天皇皇后両陛下 対馬丸慰霊碑に供花

 

疎開児の命いだきて沈みたる船 深海(しんかい)に見出だされけり」

 

海鳴りの碑 / 学童疎開船;奄美に慰霊碑=対馬丸の悲劇、後世に

 

関連記事・論説

 

 

天皇、皇后両陛下は2014年6月27日午前、太平洋戦争中に撃沈された学童疎開船・対馬丸の慰霊碑「小桜の塔」(那覇市)を初めて訪れ、供花された。

 

 

 

 

 

平和祈念公園内にある、国立沖縄戦没者墓苑へ供花される天皇皇后両陛下

 

沖縄県を訪問中の天皇、皇后両陛下は2014年6月27日午前、太平洋戦争中に撃沈された学童疎開船・対馬丸の慰霊碑「小桜の塔」(那覇市)を初めて訪れ、供花された。

 

2014年は沈没70年の節目で、天皇陛下は犠牲者の多くが同世代とあって、かねて深い関心を寄せていて、両陛下が強く慰霊を希望された。

 

天皇陛下の沖縄県の訪問は皇太子ご夫妻時代を含めて今回で10度目。26日に糸満市の国立沖縄戦没者墓苑で供花。27日は那覇市の慰霊塔「小桜の塔」に拝礼した後、事件から60年となる04年に開館した対馬丸記念館(1階には、亡くなった子どもたち約300人の遺影が掲げられている)を初めて視察。学童らの遺品を見て回り、対馬丸の生存者や遺族約15人と懇談、「大変でしたね」と、言葉をかけた。

 

両陛下からいたわりのお言葉を受けた遺族、生存者は「あれから70年。一つの区切りができた」と話し、悲劇に寄り添う両陛下のお気持ちを受け止めた(当時、泊国民学校〈那覇市〉6年生だった堀川澄子さん(81)は、両陛下からこうねぎらいの声をかけられた)

 

小桜の塔は、戦没学童慰霊のため1954年に建立され、そばには対馬丸犠牲者の名前を刻んだ石碑もあるが、小桜の塔では、対馬丸の生存者の一人、対馬丸記念会理事長の高良政勝さん(74)が出迎えた。両陛下は供花台の前に進み、それぞれ白菊の花束を供えた。

 

スーツにネクタイ姿の天皇陛下は、皇后さまとともにゆっくりと塔の前に進み、深く一礼した後、白菊の花を供えられた。開館した対馬丸記念館に足を運ぶのは今回が初めて。

 

対馬丸は1944年8月22日、那覇から長崎に向かう途中、鹿児島県の悪石島(あくせきじま)沖で米潜水艦の魚雷を受けて沈没。学童775人を含む少なくとも1482人が死亡した。

 

今回の訪問にあたり、同県の仲井真弘多知事は「対馬丸犠牲者をはじめ戦没者の御霊に対し、何よりの供養になり、関係者はもとより沖縄県民が熱望するところであります」というコメントを発表した。

 

1968年4月。東京・日本橋で開かれた「これが沖縄だ」展。皇太子ご夫妻時代の両陛下が、ある展示の前で足を止めた。対馬丸を紹介するパネルだった。

 

「その中に私の妹もおりました。帰りませんでした」。案内役だった「沖縄学」の第一人者、故・外間守善(ほかましゅぜん)さんが説明すると、天皇陛下はじっとパネルを見つめ、皇后さまは体を震わせたという。「両陛下が沖縄に心を寄せるきっかけになった出来事だったのでは」。外間さんは生前、そう振り返っていたという。

 

対馬丸が撃沈された8月22日。疎開経験のある両陛下は欠かさず黙(もくとうし、犠牲者をしのんできた(皇后は、小学校4年生の時、母親に連れられ妹・弟とともに3度も疎開先を転々とした)

 

1997年、53年ぶりに海底で対馬丸の姿が確認されたの直後の12月18日の誕生日会見で「私と同じ年代の多くの人々が含まれ、本当に痛ましいことに感じています」と発言、「對馬丸見出ださる」と題して「疎開児の命いだきて沈みたる船深海(しんかい)に見出だされけり」とのお歌を詠まれ、皇后さまも戦後60年の2005年、71歳の誕生日に際しての文で「対馬丸撃沈で亡くなった児童たちも、無事であったなら今は古希を迎えた頃でしょう」と、対馬丸に触れられた。

 

本年は沖縄が復帰してから25周年に当たります。復帰してから随分長い年月がたったようにも感じますが、戦争が終わってから復帰までの年月の方がまだ復帰後よりも長いわけです。先の戦争が歴史上の出来事として考えられるようになっている今日、沖縄の人々が経験した辛苦を国民全体で分かち合うことが非常に重要なことと思います。数日前、戦争中1500人近くの乗船者を乗せた学童疎開船対馬丸が米国の潜水艦に沈められ、その船体が悪石島の近くの海底で横たわっている姿がテレビの画面に映し出されました。私と同じ年代の多くの人々がその中に含まれており、本当に痛ましいことに感じています。

 

戦没者の両親の世代の方が皆年をとられ、今年8月15日の終戦記念日の式典は、この世代の出席のない初めての式典になったと聞きました。靖国神社や千鳥ヶ淵に詣でる遺族も、一年一年年を加え、兄弟姉妹の世代ですら、もうかなりの高齢に達しておられるのではないでしょうか。対馬丸の撃沈で亡くなった沖縄の学童疎開の児童たちも、無事であったなら、今は古希を迎えた頃でしょう。遺族にとり、長く、重い年月であったと思います。

 

2008年9月には、生存者の1人、米国在住のマリア宮城バートラフさんを御所に招き、4日間の漂流から生還した体験を聞いた。同行した山本和昭さん(84)=東京都=は「両陛下は予定時間を超えて熱心に耳を傾けておられました」と話す。

 

両陛下の思いは次世代にも受け継がれている。08年8月、都内で開かれた対馬丸の企画展。秋篠宮ご夫妻は長女眞子さま、次女佳子さまとともに訪れ、犠牲になった姉妹のランドセルに熱心に見入った。

 

一方、複雑な思いを抱く生存者もいる。6月18日には浦添市で「天皇制と対馬丸」と題したシンポジウムが開かれ、天皇陛下に謝罪を求める声明が読み上げられた。登壇した生存者は「皇民化教育で若者が戦争に行かされ、死んでしまった。対馬丸で亡くなった子たちの顔が浮かんで、とても訪問を喜べない」と語った。

 

なお、「戦争の犠牲になった船は対馬丸だけではない」として、太平洋戦争中の船舶犠牲者の遺族でつくる「戦時遭難船舶遺族会」が、来県するのに合わせ、「他の船の犠牲者へも目を向けてほしい」と訴え、両陛下の「海鳴りの像」への訪問を要請する文書を宮内庁長官と内閣総理大臣ら宛てに郵送していたが実現しなかった。

 

戦時遭難船舶遺族会によると、対馬丸とは別に、県民が乗船して撃沈された船舶は25隻あり、犠牲者は2000人近くに上るという。 

 

遺族会は1987年6月23日、「小桜の塔」と同じ公園内に慰霊碑「海鳴りの碑」を建立し、毎年慰霊祭を行っている。「湖南丸」で叔父を亡くした遺族会の大城敬人会長代行(73)は「当時の政府決定で疎開させられた対馬丸と違い、他の船舶の犠牲者の遺族補償は全くない。同じ戦争の犠牲者なのだから、せめて来てほしい」と話した。

 

========================

 

対馬丸撃沈77年 語り継ぐ責任を忘れない(2021年8月22日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 夜の海に投げ出された恐怖はどのようなものだっただろう。77年前の1944年8月22日、鹿児島県悪石島付近で米潜水艦に撃沈された対馬丸に乗船した人々の心情を思うと胸が締め付けられる。

 

 国策のために失われた命を取り戻すことはできないが、できることが一つだけある。なぜ対馬丸事件が起きたか、後世に語り継ぐことだ。遺族が亡くなり、体験者も高齢化した。現代に生きる私たちには事実を継承する責任があることを改めて確認したい。

 

 継承する難しさを象徴する出来事が今年3月にあった。内閣府が実施してきた「対馬丸遭難学童遺族特別支出金」の最後の受給者が亡くなったことが明らかになった。

 

 特別支出金は亡くなった学童の父母や祖父母が対象だ。数少ない生存者以外に事件の当事者はほぼいなくなった。

 

 沖縄戦体験と同様、証言者が少なくなる中で、戦禍の記憶をどのように継承するかは大きな課題となっている。

 

 その中で対馬丸記念館の取り組みは重要だ。2019年から2年かけて制作した紙芝居が今年になって完成した。小学校低学年、高学年向けの2種類がある。学校での平和学習などに活用される。

 

 児童に撃沈の悲劇を伝えるだけではない。遺族や生存者、救助に当たった奄美の人々の声も盛り込まれた。

 

 かん口令によって事件自体が封じられた当時と違い、多角的な視点で振り返ることができる貴重な教材だ。

 

 一方で新型コロナウイルスのまん延に伴い、記念館への来館者が大幅に減っている。県内外や国からの支援もあるが、県民一人一人が関わっていくことが求められる。寄付や会員としての協力などさまざまな形があるだろう。

 

 記念館がなくなれば亡くなった学童らの魂もさまよう。「対馬丸を二度と沈めたくない」(高良政勝館長)という言葉は誰しもが納得できよう。

 

 ただ沖縄での激しい地上戦の研究が深まってきたのとは対照的に「海の戦争」はいまだ不明な部分や補償が不完全なところがある。

 

 サイパンの日本軍壊滅後の戦場になるとみられた沖縄から学童らが疎開したのは、軍の論理を優先し戦力とならないお年寄り、女性、子どもを国が追い出したからだ。日本軍が航行する海域で米潜水艦の攻撃が繰り返され、危険を知りながら送り出した。国策の犠牲といわれる理由だ。

 

 だが対馬丸以外の戦時遭難船舶も状況は同様だが、犠牲者への補償はいまだない。

 

 また琉球新報の調べで戦時中の徴用船員700人以上が犠牲になったことも昨年明らかになった。犠牲となった徴用船員の多くが10代の若者で本来1年必要な訓練を1カ月に短縮して送り出された。

 

 沖縄戦の一部である「海の戦争」でも、国策の果てに多くの命が奪われたのだ。調査や補償を含め、国が責任を持って関わるべきだ。

 

[対馬丸撃沈77年] 次代に伝える責任負う(2021年8月22日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 集団疎開の学童や一般の疎開者ら1788人を乗せた疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されてから、きょうで77年となる。

 

 今年の慰霊祭は、新型コロナウイルスが猛威を振るい、国の緊急事態宣言が出される中で迎えた。一般参列が初めて中止になり、旧盆を前に18日、那覇市若狭の慰霊碑「小桜の塔」で関係者十数人だけで開かれた。

 

 やはりコロナ対策で規模が縮小された昨年の慰霊祭と比べても少人数の開催となった。

 

 かつてない事態だ。

 

 学童の足跡を通して平和が学べる対馬丸記念館もコロナ禍で来館者が激減し、厳しい状況が続いている。

 

 遭難した学童の父母らを対象にした国の特別支出金制度は、最後の対象者が今年3月に亡くなり事業が終了した。つまり親の世代がいなくなったことを意味する。77年という歳月の長さをひしひしと感じる。

 

 わが子を送り出した親たちは、乗船させたことを悔やみ、戦後も自責の念に苦しみ続けた。最期まで癒えることのなかった苦悩はいかばかりだろう。

 

 長引くコロナ禍と、学童の親の世代の不在は、対馬丸の悲劇の継承が難しさを増していることを示している。

 

 それでも犠牲者を悼み、平和を願う祈りに変わりはない。

 

 対馬丸記念会の高良政勝理事長は「慰霊祭を行うことが戦争の悲劇を後世に伝えることに役立つ」と思いを語った。

 

■ ■

 

 対馬丸は1944821日、那覇港から長崎へ向け出航した。翌22日夜、鹿児島県トカラ列島の悪石島沖で魚雷攻撃を受け沈没した。

 

 那覇市の照屋恒さん(81)は当時4歳。一緒に船に乗った母と姉を亡くした。語り部として活動して約10年になる。

 

 照屋さんは「生き残った子」として見られるのが嫌で長年、対馬丸について語るのを避けていた。活動を始めたのは体験者の高齢化が進み、証言者が少なくなってきたからだという。 

 

 生存者も、一緒に乗船した家族や友人、教え子を亡くし悲しみを抱えて生きてきた。それでも自分たちが伝えなければ、と活動してきた語り部の言葉には重みがある。

 

 一方、次世代が「バトン」を受け継ぐ動きも見られる。

 

 6月には、対馬丸で家族を亡くした祖父の体験を、孫が中学校で講話し、生徒たちに命の尊さを伝えた。このような活動にも注目したい。

 

■ ■

 

 対馬丸の犠牲者は氏名が判明しただけで1484人。そのうち学童は半数超の784人に上る。

 

 暗い海にのみ込まれ、あるいは漂流中に衰弱するなどして、命を失った子どもたちを思うと胸が締め付けられる。

 

 ひとたび戦争が起きれば、弱者である子どもたちが巻き込まれ犠牲になることを象徴する悲劇だ。

 

 対馬丸撃沈の後、沖縄は1010空襲、悲惨な地上戦へと続いていく。今を生きる私たちは、過ちが繰り返されないためにも実相を学び、次代に伝える責任がある。

 

学童疎開船:対馬丸撃沈の悲劇風化させぬ 子供ら奄美慰霊(2018年8月16日配信『毎日新聞』)

 

学芸員の説明を聞き、対馬丸事件について学ぶ子どもたち=那覇市の対馬丸記念館で2018年7月15日


 太平洋戦争中の1944年8月、沖縄を出港した学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され、児童ら1400人以上が犠牲になった悲劇について学ぼうと、沖縄県内の小中学生17人が8月17〜19日、当時生存者や遺体が漂着した鹿児島県・奄美大島を訪れる。沖縄県が初めて企画。昨年住民らが中心となって建立された慰霊碑を見学するほか、島の小中学生と交流し、戦争の悲惨さを共に学ぶ。
 対馬丸は、沖縄への米軍上陸を前に子供たちを避難させるため、44年8月21日夜、国民学校の児童や教員、一般疎開者計約1800人を乗せ、長崎に向けて那覇港を出発。翌22日夜、鹿児島県・トカラ列島の悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて、沈没した。これまでに1482人が犠牲になったことが分かっている。約150キロ南の奄美大島の海岸線には多くの遺体や、約1週間漂流した生存者が流れ着いた。
 今回は、県の募集に応じた小学5、6年生12人と中学生5人が参加。親も同行し、奄美大島西部にある宇検村(うけんそん)を訪れる。
 参加者は7月中旬、那覇市の対馬丸記念館で事前研修に臨んだ。事件の経緯を展示やアニメで学んだほか、宇検村など奄美大島の島民が生存者の救護にあたり、遺体を丁寧に埋葬したことを学芸員から聞かされた。
 当時9歳で乗船し、いかだで6日間漂流した末に宇検村の無人島に流れ着いた平良啓子さん(83)は、一緒にいかだに乗っていた生存者が次々と命を落としていった様子を振り返り、「私がいつまでも語り継いでいけるわけではない。皆さんが事件のことを学び、後に続く人に伝えてください」と語りかけた。
 宜野湾市の小学6年、屋宜(やぎ)旬さん(11)は父博さん(44)と参加する。「自分ならいかだの上で眠ってしまって海に落ちたかもしれない。慰霊碑を訪れて、どういうことがあったのか調べたい」と語った。
 宇検村側でも、約20人の小中学生が交流に参加する予定で、7月には対馬丸の悲劇について学んだ。村教育委員会の担当者は「村の学校は小規模で、子供たちが外部の人と触れ合う機会も少ないので今回の交流は意義深い。平和への思いが芽生えるきっかけになってほしい」と期待している。

 

対馬丸慰霊碑 歴史繰り返さぬ継承を(2017年3月22日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 戦時下で米軍に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の慰霊碑が、生存者や犠牲者が漂着した鹿児島県奄美大島の宇検村船越(ふのし)海岸に建立された。

 「奄美にも沖縄戦の悲劇があったことを忘れず、次世代に継承したい」(元田信有村長)と費用を予算化した宇検村、実行委員会を組織し取り組んだ地元関係者に深く感謝したい。

 除幕式に沖縄の遺族、生存者、地元関係者が出席した。犠牲となった沖縄側、悲劇の現場の奄美の方々が対馬丸事件の史実と教訓を共有し、胸に刻んだ意義は大きい。

 これを契機に改めて対馬丸事件の歴史的な意味を問い直したい。

 対馬丸は1944年8月、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、学童775人を含む1418人(氏名判明分)が犠牲になった。

 県関係の戦時遭難船舶は26隻に上る。44年に16隻が集中し、その一つが対馬丸だった。米軍は日米開戦直後から日本船舶への無制限攻撃を開始した。日本軍が民間の船舶を軍事徴用したため、民間船舶の沈没が激増していた。

 対馬丸は日本軍の兵員・物資を沖縄に降ろして後、学童らを乗せて出港し撃沈されたのである。

 米軍は日本軍の無線を解読し、対馬丸の動きを把握していた。一方、沖縄守備軍は「南西諸島近海で敵潜水艦の活動が活発化。供給を断つことを重要視しているとみられる」と東京に打電していた。

 沖縄近海の危険さを日本軍は察知しながら対馬丸を出港させ、米軍は見境のない無制限攻撃で対馬丸を撃沈したのである。

 攻撃した米潜水艦の元乗員は「商船に見せ掛けた軍艦かもしれない。(商船が)軍事物資を積むこともある」と証言している。

 民間の船舶を日本軍が軍事に徴用、軍事輸送の遮断を米軍が最優先した「軍隊の論理」が、対馬丸の惨事を招いた。慰霊碑を歴史の教訓を伝える証しとしたい。

 宇検村では「慰霊碑建立記念企画展『対馬丸と奄美大島』」を開催中だ。多くの人々が足を運んで歴史の教訓を学んでほしい。

 「歴史は繰り返す」と言われる。政府は防衛計画大綱と中期防衛力整備計画に基づき、宮古島、石垣島、奄美大島に陸上自衛隊警備部隊などの配備を計画している。

 二度と戦争の犠牲にはならない。歴史を繰り返さぬ記憶の継承と行動を沖縄と奄美が共有したい。

 

平和の努力、供養に 対馬丸沈没72年で慰霊祭(2016年8月23日配信『沖縄タイムス』)

 

学童や一般の疎開者ら1788人を乗せた疎開船「対馬丸」が、米軍潜水艦の魚雷攻撃で沈められてから72年となる22日、那覇市若狭の慰霊碑「小桜の塔」前で、対馬丸記念会主催の慰霊祭が営まれた。生存者や遺族ら約500人が参列。犠牲者の冥福を祈るとともに、恒久平和を願いオオゴマダラを空へ放った。

 

慰霊祭で、平和を願いチョウのオオゴマダラを放つ参加者ら=22日、那覇市若狭・小桜の塔

慰霊祭で、平和を願いチョウのオオゴマダラを放つ参加者ら=22日、那覇市若狭・小桜の塔

 

対馬丸の犠牲者は学童784人、全体で1482人に上る。同記念会の高良政勝理事長は「平和という時間が末永く続いていく努力を決して諦めることなく、次の世代へ伝えていくことが皆さまへの最大の供養」と追悼の言葉を述べた。

 黙とうでは船の汽笛の音がスピーカーで流れ、涙を浮かべる参列者も。いかだにしがみつく母におぶられて命拾いした金武町の高里シズ子さん(77)は、兄姉2人を亡くした遺族でもある。「船の音を聞くと姉と兄を思い出し、胸が苦しくなる」と涙をぬぐった。

 浦添市の堀川澄子さん(83)は母親に内緒で対馬丸に乗船。船が沈む際の渦に巻き込まれて海に引きずり込まれたが、救命胴衣のおかげで浮上できた。「私は運が良かったが、亡くなった同級生たちの親に合わせる顔がなかった」と表情を曇らせる。悲しみを胸に「安らかに眠ってください」と手を合わせた。

「つしま丸児童合唱団」による鎮魂の歌や、平和を誓う群読も披露された。

対馬丸記念館では特別展「奄美大島と対馬丸」も始まった。生存者の救護や犠牲者の埋葬をした奄美大島の人々の証言などが展示されている。10月2日まで。

 

遺族ら、非戦を誓う 対馬丸慰霊祭(2016年8月22日配信『琉球新報』)

 

http://ryukyushimpo.jp/archives/002/201608/43304db232631a2772d17f124d554253.jpg

犠牲者を思い、焼香する生存者や遺族、関係者ら=22日、那覇市の小桜の塔

 

疎開学童や一般疎開者を乗せた「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没して72年となった22日、対馬丸慰霊祭(対馬丸記念会主催)が那覇市若狭の小桜の塔で執り行われた。生存者や遺族らが参列し、1482人の犠牲者に祈りをささげ、非戦を誓った。
 対馬丸記念会の高良政勝理事長が「平和な時間が末永く続くための努力を決してあきらめず、次世代へ伝えていく」と追悼の言葉を述べた。那覇市内の小学生を中心にした「つしま丸児童合唱団」の子どもたちが「小桜の塔のうた」などを歌った。
 隣接する対馬丸記念館では同日から、特別展「奄美大島と対馬丸」も始まった。10月2日まで。
 対馬丸は1944年8月21日、那覇港から長崎に向け出港。翌22日午後10時12分、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、同23分に沈没した。疎開学童784人を含む1482人(氏名判明分)が犠牲になった。

 

沖縄の学童疎開船「対馬丸」撃沈72年(2016年8月23日配信『しんぶん赤旗』)

 

犠牲者を追悼 恒久平和祈る 

太平洋戦争末期の1944年、沖縄の学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦に撃沈され、多くの児童らが犠牲になった事件から22日で72年を迎え、犠牲者を追悼する「対馬丸慰霊祭」(対馬丸記念会主催)が那覇市の「小桜の塔」で開かれました。


 遺族や生存者が参列し、大型のチョウ「オオゴマダラ」を空に放ち、黙とう。恒久平和実現を誓いました。

 沖縄戦が緊迫する中、「対馬丸」は44年8月22日、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員ら1788人を乗せ長崎に向けて航行中、鹿児島県・トカラ列島の悪石島沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈。児童784人を含む1482人(氏名判明者)が犠牲になりました。

 沖縄県遺族連合会の宮城篤正会長は弔辞で「日本政府は大量の食糧確保のため戦力にならない老人、子ども、女性たちを沖縄から疎開させることを決定し、対馬丸への乗船命令を下した」と指摘。「戦争という悪魔によって夢と希望が絶たれてしまった。忌まわしい戦争の惨禍が繰り返されないよう、いっそう努力する」と語りました。

 生存者の高良政勝対馬丸記念会理事長は「亡くなられた皆さまが経験できなかった平和が末永く続いていく努力をあきらめることなく伝えていく」と追悼の言葉を述べました。

 当時9歳で6日間、漂流して生き延びた大宜味(おおぎみ)村の女性(81)は「二度と戦争をしないよう講演活動もしています。高江もそうですが米軍基地を造ることは許せない。基地を全面撤去しないと平和はこない」と話しました。

 城間幹子那覇市長、日本共産党の赤嶺政賢衆院議員らも参列しました。

 

写真 写真

左;「対馬丸」撃沈の犠牲者に祈りをささげる参列者=22日、那覇市

右:犠牲者の追悼と平和への願いを込めて、チョウ「オオゴマダラ」を放つ児童や参列者=22日、那覇市

 

犠牲者の冥福祈る 「対馬丸」慰霊祭(2015年8月22日配信『沖縄タイムス』)

 

学童や一般の疎開者ら1788人を乗せた疎開船「対馬丸」が、米軍潜水艦の魚雷攻撃で沈められてから71年を迎えた22日、那覇市若狭の慰霊碑「小桜の塔」前では午前11時から、対馬丸記念会主催の慰霊祭が営まれた。

生存者や遺族らが多数参列し、名前が判明しているだけで1484人(うち学童783人)に上る犠牲者の冥福を祈った。

今月上旬、多くの遭難者や犠牲者が漂着した奄美大島を訪れた「生存者」の上原清さん(81)が、「奄美祈りの旅」を報告。湯湾岳からくんだ「霊水」を犠牲者の名前が刻まれた刻銘板にかけ、御霊を供養した。

「追悼のことば」を述べた同記念会の高良政勝理事長は「今や戦争を知らない世代が政治の世界で中心的な役割を担っている。多くの命を奪った対馬丸のような悲劇が二度と起こらぬよう、為政者の強い決意を求める」と訴え、世界平和を願った。

 

対馬丸から71年(2015年8月22日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 71年前の8月22日午後10時12分。「真珠湾の復讐(ふくしゅう)者」の異名を持つ米潜水艦ボーフィンが、子らの眠る対馬丸に魚雷を発射した

▼乗客が逃げる間もなく、攻撃開始から10分ほどで対馬丸は沈没した。子どもたちは父母を呼び、助けを求めて叫んだという。奪われた命は疎開学童780人を含む1485人(氏名判明分)。レーダーで船団を捉えた潜水艦は悪石島付近で待ち伏せした

▼その名は北米の東に生息する淡水魚ボーフィンに由来する。獲物を待ち伏せして敏捷(びんしょう)に仕留める食欲旺盛な捕食魚だ。しかしそのボーフィンは、獲物ではあり得ない疎開児童や住民の命を海に沈めた。辛うじて生き残った者も、洋上での漂流やその後の厳しい箝口(かんこう)令で生きながら地獄を味わった

▼沖縄戦に7カ月も先立つ当時、南西諸島の海では既に戦争が始まっていた。疎開や引き揚げ者の乗る船が撃沈され、米が制海権を握る危険な海だった

▼前月7日にサイパン戦終結、沖縄での地上戦が濃厚となって軍事を優先した政府が「足手まとい」の子どもや老人を疎開させる閣議決定をして間もなくのことだ。撃沈の夜、洋上には台風が接近し、命からがら脱出した海で高波にさらわれて溺れる人もいたという

▼当時の海を思い出させるかのように、台風15号が今、沖縄に近づいている。海の底に沈んだ人たちの無念をもまた想起したい。

 

対馬丸撃沈70年(2014年8月25日配信『長崎新聞』−「水や空」)

 

「これから、みんなで長崎に行く」。教師の出発の訓示を子どもたちは笑顔で聞き、勇んで乗船すると、もう「修学旅行のようなはしゃぎぶりだった」と証言にある。翌日、多くの命が海に消えた

▲学童疎開船「対馬丸」。1944年8月21日、沖縄を出港し、長崎へ向かったが、22日夜、鹿児島県トカラ列島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、撃沈された。犠牲者1485人、うち780人が学童だった。乳幼児を含めると、子どもの犠牲は千人を超す

▲「せんせい、たすけてー」。暗闇の海の方々から叫び声が聞こえたが、助けようがなかった。当時19歳の新米教師で、いかだで漂流していた糸数裕子さん(89)の耳には今も、その声がこだまする。軍の命令に従い、しぶる親たちを家庭訪問までして説得、学童疎開に同意させた。「それなのになぜ、教師の自分が生き残ったのか」。そう自分を責めながら戦後を生きてきたという

▲対馬丸撃沈70年の22日、沖縄で慰霊祭が行われた。参列者は「二度と過ちは繰り返さない」と、海に眠る子どもたちに誓った

▲ひとたび戦争が始まれば、罪もない子どもたちが犠牲になる。それが戦争の真実だ。長崎上陸を夢見ながら長崎にたどり着けず、海に消えた学童たちの叫びを絶対に忘れてはならない。

 

対馬丸の犠牲者慰める 「小桜の塔」遺族ら450人参列(2014年8月22日配信『琉球新報』)

 

疎開学童や一般疎開の人たちを乗せた「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没してから70年になる22日、那覇市若狭の小桜の塔で慰霊祭(対馬丸記念会主催)が行われた。生存者や遺族など約450人が参加。犠牲になった人たちの冥福を祈った。

対馬丸記念会の高良政勝理事長は追悼のあいさつで、教員研修会や映画で対馬丸撃沈の記憶を継承する試みがあることに触れ、「対馬丸の認知度は徐々に高くなっている。私たちはこれを力とし対馬丸記念館をより充実させたい」と述べた。犠牲になった学童が当時在籍していた小学校の児童らでつくるつしま丸児童合唱団が「小桜の塔のうた」などを合唱し、平和を願った。

 

武力伴う船が招くもの(2014年8月22日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

対馬丸事件から70年。よく「学童疎開船」と表記されるが、疎開専用の船だったわけではない。もともと日米航路の貨物船で、開戦後、陸軍に徴用されて軍人も運ぶようになった

▼子どもたちが乗る5日前、対馬丸は上海から第62師団の兵数千人を乗せ那覇に向かった。出港時から米潜水艦に追尾されていた。民間船が本来の目的とは違う形で軍用に使われたことも、悲劇の背景にはあった

▼70年たった沖縄の海はどうか。海上保安庁が「安全確保」に名を借りて過剰警備を繰り広げている。世界最強の米軍を守るために、民間人を“弾圧”する姿は海保の本来の任務だろうか

▼沖には20隻近い巡視船、沿岸にはゴムボート、防衛局が借り上げた警戒船。約80隻がサンゴの海を囲む。沖縄戦では本部半島沖から喜屋武岬を回って金武湾まで1500隻の米艦船が本島を包囲した。辺野古の物々しい光景は当時と重なる

▼琉球王国にとって、船はアジアとの交易に不可欠な存在だった。物だけでなく異国の文化ももたらし、豊かで独特な琉球文化を築いた

▼しかし、武力を伴った外来の船はこの島の歴史を力でねじ曲げてきた。薩摩軍、明治政府軍、戦中の日本軍、米軍。島人の民意を踏みにじり犠牲を強いた。海保や防衛省も同じ轍(てつ)を踏むのか。ニライカナイに通じる海は私たちのもの。島の針路を決めるのも私たちだ。

 

[対馬丸撃沈70年]悲劇の実相語り継ごう(2014年8月22日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

幼い子どもたちの夢が、希望が、未来が、暗い海にのみこまれた。集団疎開の学童や一般の疎開者ら1788人を乗せた「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されてから、きょう70年を迎える。

犠牲者は1485人(氏名判明分)に上る。わが子を送り出した親は自責の念に苦しみ、漂流の末に助かった生存者も心に傷を抱え生きてきた。

70年の節目を迎え、犠牲となった幼い命の無念をあらためて思う。同時に、「自分は助かってしまった」と、苦しみや負い目をなお抱く生存者や遺族らの心の内を推し量ると、胸が締め付けられる。

「子供等は蕾(つぼみ)のままに散りゆけり嗚呼(ああ)満開の桜に思う」

天妃国民学校の教師として子どもたちを引率した新崎美津子さんが詠んだ短歌だ。

新崎さん自身は4日間漂流し生き延びた。だが、親を説得してまで預かった教え子を、無事に返せなかった苦悩は生涯消えることはなかった。戦後も県外で暮らし、古里に背を向けるように暮らしたという。

「死ぬわけにはいかず、生きていかなくてはいけないけれど、せめてだれにも知られずにひっそりと、あの地平線の下で生きていきたい」。生前の証言記録はこうつづる。

請われて自身の体験を公の場で初めて語ったのは、撃沈から六十余年後。2011年に90歳で亡くなる5年前のことだった。

    ■    ■

対馬丸が長崎向けに那覇港を出発したのは、1944年8月21日。7月7日にはサイパンが陥落した。米軍の沖縄上陸は必至だと判断した日本軍の要請を受け、政府は女性や子ども、年寄りを島外へ疎開させるよう命じた。

その狙いは、軍の食糧を確保し戦闘の足手まといになる住民を戦場から排除することだった。社会的弱者を安全な場所へ避難させる考え方ではなく、軍の論理が優先されたのである。

出航時、南西諸島周辺や南洋群島の海域は、日本軍の物資や兵隊の輸送を断つため米軍の攻撃が相次いでいた。既に危険な海であり、軍もそれを把握していた。

対馬丸撃沈に厳重な箝口(かんこう)令が敷かれたことも、関係者の苦しみに拍車をかけた。生存者は体験を語れず、わが子を失った親も悲しい胸の内を明かすことは許されない。漏れ伝わってきた撃沈のうわさを確認しようと周囲に聞き回った母親が、憲兵に捕らえられた、という証言もある。

    ■    ■

那覇市若狭に2004年開館した対馬丸記念館は、学童たちの足跡をたどりながら平和を学ぶ場となっている。ことし5月には、対馬丸遭難者を救助した漁船の乗組員が書き残した手記が、遺族から記念館へ寄贈された。貴重な記録だ。

対馬丸撃沈は、その後の10・10空襲、凄惨(せいさん)な地上戦へと続く沖縄戦の序章である。

軍の論理がまかり通り、住民の安全よりも軍事機密保持が優先された時代に何が起きたのか。私たちは実相を知り、過去に学ぶべきである。

 

「この命尽きるまで」(2014年8月22日配信『しんぶん赤旗』―「潮流」)

 

そのとき、平良(たいら)啓子さんは小学4年生でした。おばあさんの膝枕で寝ていると、突然ボーンという大きな音。船は燃え、たくさんの子どもたちの声が聞こえてきます。「お母ちゃん助けて」「先生どこにいるの」

▼1944年8月22日。学童疎開のために那覇から九州に向かった対馬(つしま)丸は米潜水艦の攻撃を受けて沈没しました。1418人が犠牲になり、そのうち775人が、今の小学1年から中学2年までの子どもたちでした(「対馬丸記念館」)

▼真っ暗な海に落ち、いかだにつかまりながら6日間、大海原を漂流。絶望のふちで助けられた平良さんは数少ない生き残りの1人です。同じ村から40人が疎開しましたが、生還したのは3人だけでした

▼当時、米軍にサイパン島を占領された日本政府は、次は沖縄が戦場になると判断し、10万人の疎開を決めました。増員で膨れ上がった兵隊の食料を確保するためです。対馬丸は学童疎開の第1陣でした

▼家族や友を失い、やっとの思いで地を踏んだ遭難者たち。そこに追い打ちをかけたのが、かん口令でした。軍機保護法のもとで撃沈は公表されず、憲兵から「漏らしたら軍法会議にかけて死刑にしてやる」と脅された船員もいました

▼以前から、沖縄の疎開船は次々と撃沈されていました。それが秘密にされていなければ…。70年前の悲劇が現在に発する警告です。対馬丸の語り部として、大宜味(おおぎみ)9条の会の代表として、反戦平和を訴えつづける平良さん。「この命尽きるまで」と海に誓いながら。

 

inserted by FC2 system

inserted by FC2 system

inserted by FC2 system