盧溝橋事件(7・7事変)

 

永定河(廬溝河)に架かる盧溝橋付近

 

 

日中戦争(支那事変)のきっかけとなった中国軍と中国に駐留していた日本軍との軍事衝突事件。

 

当時、北京近郊に日本軍が駐留していたのは、日清戦争後(清朝末期)の1900(明治33)年、山東省の白蓮教(びやくれんきよう)の一派にして、拳術・棒術などの武術に習熟した農民の間に起こった秘密結社であった義和団が、生活に苦しむ農民を集めて各国からの中国侵略に抗議した民衆の運動(排外運動)を展開、中国各地で外国人やキリスト教会を襲い、1900年北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含むイギリス、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカ、イタリア、オーストリアの8か国連合軍が出動してこれを鎮圧した、いわゆる義和団事件(北清【ほくしん】事変、団匪【だんぴ】事件)が契機となった。

すなわち、翌年の1901(明治34)年講和を定めた「北京」(最終)議定書」において、各国は中国への“駐兵(兵隊をある地点にとどめておくこと)権”を得、中国の植民地化がさらに強めた。中国への侵略そのものであるが、この権利をたてに駐留したのが、盧溝橋事件を起こした「支那駐屯軍」であった。

しかし議定書による駐兵目的は、公使館を守る(第7条)、北京・海浜間の「自由交通を維持」(第9条)に限定されていたが、日本は他の国とは異なり、この権利を中国侵略拡大の足場にしたのである。

 

満州事変は、1933(昭和年5月の塘沽(たんくー)停戦協定(中国河北省、天津の渤海〈ぼっかい〉湾に臨む地区で天津〈てんしん〉新港ができるまで同市の外港として栄えた塘沽で日中両軍間に締結された停戦協定。この協定により満州国が事実上中国本土から分離された)を持って一応終結した。その後の日本の国策は、「(傀儡国)満州国の育成」が大きな課題になっていた。

1937(昭和12)年3月31日に、いわゆる「食い逃げ解散」を実行して結果、総選挙で敗北、総辞職に追い込まれた林銑十郎内閣に代わって、同年6月4日、「挙国一致」内閣として近衛文麿が首相に就任した第1次近衛内閣

 

注;食い逃げ解散=林内閣が、昭和12度予算が可決された直後、政党が政府に対して協力的ではないとし、議会刷新の名目で衆議院を解散した。しかし、政党や国民は、予算成立というご馳走を食べ終わるなり解散をしたということで、「食い逃げ解散」と非難した・

 

1937年7月7日夜半、北京郊外の南を流れる永定河(えいていが=廬溝河)に架かる橋の盧溝橋(ろこうきょう=大理石の橋で、マルコ・ポーロが13世紀に欧州に紹介したので、マルコ・ポーロ橋ともいう。なお、橋のたもとには乾隆帝〔けんていりゅう〕の「蘆溝暁月」の碑がある)付近で、中国の中心部北京郊外の富台に駐屯する日本の支那駐屯軍が中国側に通告なしに夜間演習を実施していた、その最中の午後10時40分ごろ、数発の射撃音があり、点呼してみたら日本の2等兵1人が足りなかった(足りなかったのは兵士1名が下痢で演習直後に草むらにかけ込んだためであり、直後に無事帰還していた)

 

事件発端の地・竜王廟

 

「これは中国軍(宋哲元の第29軍)の奇襲に違いない!やられた兵士の仇を討つのだ!」と騒ぎになり、事態を重視した牟田口廉也(むたぐちれんや)連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃したのである。この戦闘による日本軍の人的損害は戦死11、負傷36名。中国軍は約100名の死者を出したと推定されている。

 

7月9日に停戦が行われ、11日には(支那駐屯軍)(国民政府冀察〈きさつ〉第29軍)両軍間で停戦協定(松井・秦徳純〈しんとくじゅん〉協定)が調印されて事態は収拾されたかに思えたが、日本政府は同日、「華北派兵に関する声明」を発表、中国に対し「平和的交渉に応ずるの誠意なく」と決めつけ、「北支(中国北部)治安の維持が帝国及満州国にとり緊急の事」として、派兵決定を内外に発表、一発触発の状況の中で日本軍は現地での軍隊同士の小競り合い(7月25日の「廊坊〈ろうぼう〉事件、7月26日廣公安〈こうあんもん〉事件)を理由に7月28日から朝鮮に駐屯していた朝鮮軍や「満州国」に駐屯していた関東軍が次々に侵攻し、北京・天津地方を占領(30日終了)、ついに8月15日政府(第1次近衛内閣〔37年6月4日〜39年1月5日〕)は、「支那軍の暴戻(「ぼうれい」=乱暴で道理がない)を膺懲(「ようちょう」=こらしめる)し以って南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとる」と宣言日本政府「断固たる措置」声明、約10万の大部隊の華北派兵を決定、中国軍も態度を硬化させ部隊を華北(かほく=中国中北部、黄河の中・下流域の地方。河北・山西・山東・河南の4省に渡る地域。古来、中原の地とよばれ、政治・文化の中心。ホアペイ)に移動させて全面的な攻撃を開始し、上海方面にも戦線を拡大、12月には南京を攻略、このとき日本軍は一般住民や捕虜を大量虐殺した「南京大虐殺事件」を起した。

 

注;松井・秦徳純停戦協定(盧溝橋事件現地協定)

第二九軍代表ハ日本軍二対シ遺憾ノ意ヲ表シ且責任者ヲ処分シテ将来責任ヲ以テ再ヒ斯ノ如キ事件ノ惹起ヲ防止スルコトヲ声明ス

中国軍ハ豊台駐屯日本軍ト接近シ過キ事件ヲ惹起シ易キヲ以テ盧溝橋城廓及龍王廟二軍ヲ駐メス保安隊ヲ以テ其治安ヲ維持ス

本事件ハ所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体ノ指導二胚胎スルコト多キニ鑑ミ将来之カ対策ヲナシ且ツ取締ヲ徹底ス

以上各項ハ悉ク之ヲ承諾ス

 

「暴支膺懲」を口実とした日本の侵略に対して中国では、中国共産党と国民党が協力して抗日戦争をたたかう態勢をとり、国をあげての徹底抗戦にたちあがった。日中全面戦争の始まりであった。

 

昭和天皇も同年9月、「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事変を見るに至る」と中国側に戦争の責任を押しつけ、「中華民国の反省を促し速に東亜の平和を確立」するための武力行使だと強弁した。

 

翌1938年1月11日、天皇出席のもとで開かれた御前会議は、「支那事変処理根本方針」決定、「1.『満州国』の承認 2.中国北・中部などへの日本軍駐留 3.日本と「満州」、中国の経済一体化」などを中国政府に要求した。

 

そして同年1月16日、近衛内閣は、国民政府の存在を否認し、日本の作り上げた傀儡政権との連携を強める政治姿勢を明確にするため、「国民政府対手ニセズ」なる政府声明を発表、これにより、日本は完全に和平交渉の道を閉ざしのである。

 

ところで盧溝橋事件の前年の1936年、日本は、「支那駐屯軍」の兵力を約1,800人から約5,800人へ3倍もの増強していた。当然、中国は強く抗議したが、それを無視した日本は、増強部隊を盧溝橋にも近い北京近郊の豊台に駐屯させた。ここは北京の守備の要で、すでに中国軍が配備されていました。互いの兵営の距離はわずか300メートル、挑発行為であることは明白であった。

 

のことは、事件当時、陸軍参謀本部第一部長で、日本が1931年謀略的に仕組んだ鉄道爆破事件(柳条湖【りゅうじょうこ】事件)をきっかけに軍事行動を引き起こした「満州事変」の中心人物の一人石原莞爾が、「豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変(「支那事変」)の直接動機になつたと思ひます」(「石原莞爾中将回想応答録」参謀本部作成)と証言していることからも明らかである。

 

なお、現地の日本兵の間では、「七夕の日は何かがおこる」という噂(うわさ)が飛んでいた(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会)

 

 

「反軍演説」で知られる斎藤隆夫衆院議員(民政党)は、1944年2月に次のように記している。

 「日本の大陸発展を以(もっ)て帝国生存に絶対必要なる条件なりと言はんも、自国の生存の為には他国を侵略することは可なりとする理屈は立たない。若(も)し之を正義とするならば斬取(きりとり)強盗は悉(ことごと)く正義である」(「大東亜戦争の原因と目的」)

 「誰が何と言はうが今回の戦争は日本の軍部が其(そ)の原因を作りたるものである。即(すなわ)ち軍部多年の方針である所の支那侵略が其の根本原因であることは今更議論するの余地はない」(同前)

 

 

また、靖国神社は現在、盧溝橋事件から日中が全面戦争となった「背景」について、「日中和平を拒否する中国側の意志があった」とし、全面戦争にいたったのも「日本軍を疲弊させる道を選んだ蒋介石(国民党指導者)」に責任があると描いている(『靖国神社 遊就館図録』)       

 

 

説明: 櫓

 

 

☆ 盧溝橋事件に関する政府声明日本政府「断固たる措置」声明 

        1937(昭和12)年8月15日

 

 1937(昭和12)年8月15日午前1時10分発表

 

帝国夙ニ東亜永遠ノ平和ヲ冀念シ、日支両国ノ親善提携ニ力ヲ致セルコト久シキニ及へり。燃ルニ南京政府ハ排日抗日ヲ以テ国論昂揚卜政権強化ノ具ニ供シ、自国国力ノ過信卜帝国ノ実力軽視ノ風潮卜相俟チ、更ニ赤化勢力ト苟合シテ反日侮日愈々甚シク以テ帝国ニ敵対セントスルノ気運ヲ醸成セリ。近年幾度カ惹起セル不詳事件何レモ之ニ困由セサルナシ。今次事変ノ発端モ亦此ノ如キ気勢力其ノ爆発点ヲ偶々永定河畔ニ選ヒタルニ過キス、通州ニ於ケル神人共ニ許ササル残虐事件ノ因由亦茲ニ発ス。更ニ中南支ニ於テハ支那側ノ挑戦的行動ニ起因シ帝国臣民ノ生命財産既ニ危殆ニ瀕シ、我居留民ハ多年営々トシテ建設セル安住ノ地ヲ涙ヲ呑ンテ遂ニ一時撤退スルノ巳ムナキニ至レリ。

 

顧ミレハ事変発生以来屡々声明シタル如ク、帝国ハ隠忍ニ隠忍ヲ重ネ事件ノ不拡大ヲ方針トシ、努メテ平和的且局地的ニ処理セソコトヲ企図シ、平津地方ニ於ケル支那軍屡次ノ挑戦及不法行為ニ対シテモ、我カ支那駐屯軍ハ交通線ノ確保及我カ居留民保護ノ為其ニ已ムヲ得サル自衛行動ニ出テタルニ過キス。而モ帝国政府ハ夙ニ南京政府ニ対シテ挑戦的言動ノ即時停止卜現地解決ヲ妨害セサル様注意ヲ喚起シタルニモ拘ラス、南京政府ハ我カ勧告ヲ聴カサルノミナラス、却テ益々我方ニ対シ戦備ヲ整へ、厳存ノ軍事協定ヲ破リテ顧ミルコトナク、軍ヲ北上セシメテ我カ支那駐屯軍ヲ脅威シ又漢口上海其他ニ於テハ兵ヲ集メテ愈々挑戦的態度ヲ露骨ニシ、上海ニ於テハ遂ニ我ニ向ツテ砲火ヲ開キ帝国軍艦ニ対シテ爆撃ヲ加フルニ至レリ。

 

此ノ如ク支那側カ帝国ヲ軽侮シ不法暴虐至ラサルナク全支ニ亙ル我カ居留民ノ生命財産危殆ニ陥ルニ及ンテハ、帝国トシテハ最早隠忍其ノ限度ニ達シ、支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為今ヤ断乎クル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ。

 

此ノ如キハ東洋平和ヲ念願シ日支ノ共存共栄ヲ翹望スル帝国トシテ衷心ヨリ遺憾トスル所ナリ。然レトモ帝国ノ庶幾スル所ハ日支ノ提携ニ在り。之カ為支那ニ於ケル排外抗日運動ヲ根絶シ今次事変ノ如キ不祥事発生ノ根因ヲ芟除スルト共ニ日満支三国間ノ融和提携ノ実ヲ挙ケソトスルノ外他意ナシ、固ヨリ毫末モ領土的意図ヲ有スルモノニアラス。又支那国民ヲシテ抗日ニ踊ラシメツツアル南京政府及国民党ノ覚醒ヲ促サントスルモ、無辜ノ一般大衆ニ対シテテハ何等敵意ヲ有スルモノエアラス且列国権益ノ専童ニハ最善ノ努力ヲ惜マサルヘキハ言ヲ俟タサル所ナリ。

 

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「中国に一撃を加える」(2015年7月8日配信『信濃毎日新聞』−「斜面」)

 

闇夜に銃声が響いた。日本軍の兵士1人の行方が分からなくなる。1937(昭和12)年7月7日夜、中国・北京郊外で起きた盧溝橋事件の端緒だ。夜間演習中だった日本軍と中国軍との武力衝突に発展する

   ◆

水面下で停戦に奔走した軍人がいる。北京駐在武官だった長野市出身の陸軍少将、今井武夫だ。人脈を生かして中国側の将軍と交渉。現地停戦協定の締結にこぎつけ、両軍はいったん盧溝橋から撤退する。ところが本土の陸軍中央と政府は強硬路線に出る

   ◆

 「中国に一撃を加える」と新たな派兵を決定。勢いづいた現地の軍部も攻撃を再開した。日中戦争の始まりである。戦線は急速に拡大し、日本軍は上海、南京などに攻め込んだ。今井はその間も和平工作に関わっているが、対中国強硬論に押しつぶされる。戦争は泥沼化していった

   ◆

 今井は軍部ばかりでなく、大使館員や北京在留の日本人からも「軟弱派」のレッテルを貼られた(原山茂夫著「栗林忠道・今井武夫物語」)。1942年のフィリピン・バターン半島攻略戦では、米軍捕虜の処刑命令を拒み、武装解除のうえ釈放している

   ◆

 盧溝橋の行方不明兵士は小用のため隊を離れただけだった。闇夜の発砲も真相不明のまま牟田口廉也連隊長が独断で攻撃を命令した。事が起きれば「強腰」は喝采を受けるが、大禍を呼び込みやすい。「弱腰」にこそ思慮深い知恵がある。

 

中国・盧溝橋事件から78年(2015年7月8日配信『しんぶん赤旗』)

 

抗日戦争記念館で式典

 日本の中国への全面侵略戦争のきっかけとなった盧溝橋事件(1937年7月)から78年となった7日、事件現場となった北京市郊外の盧溝橋近くにある中国人民抗日戦争記念館で、中国の反ファシズム戦争勝利70年を記念した「偉大な勝利、歴史への貢献」と題する大型展示の開幕式が行われました。式典には、市民や学生、日中戦争をたたかった元兵士の代表ら約1000人が参加。日本の侵略で犠牲となった人々に黙とうをしました。

 展示の開幕を宣言した劉雲山・中国共産党政治局常務委員は「78年前の今日、日本軍国主義が盧溝橋事件を引き起こし、中国への全面的侵略を開始した」と指摘。中国人民は各地で立ち上がり、「世界反ファシズム戦争の勝利に大きな貢献をした」と強調しました。

 中国政府・党は、7日を皮切りに、「抗日戦争・反ファシズム戦争勝利70周年」を記念するさまざまな行事を行う予定。9月3日に天安門前で閲兵式を含む大規模な記念大会を開き、習近平国家主席が重要演説をします。9月18日の柳条湖事件(1931年)、12月13日の南京大虐殺(1937年)を記念する日にも国家レベルの式典を開きます。

 7日付の中国共産党機関紙・人民日報(海外版)は評論員論文で、盧溝橋事件から78年に触れ、安倍晋三首相の歴史認識などを念頭に「歴史修正主義の思想が世界各地にいまだ残り、猛威を振るっており、高度に警戒しなければならない」と警告しました。

 

盧溝橋事件78年:「戦争勝利70周年」行事スタート(2015年7月7日配信『毎日新聞』)

 

日中全面戦争の発端となった盧溝橋事件(1937年7月7日)から78年を迎えた7日、北京市郊外・盧溝橋にある「中国人民抗日戦争記念館」で展覧会の開幕式が開かれ、「抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利70周年」を記念する一連の行事が始まった。

「偉大な勝利、歴史的貢献」をテーマにした展示には、米軍将校の像が建てられ、当時から米中が協力関係にあったことを印象づけた。「共産党を柱とする中国が反ファシズム戦争に貢献した」と「戦勝国」グループであることを強調する記述もあった。昨年のアジア太平洋経済協力会議(APEC)の際に会談した習近平国家主席と安倍晋三首相の写真も展示されていたが、党の歴史観を広める狙いが強く、開幕式のあいさつも宣伝部門担当の劉雲山・政治局常務委員(序列5位)が行った。

 昨年の式典には国家主席として初めて習氏が出席し、対日関係に厳しい認識を示したが、今年は出席しなかった。一方で、国営新華社通信によると、習氏や李克強首相ら政治局常務委員7人全員が7日に展覧会を視察したという。

 5月に自民党の二階俊博総務会長の訪中団と習氏自ら面会し、「止まっていた案件が動き出す中で対日批判はしづらい」(北京の外交関係者)との見方もある。ただ、安倍首相の「戦後70年談話」発表後の9月に天安門広場で軍事パレードが予定され、習氏が国内外に向けて演説する機会があるため、今回は式典出席を見送った可能性が高そうだ。

 

抗日戦争勝利70周年、われわれは何を記念するのか(2015年7月7日配信『人民網日本語版』)

 

 今年は中国抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利70周年だ。78年前の今日、日本軍国政府は「七七事変」(盧溝橋事件)を発動し、全面的な対中侵入を開始した。まさにこの日から中国の軍民は奮起して反撃し、8年の長きにおよぶ全面的な抗日戦争を行い、最終的に偉大な勝利を得た。(文:沈丁立・復旦大学国際問題研究院副院長。人民日報海外版コラム「望海楼」掲載)

 抗日戦争勝利70周年にあたる今日、国家の独立と民族の尊厳を守るための中国人民のこの英雄的壮挙をわれわれが盛大に記念するのは、歴史を銘記し、教訓を振り返り、経験を総括し、平和を永遠に保つためだ。

 われわれが抗日戦争の勝利を記念するのは、歴史を銘記するためだ。中国はここ一千年の発展の歴史において、長年世界文明の最前線を歩んでいた。だが19世紀から中国の進歩は徐々に減速し、改革過程は難度も妨げられ、地域と世界の競争の中で次第に落伍したうえ、帝国主義と植民地主義の横行する時代に世界の列強から侵犯され続けた。1930〜40年代の日本による対中全面侵入は、百年間にわたる中国の没落と屈辱の最後の一編だ。だがこの最後の一編において、中国人民は中国共産党の指導の下、全国の軍民が共通の敵に対して一致団結して敵愾心を燃やし、この上なく勇敢に戦い、家と国を守る壮麗な物語を綴ったのである。

 われわれが抗日戦争の勝利を記念するのは、教訓を振り返るためだ。貧しさと弱さが積み重なっていたうえ、これほどの不遇と波瀾を経験したために、中国は勝利の貴さを一層理解している。平和はどうやって永続できるのか?結論は明らかであり、自国が強くなることだ。したがって、貧困を脱し、発展を図り、強大な新中国を建設することは、抗日戦争勝利の必然的な延長線上にある。21世紀に入り、国際競争は一層激しくなり、中華民族の偉大な復興という中国の夢の実現は国を挙げての民族の意志となっている。抗日戦争勝利70周年を記念するにあたり、われわれはややゆとりのある社会の全面的な完成を核心的目標とし、全面的な近代化を中国の進歩の時代的追求とする必要がある。中国の安全は国家の富強の上に築かれなければならず、強壮な中国はいかなる侵略勢力も粉々に打ち砕くことができる。

 われわれが抗日戦争の勝利を記念するのは、経験を総括するためだ。われわれは国家の安全を特定の大国に託すのではなく、自らの手にしっかりと掌握している。われわれはすでに世界反ファシズム戦争の偉大な勝利を得たが、歴史修正主義思潮が世界のある片隅でなお存在し、猛威を振るってすらいることに強く警戒しなければならない。われわれはかつて戦時中の同盟国と肩を並べて戦ったことを大切にしているが、今や自国のみの利益のために近視眼的になっている超大国があることにため息をついている。前事を忘れず、後事の師とする。われわれが歴史を鑑とするのは恨み、報復するためではない。反対に、中国はかつて敗戦国を寛大に許した。われわれは甚大な民族的犠牲を払った後もなお、かつて戦った国の人々と共に歴史を振り返り、戦後国際秩序を維持することを望んでいる。

 われわれが抗日戦争の勝利を記念するのは、平和を永遠に保つためだ。中国は抗日戦争で軍民数千万人が死傷した。われわれにとっての平和の意義を中国ほど深く理解している国は世界にない。第2次大戦のアジア太平洋の戦場は中国で始まり、中国で終わった。中国抗日戦争は世界反ファシズム戦争を構成する重要な一部であり、第2次大戦の連合国の勝利に大きく貢献した。新中国成立後、特に改革開放以降、世界の東方で台頭する中国はその日増しに広くなる視野と潤沢な国力によって、国際社会の平和・安定に新たな貢献を果たした。各種の地域安全保障体制の構築であれ、国連平和維持活動への積極的な参加であれ、中国の人員と声は国際社会で一層活発化している。

 70年来、中国は大規模な侵入を免れ、国際社会も一層の平和を享受した。人類はすでに世界大戦の教訓を汲み取り、国連という集団安全保障組織を創設した。われわれが今日抗日戦争の勝利を記念するのは、国家の安全を永遠に保ち、世界平和を永続させることを旨としている。

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