横浜大空襲

 

「あれは松根油(しょうこんゆ=松の根を乾留して得た油状物質。十分に乾燥した根では重量比20〜30%の燃料が採取でき、現代でもバイオマス燃料としても十分に通用している)が燃えているのです」

 

横浜大空襲で、海軍の石油貯蔵基地が罹災(りさい)、黒煙が上がるのを見て昭和天皇は元首相の米内(よない)光政を皇居に呼んだ時の米内の言葉。

米内の説明に、天皇は「松根油は農民が苦労して集めたものではないか。至急消すように」と命じられたという(中村菊男「昭和海軍秘史」)

なお、松根油は松の根から採取した燃料のことで、エネルギー資源を断たれ、航空機用ガソリンの欠乏に直面した日本が戦争末期、石油の代替燃料獲得の一大国家プロジェクトとして、「200本の松で航空機が1時間飛べる」との号令の下、日本中で松の根を掘り起こした。

 

1945(昭和20)年5月29日午前9時22分(白昼)、米軍は横浜大空襲を敢行した。

 

横浜は、わずか1時間8分で同市内の鶴見、神奈川、西、中、南、保土ケ谷区が壊滅、市域の34%が焼け野原と化し、同市人口の3分の1の31万人が被災、推定8,000〜10,000人が死亡した。

 

横浜大空襲の無差別)絨毯(じゅうたん)爆撃(重慶の遺産)のすさまじさは、3月10日の東京の半分の時間で、投下された焼夷弾(しょういだん)量は1.28倍の2,570トン(43万8,576発)、出撃したB―29爆撃機も、2倍近い517機とP51戦闘機101機による機銃掃射が加わったことで明白である。

 

しかし、3月10日の10万人の犠牲者を出した東京大空襲の惨状に隠れて、同年5月29日の横浜大空襲の惨禍(さんか=むごたらしい被害。いたましい災難)が取り上げられることは少ない(松山大空襲は死者・行方不明者251名)

 

敗戦後、米軍は横浜に進駐し、市街地の27%を接収、横浜大空襲で廃虚と化した市中心部に、カマボコ形の兵舎を建て、同時に港湾施設の90%を米軍の基地とした。横浜一の繁華街だった伊勢佐木町も店の多くが接収され、進駐軍用の食品店や病院、クラブになり、かつ裏通りには飛行場も建設された。

 

戦争の悲劇を忘れずに語り継ぐ事を目的とする第10回目「平和のための戦争展inよこはま」が06年5月26〜28日の3日間、かながわ県民センター(横浜市神奈川区)で開かれた。同展では、61年前の横浜大空襲を中心に、在日米軍や核問題など現在につながる戦争の歴史を考えるため、戦時中の記録映画「戦ふ少国民」の上映後、「忘れてはいけない横浜の記憶」と題するトークや横浜市内の小・中学生約50人が「横浜の空襲と戦災」を用いた朗読劇が行われ、戦争体験を書いた著作が、横浜市北部の中学1年の国語教科書に採用されている俳優で絵本作家の米倉斉加年(まさかね)さんが、自らの戦争体験を語った。

 

さらに、横浜市青葉区の桐蔭学園メモリアルアカデミウムで、06年6月3日まで「横浜・東京大空襲展」が開かれた。同メモリアルの鵜川昇理事長が同館の開館5周年を機会に「横浜市民でも知る人が少ない空襲の惨禍を後世に伝えたい」と企画したもので、東京のすみだ郷土文化資料館から借り受けた東京大空襲の資料も並んだ。攻撃中の米軍機が空中から撮影した“戦果”の記録写真は、爆撃の前と、直後の火炎が林立する市街の無残な変貌(へんぼう)を記録する。映写室では、爆撃機の出撃から焼夷弾投下や機銃掃射の実写フィルムも上映され、生々しい。焼夷弾や、機銃弾の現物などのほか、空襲下の市民生活を再現した勉強部屋や、配給切符、召集令状なども展示される。同アカデミウムには旧横浜地裁陪審法廷(同法廷は、かろうじて空襲のよる消失を免れ、50年の米軍接収の全面解除後には特号法廷としてファントム戦闘機墜落訴訟や東海大学安楽死事件などの審理が行われた)が移築復元されている。戦後ここでB・C戦犯の横浜裁判が開かれたことで知られる。

 

 

空襲を受ける横浜市

 

空襲を受ける京浜工業地帯

 

 

 

横浜大空襲から73年 洋服店経営・津田さん「体験を後世に残す」(2018年5月27日配信『東京新聞』)

 

「空襲が終わると風景が一変していた」と語る津田さん=横浜市中区で

 

 1945年5月29日、米軍機が横浜市上空に飛来し、8000人(推定)が犠牲になった横浜大空襲から間もなく73年を迎える。あまりの体験に記憶を胸にとどめてきた洋服店経営津田武司さん(79)=同市磯子区=はここ数年、ようやく人前で話せるようになった。年々戦争体験者が少なくなる中、「戦争のない未来のために、記憶を伝えていく」と思いを新たにしている。 

 45年5月29日朝、空襲警報が鳴ると当時小学1年の津田さんは母と、市電の間門停留所(中区)近くにあった自宅から、歩いて5分ほど離れた供用防空壕(ごう)に向かった。「バッ、バババー」と焼夷(しょうい)弾が落ちるごう音と共に焦げた臭いが立ち込める。電気が消えた壕にいた大勢の人が悲鳴を上げた。

 空襲が終わり母と外に出ると、風景が一変していた。「市電の線路はぐにゃぐにゃに、電車は鉄骨だけになっていた」。自宅の庭にあった防空壕では大人3人が亡くなり、近所に住む3歳の男女の双子は瀕死(ひんし)の状態だった。「2人とも膝から下が消し炭のように焦げていて、目が少し動くだけだった」と振り返る。

 その後、埼玉県鳩ケ谷市(現川口市)に祖母らと疎開。衝撃から精神のバランスを崩し、小学校の朝礼で一人では列に並べず、祖母に付き添ってもらった。終戦後に引っ越した保土ケ谷区の小学校区は空襲の被害が少なく、家を焼かれた同級生はほとんどいなかった。「雨が降っても長靴がない。服もみすぼらしいものしかなく、よくばかにされました」

 あれから何十年たっても、心は癒えなかった。「避難した防空壕が残っているのか知りたい。だけど、つらい経験がよみがえるから近づけない」と津田さん。

 

1945年5月29日、米軍機の空襲を受けた横浜市中心部(市史資料室提供)

 

 空襲の話も母以外とはしたことがなかったが2015年、安全保障関連法案が国会に提出され、「戦争につながるのでは」と危機感を覚えた。市内で開かれたイベントで体験を話し、一昨年は母校の高校から依頼を受けて文章をまとめた。その際に津田さんが手書きした原稿をパソコンに入力して興味を持った大学生と高校生の孫2人にも、初めてあの日のことを打ち明けた。

 空襲当時、同市の小学3〜6年は学童疎開の対象で、地元に残っていたのは1、2年がほとんどだったと考えられる。「私は空襲の記憶が鮮明な最後の世代だと思う。人も物も生活も奪う戦争を繰り返さないよう、思い出せる限りの体験を後世に残していきたい」と力を込めた。

 

<横浜大空襲> 1945(昭和20)年5月29日午前9時22分から同10時半にかけ、米軍のB29爆撃機517機とP51戦闘機100機が横浜市中心部上空に飛来。44万個の焼夷弾を投下した。当時の警察発表によると、市内の死者は3649人、負傷者1万197人、行方不明者300人に上った。その後の調査で死者は8000人に達すると推定されている。

 

横浜大空襲70年 500機のB29 昼間に丘陵間狙い短時間爆撃(2015年5月30日配信『東京新聞』)

 

 横浜は1944年以降、軍需工場を狙ったB29爆撃機の攻撃を受けたが、当初は45年3月の東京や名古屋のような大規模空襲は免れていた。「市街地が丘陵で分かれているため、(東京などのような)夜間空襲では十分な効果が出ないと考えた」(今井清一・横浜市立大名誉教授)とみられている。

 米軍資料の研究者らによると、5月29日の横浜大空襲では、「平均弾着点」と呼ばれる目標の円が、丘陵や海で仕切られた五カ所にそれぞれ設定された。出撃機に割り振り、次々に焼夷(しょうい)弾を落として焼き尽くす作戦が立てられた。

 横浜は市街地が焼け残っていたため、一時は原爆の目標都市にもリストアップされたが、5月に解除。実行が決まった大空襲は、目標を正確に狙うため、昼間に行われた。直前の東京空襲で迎撃機による被害が大きかったため、戦闘機を護衛に付けた。

 沖縄戦の支援に回っていた部隊も戻り、東京大空襲の約300機を上回る約500機のB29が出撃。東京大空襲の半分の約1時間で1・5倍の焼夷弾を投下したため、激しい火災が起き、一酸化炭素中毒や窒息の死者も多かった。横浜大空襲によって、米軍は5大都市すべてに大空襲を行ったことになった。

 横浜の空襲を記録する会の手塚尚さんは「短時間に、味方の被害は少なく、効率的に爆撃しようとした。戦争が起きれば、庶民がこういう形で巻き込まれることを伝え続けなくてはならない」と話している。

 

焦土の中で 横浜大空襲70年(2) 被害にあった華僑(2015年5月31日配信『東京新聞』)

   

◆すぐ背後に焼夷弾 移動制限、疎開できず

 あの日、壮絶な空襲の被害に遭ったのは日本人だけではなかった。「すぐ背後に焼夷(しょうい)弾が落ちた」。横浜市中区の在日中国人3世、小林弘岳(ひろたけ)(中国名・羅岳宗)さん(92)は、「昔の記憶はあまりない」と言いつつ、1945年5月29日の横浜大空襲のことは強烈に覚えている。

 小林さんは生まれも育ちも横浜。親族は、2011年に閉店した横浜中華街の老舗「安楽園」を経営し、小林さんも近くに住んでいた。子どものころ、在日2、3世の自由は比較的担保されていた。中学からインターナショナルスクールに通って英語を習得し、明治大に進学した。

 しかし、戦火が激しくなると状況が変わった。中国籍のため徴兵されることはなかったが、「授業に行けたのは一年の時だけ。日本人の学生がいなくなったから」。県外に出るには特別な許可が要るようになり、外を出歩くと、警察官に後をつけられた。

 戦況の悪化とともに、小規模な空襲を目にした。夜は安心して眠れない。「都会にいると危ない」。ただ、遠くの地方に移るわけにも行かず、1945年3月ごろに山手駅近くの中区西之谷町に家族で引っ越し、近所の中国人宅で小学生の家庭教師を始めた。

 「ウーッ」−。大空襲の日、教え子の家に着いてすぐ、耳をつんざく警報が響いた。「いつもは避難する時間があったのに、あの時はすぐに焼夷弾が落ちてきた」。防空壕(ごう)に入ると「ドーン」という音とともに爆撃を受けた。もうもうと立ち上る煙に「壕の中にいれば窒息する」。慌てて脱出し、近くの山に避難した。

 木々の間から見上げると、米軍機が「じゅうたんのように」びっしりと空を埋め尽くしていた。眼下の街は燃え、煙で何も見えなかった。爆撃機の「ゴー」という重低音がやみ、しばらくして被害を免れたドイツ人の家に身を寄せた。

 中華街の自宅も、西之谷町の家も焼失。幸い、家族や親族は無事だったが、母の知り合いの男性が焼夷弾の直撃を受け、死亡したのを後になって知った。逃げること、生活することに必死で、その後のことはあまり覚えていない。空襲から2日後、箱根町に避難し、終戦を迎えた。

 戦後、横浜に戻ると、英語ができることから米軍にスカウトされ、関内地区にあった情報機関や軍警察の事務所で2年間、タイピストとして働いた。「戦犯や在日ドイツ人の記録を扱っていたと思う」。米軍に偉そうな態度はなく、むしろ友好的だった。47年に民間の船会社に転職し定年まで勤め上げた。

 今年5月、数十年ぶりに西之谷町の自宅があった場所近くを訪れると、当時の記憶が少しよみがえった。「戦争がなければ、もっと穏やかな暮らしをしていただろうね」。今は平穏な空を見上げながら、戦争に振り回された人生を振り返った。 

 

◆終戦時、県内に2000人近くの中国人

 <戦時下の外国人> 横浜大空襲に遭った外国人の数は分かっていない。ただ、かなりの数の外国人が県内にいたことが、県や内務省の調査に残されており、大半が横浜市に住んでいたとみられる。

 終戦時の1945年8月15日時点で県内にいた外国人の内訳は、中国人1922人(満州含む)、ドイツ人768人、イタリア人61人、ビルマ(現ミャンマー)人71人、タイ人40人。日本と同盟を結んでいた国や、アジア系の人が目立つ。

 中国人は、日中戦争開戦(1937年)前は3747人いたが、同年の上海事変を機に1500人程度が帰国した。しかし、日本のかいらい政権「南京国民政府」があり、敵国とは見なされず、在日2世の多くは横浜にとどまった。

 空襲で、木造家屋が多かった中華街は焼け野原になった。焼け出された華僑のうち、裕福な人たちは箱根や軽井沢(長野県)に避難。ほかの人たちは、日本人と同じようにバラックや防空壕で生活した。

 一方、敵国だった米国人は13人、英国人も9人が県内におり、このうち成人男性は収容所に入れられていた。「朝鮮と神奈川」(1994年)によると、朝鮮人は軍需工場などで徴用され、44年の時点で6万2197人いた。この数は、39年の3倍に上った。

 

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