 戦後の痕跡を歩いてたどる歴史探訪が今年から2018年までの3年間、会津若松で繰り広げられる。歴史の再発見や観光振興の機運を盛り上げるという

 18年は特別な年となる。戊辰戦争から150年、第九初演から100年。鳴門市には松江の銅像が建つ。

 

鳴門の「第九」  初演100年へ人材育てたい(2015年7月9日配信『徳島新聞』−「社説」)

                             

 鳴門市の板東俘虜(ふりょ)収容所で、ベートーベンの「第九」交響曲がドイツ兵捕虜によって演奏されたのは、第1次世界大戦中の1918年6月1日だった。これが第九のアジア初演とされる。

 市では3年後に迫った初演100周年に向け、記念プロジェクトの策定などさまざまな取り組みが始まっている。

 市は今年をカウントダウン開始年と位置づけ、1月から全職員を対象に第九初演の歴史を学ぶ研修を実施。4月には、アジア初演の地として鳴門の名をPRするため、第九ブランド化推進室を設けた。官民一体となって盛り上げる態勢づくりを進めてほしい。

 先月7日に同市で開かれた恒例の第九演奏会では、姉妹都市のドイツ・リューネブルクの市立劇場で音楽監督を務めるトーマス・ドーシュさんがタクトを振り、全国から集った577人が「歓喜の歌」を高らかに歌い上げた。

 ドーシュさんは、迫力ある合唱に「これほどの規模はドイツにはない。声の大きさにも驚いた」と感想を語った。

 鳴門市が34回にわたり演奏会を続け、腕を磨いてきた成果だろう。これまでの経験と実績を生かし、初演の地にふさわしいメッセージを全国、世界に発信してもらいたい。

 100周年に向けて市と民間団体が設けた「プロジェクト推進協議会」は、記念プロジェクトの基本計画をまとめた。著名な指揮者を招いての演奏会や、収容所跡の国史跡指定申請といった事業を盛り込んでいる。来月にも詳細な事業内容を決める方針だ。

 その際、忘れてはならないのは、鳴門市がアジア初演の地となった経緯である。

 板東俘虜収容所で捕虜たちは音楽活動や新聞発行、ビールを飲むことまで許された。捕虜の人権を無視した収容所が多かった中、当時の松江豊寿所長が人道的に扱ったことが第九初演に結び付いた。

 そんな背景から市はドイツの都市と友好関係を築き、松江所長の出身地・福島県会津若松市とも交流するようになった。第九初演を平和と友好の象徴と捉え、しっかりと事業に反映すべきだろう。

 さらに難しい課題がある。音楽遺産である第九を、若者に引き継いでいくことだ。

 第九演奏会も少子高齢化の波にさらされている。鳴門「第九」を歌う会によると、演奏会を初めて開いた82年には、出演者377人のうち100人以上を中高校生が占めたが、近年は20〜30人に減っているという。

 市と歌う会は2年前から市内の幼稚園と小中学校を訪れ、第九初演の歴史を教えたり、歌を指導したりしている。この取り組みを一層強化してもらいたい。

 県は来年1月、アスティとくしまで県内最大規模の第九演奏会を開く。全国から出演者千人以上を募る計画だ。ファンの裾野を広げるため、ぜひ若い人に参加を呼び掛けてほしい。そして次の100年につなげる人材を育てたい。

 

【鳴門の「第九」】節目の百年へ、結集(2015年6月13日配信『福井民報』−「あぶくま抄」)

 

ベートーベンの交響曲第九番を日本で初演した「第九」発祥の地、徳島県鳴門市で7日、34回目の第九演奏会が開かれた。3年後の平成30(2018)年には初演から100周年を迎え、鳴門、さらに、ゆかりの会津若松市で記念の演奏会が予定されている。鳴門公演は合唱団、オーケストラ、聴衆が一体となった情熱的な舞台となり、節目の年に向けカウントダウンが始まったことを強く実感した。

 四国はもちろん、全日本「第九を歌う会」連合会に加盟する全国の50団体、580人が舞台に上がった。本県からは会津第九の会と、ふくしま第九“すみだ歌う会”に所属する愛好家11人がエントリーした。ステージの両脇まで使い、歌い手がびっしり並ぶ姿は壮観だった。

 ドイツから招かれた指揮者のトーマス・ドーシュさんは「これほどの規模はドイツでは信じられないこと。声の大きさにも驚いた」と終演後、感想を語った。ドイツで第九が演奏される場合、合唱は100人から150人程度が一般的という。「歓喜の歌」の有名な一節「フロイデ…」の正確な発音もたたえた。「音楽を通じ、世界の人がきょうだいになれる」。ドーシュさんの言葉に感銘した。

 第一次世界大戦中、鳴門市板東には俘虜[ふりょ]収容所があり、約千人のドイツ兵が収容されていた。会津若松市出身の松江豊寿所長は兵を人道的に扱い、母国の音楽を奏でることを許し、初演に結び付いた。泉理彦鳴門市長は松江所長の業績、さらにドイツ兵を受け入れた地域住民の姿を「友愛」と表現する。友愛の精神をたっとび、若者に引き継ぐことに第九を演奏し続ける意義があると思う。

 アジア初演の地と位置付ける鳴門の人たちの士気は高く、全国の愛好家の心を鼓舞する。会津第九の会の会員は「鳴門で歌うことで連帯し会津の先人の遺業を痛感した」と演奏の余韻をかみしめた。

 100周年の持つ意義は深い。前年の平成29年2月にはプレ企画として、鳴門市と姉妹都市関係にあるドイツのリューネブルク市に全日本連合会が出向き、第九を歌う。本県から高校生、大学生ら若い世代が参加すれば、素晴らしい体験になるはずだ。会津第九の会が密接に関わる百周年の会津公演にも期待が高まる。

 松江所長を生み、今や合唱王国として名高い福島はもう一つの第九発祥の地として、気概を持っていい。偉大なる音楽遺産である第九への関心も今後、一層高めていきたい。

 

「第九アジア初演の地」PR 鳴門市がラッピングバス(2015年5月23日配信『徳島新聞』)


 

 

 

鳴門市が「第九アジア初演の地」をPRするラッピングバスのデザイン

 

鳴門市は6月8日から、ベートーベン「第九交響曲」のアジア初演の地をPRするラッピングバスを走らせる。2018年の初演100周年に向け、第九への関心を高めるのが狙い。
 徳島バスが徳島−阪神間で運行する高速バスの車両1台を活用。「第九アジア初演の地なると」「なるとで第九? なんでやねん!」の文字と、市のマスコットキャラクター「うずしおくん」「うずひめちゃん」のイラスト、毎年6月に開かれる第九演奏会の写真などで車体を彩る。
 7日に第34回第九演奏会会場の鳴門市文化会館でお披露目式があり、翌日から徳島−大阪、徳島−三宮の両ルートを往復する。2018年まで運行する予定。

 

 

 

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