旧帝国議会

 

 錦絵 国会議事堂図 楊斎延一画 憲政記念館所蔵

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 旧帝国議会.jpg

1892(明治25)年刊の「帝国議会開院之図」

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: teikokugikai 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 旧帝国議会2.jpg

第1回帝国議会開院式

;永池秀太画伯制作−第1次仮議事堂の貴族院議場において挙行された開院式の様子で明治天皇が伊藤博文貴族院議長に勅語書を渡しているところ

右;1891(明治24)年刊の「帝国議会開院之図」

 

敗戦時の帝国議会

 

 

大日本帝国憲法(旧憲法)」に基づいて第1回帝国議会が召集されたのは、1890(明治23)年11月25日のことで、同月29日に開院式(同日は議会開設記念日)が行われ(翌1891【明治24】年3月7日まで)、ここに日本は、立憲政治の第1歩を踏み出した。

 

   

第1次山縣有朋内閣

 

また、第3代山縣有朋首相が12月6日に施政方針演説を行った。以降、施政方針演説が現在まで慣例化している。施政方針演説とは、通常国会の冒頭、衆議院と参議院の本会議場で内閣総理大臣が本会議場で行う演説をいい、その年1年間の政府(内閣全体)の基本方針や政策についての姿勢を示すために行われる

 

山縣有朋首相施政方針演説(要旨)

予算歳出額の大部分を占めるのは陸海軍に関する経費である。

国家独立の道は、一つは主権線を守ること、もう一つは利益線を防護することである。主権線とは国境のことであり、利益線とは主権線の安全と堅く関係しあう区別である。

国家の独立を維持するには、ただ主権線を守ることで足りるのではなく、必ず利益線を保たなければならない。したがって陸海軍費に、巨大な金額をさかなければならないのは、まことにやむを得ないことであり、諸議員の賛成を願う。

 

なお、旧憲法による「帝国議会」は、日本国憲法が制定され、これに基づいて新国会が発足するまで、56年余の間続くことになる。

 

旧帝国議会の構成

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 帝国議会−帝国

衆議院の図

 

旧帝国議会は、貴族院と衆議院の2院で構成されていた。

 

そのうち貴族院は、公選制ではなく、皇族や華族と、国に功績のあった人その他の中から天皇が任命する議員で組織されており、議会発足当時の定員は251人、そのうち皇族(天皇を除く天皇家一族)が10人、5等爵(中国周代、天子が諸侯に与えた)のうち第1位の公爵(こうしゃく)が10人、第2位の侯爵(こうしゃく)21人、第3位の伯爵(はくしゃく)が14人、第4位の子爵(ししゃく)が70人、第5位の男爵(だんしゃく)が20人、天皇みずからの選定した勅選が61人、多額納税者が45人であった。その後議員数は、貴族院令の改正により増減を生じ、1947(昭和22)年の停会当日は373人であった。

 

 

貴族院勅撰議員任命書

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: tyokusennginnjirei

 

 

衆議院は、公選議員で組織されていたが、当初は、選挙権・被選挙権にきわめてきびしい制限があり、成年男女による普通選挙が実現するまでに、半世紀以上の歳月を要した。

 

当初、衆議院議員の選挙権は、25歳以上の男子で1年以上その府県内において直接国税15円以上を納めている者のみであった。当時の有権者の数は、日本の総人口約4千万人のうち45万人余(総人口の1.1パーセント)にすぎなかった(ちなみに2000{平成12}年6月の総選挙のとき、総人口約1億2,669万人、有権者約1億77万人で、有権者が総人口の約79.5パーセント)。 

 

 

衆議院議員之証

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: syugiinginsyosyo

 

 

また被選挙権は、30歳以上の男子で選挙権と同じ納税要件を必要とした。その後、納税要件は次第に緩和され、被選挙権については1900(明治33)年に制限が廃止され、選挙権についても1925(大正14)年のいわゆる普通選挙法によって、完全に撤廃された。

 

 

衆議院議員選挙正法律(原本)

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: futuusennkyo

 

 

だがしかし、このような選挙権・被選挙権の拡張も男子だけのことでした。女子が初めて選挙に参加したのは実に1946(昭和21)年の総選挙のときであり、このとき同時に、年齢制限も引き下げられ、選挙権については20歳以上、被選挙権については25歳以上となった。

 

衆議院議員の定数は、旧議会発足の当時は300人であったが、その後衆議院議員選挙法の改正により次第に多くなり、1925(大正14)年の普選法においては、466人となり、1928(昭和3)年2月の総選挙から実施された。旧議会の地位

 

さて旧憲法では、「天皇は、帝国議会の協賛をもって立法権を行う」となっていて、旧議会は、自ら立法権を行うのではなく、天皇の立法に協力する役目を持つものとされていた。したがって法律案は、両議院を通過しただけでは成立せず、天皇の裁可(認める)よってはじめて法律となった。

 

また緊急の必要がある場合には、天皇は、議会にかけないで法律に代わるべき勅令(緊急勅令)を発することができた。この勅令は、事後に議会の承諾を求めなければならなかったが、条約は事前にも事後にも議会にかけないでよいことになっていた。

 

さらに大臣も旧憲法では、議会の意思とかかわりなく天皇が任命できた。

 

議長や副議長についても、貴族院は、天皇が直接任命することになっており、衆議院は、まず選挙で議長候補者・副議長候補者をそれぞれ3人選び、その中から天皇が任命することになっていた。

 

同様なことが会期についてもいえ、旧議会の開会の日は勅命で定められ、国会の会期は、常会の会期のみが憲法で3ヵ月と定められているほかは、会期も会期延長も勅命によることになっていた。

 

議案の審議

 

旧議会では、法律案が提出されると、まず、本会議で提案理由の説明を聴き、質疑応答を行った。次に、その法律案を特別委員会にかけて審査した(旧議会では、両院ともに置かれた常任委員会は、予算・決算・請願・懲罰の4つあったが、法律案はすべてそのつど特別委員会をつくって審査した)

 

委員会の審査が終わると、本会議を開いて委員長の報告を求め、その法律案の大体について討論を行った後、第2読会を開くかどうかを決めた。これまでを第1読会といい、第2読会では、原則として条文ごとの審議を行い、議決した。修正案が出されるのもこの段階で、第2読会が終わると第3読会が開かれ、第3読会で法律案に対する議院の意思が最終的に確定した(「3読会原則」)。

 

予算は、法律案と異なり、まず予算委員会にかけ、それから本会議で審議した。この場合予算委員会は、予算が提出されてから原則として3週間以内にその審査を終わり、本会議に報告しなければならなかった。

 

また議事日程には、内閣提出の議案を先に掲げなければならないというような内閣優先の仕組みがあった。

 

旧議会と国民との関係については、各議院は、審議のために国民を議院へ呼ぶことも、議員を各地へ派遣することも禁止されており、現在のように参考人・公述人・証人等の出席を求め、また、委員派遣をして直接に国民の意見を聴くということができなかった。

 

ところで帝国議会は、1946(昭和26)年4月の衆議院議員の総選挙後の5月に召集された第90回議会において、日本国憲法が成立したため、まず貴族院が廃止され、公選議員で組織する参議院が誕生、そして、1946(昭和21)年末に召集され、翌47(昭和22)年3月に解散された第92回議会をもって終わりを告げ、同年5月3日、日本国憲法が施行され、新しい国会が出発することになった。

 

 

(2018年8月14日配信『岩手日報』−「風土計」)

 

 日本初の国会、第1回帝国議会は出だしから波乱含みだった。1890(明治23)年11月25日の初日は、不慣れのため議長候補を決めるのに夜の11時近くまでかかった。翌日ようやく議長が選ばれる

▼さらに陸海軍の経費を巡り、もめにもめた。予算のうち軍事費が4分の1と突出したことに、民権派は「そんな大金を使うなら税金を下げよ」と抵抗する。世に言う「国力増強」か「民力休養」か−の論争だ

▼128年を経ても、論争は決着しない。地上からミサイルを迎え撃つシステム「イージス・アショア」の配備費が膨らみ、計画が迷走している。1基当たりの費用が7割も増え、全体で5千億円に迫るという

▼しかも米国の言い値でつり上がるらしい。政府は「国力増強」を唱えるが、そんな大金があったら何ができるか。秋田県の配備候補地は住宅が密集し、地元の反発は強い。ここは「民力休養」の論議も必要だろう

▼翌年の第2回帝国議会で、衆院は「民力休養」を押し通す。大混乱の中、予算から軍艦の製造費を削る議決をした。これに怒る松方正義首相は、初の衆院解散に踏み切る

▼戦争と平和を考える時季を迎えた。「民力休養」が「国力増強」に押し切られる歴史のようで、初めはそうでもない。イージス論戦にも期待したいが、やめておこうか。今の国会に多くを望むのは。

(2017年11月29日配信『岩手日報』−「風土計」)

 

1885(明治18)年、内閣制度の始まりにより初代首相となった伊藤博文の年俸は9600円。今のお金にすると2億円近いという。今の首相年収は推定4千万円。格が下がった格好だ

▼第1回帝国議会が開かれたのは、それから5年後の90(明治23)年の今日。同年7月には初の衆院選が行われた。選挙権があるのは、満25歳以上で15円以上の国税を納める男性だけ。全人口のわずか1%だった

▼勢い、選挙には富裕層の意向が反映されたが、その結果は、自由民権運動の流れをくむ「民党」勢力が171と、過半数を獲得。政府寄りの「吏党」勢力を制した。政府への不満が社会に拡散していたのだろう

▼第1回議会で、民党側は朝鮮半島の権益確保を目的とする山県有朋政権下の軍拡路線を戒め、予算の無駄を徹底追及。「民力休養」をスローガンに掲げ、土地にかかる税金を下げ国民の負担を軽減せよと訴えた

▼当時、藩閥と官僚から成る内閣の基本姿勢は「超然主義」。議会や政党の主張や反発に惑わされず、よかれと思う道を突き進む−といった意味だが、政党の存在感を高めた選挙結果に、そうした主義は揺らいだ

▼先の衆院選は与党圧勝だった。それが政権支持に直結するのかどうか。自民党が野党の質問時間削減に躍起なのは、少なからず「変わり目」を感じるからなのだろう。

 

inserted by FC2 system