沖 縄 戦

 

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「戦争の醜さの極致だ。それ以外どうこれを説明しようもない、凄惨(せいさん)を極めた戦は捨石戦」

 

「日本軍が沖縄県民に集団自決を強要したり、スパイよばわりして虐殺した沖縄戦」

 

「軍と住民が混在した地域が戦場となった戦争」

 

「これまでの軍隊同士の戦争と異なり、住民を軍の指揮下に置き(巻き込み)、敵兵の盾にし、犠牲を強いた戦争」

 

「海に陸に空に激烈を極めた戦争」

 

「米軍の砲撃は間断なく島を耕した」「戦争の冷厳な極致。死闘は古今未曽有」=米軍の砲撃は、「鉄の暴風」といわれ、45年6月だけ撃った砲弾や銃弾は680万発。当時、主に戦闘があった本島南部にいた人の数を考えると、1人あたり約50発。

 

 住民が「ありったけの地獄」を経験した沖縄戦(米軍報告書)=日本軍は45年5月下旬、首里(しゅり)城の地下に置いた司令部と軍の主力を本島南部に撤退させた。そこには大勢の住民が避難していた。住民は必然的に戦火に巻き込まれた。地下壕(ごう)に逃げ込んでいた住民を日本の軍人が追い出したり、敵に見つかるからといって泣いている赤ん坊を殺したりもした。

 

「『軍隊は第一に軍隊を守る、住民は二の次ぎ、三の次ぎ』という軍隊の本質をものの見事に立証した戦争」=生き残った住民は、「米軍より日本軍が怖かった」と語る。

 

しかし、「沖縄県民斯く戦えり」戦争が終わり、平和憲法ができても、沖縄は戦略の島として……!!

 

〈捨て石(囲碁で、より以上の利益を得るために作戦としてわざと相手に取らせる石)〉といわれた沖縄今、〈要石〉といわれている。

 

沖縄中部の絵画を埋め尽くす米艦隊

 

 

砲撃で蜂の巣状態になった沖縄 

 

慶良間列島における集団自決

 

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1945(昭和20)年4月2日付『朝日新聞』

 

 

沖縄戦とは?

 

1.先の大戦において、日本国内で住民をまきこんだ唯一の地上戦。

2.沖縄戦は、大本営にとっては当初から<捨て石作戦>であり、本土防衛の準備が完了するまでの単なる時間稼ぎの展望のない絶望的な戦い。

3.本土決戦(1億玉砕)に備えての兵力温存方針下で、兵力を現地で調達する「自給総動員体制」の戦い⇒住民を法的根拠なく防衛隊員、学徒隊員に徴用、女性や学校の生徒も勤労奉仕隊などに動員、国民学校(小学校)の児童までも土石運びに駆り出された住民総力戦。

4.「軍民共生・共死」をスローガンに(住民は、軍と共生・共死しようとしたが、本土の人間で構成された正規軍は、共生・共死を破った)積極的に住民を戦争に駆り立てた⇒住民を守る事をせず、住民を盾にした戦い。戦うことが可能なすべての住民が動員された戦い⇒「国土防衛義勇隊」「鉄血勤皇隊」「ひめゆり部隊(従軍看護婦)」らがそれである。

5.日本軍によって、多くの住民がスパイ容疑で殺害され(日本軍は参謀長名で、「沖縄の方言を使う者は間諜(スパイ)と見なし処分する」と命令した。その背景には、「厳然たる措置をとらねば、米軍にやられるより先に、島民にやられてしまう。だから、断固たる措置が必要だった」という蔑視思想があった。例えば、沖縄本島北部で米軍に降伏した国頭(くにがみ)支隊の秘密戦大綱には「本島ノ如ク民度低ク……」記されている)。また、各地で住民の「集団自決」を強要した戦い⇒それは、軍命として出された「悠久の大儀に生きよ」や、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」などの思想教育の賜物(たまもの)であった。

 

 

1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦で敗北した日本軍は、太平洋戦線からの後退を余儀なくされた。攻勢に転じた米軍は、日本が占領する太平洋上の島々を次々と制圧し、日本本土攻略をめざし北上した。

 

こうした戦況のなかで台湾と沖縄の基地の重要性が高まり、1943(昭和18)年夏ごろから、沖縄本島、伊江島、宮古島、石垣島など10数か所に、日本軍の飛行場建設のための突貫工事が行われるともに、翌44(昭和19)年3月には、南西諸島の防備を強化するため、沖縄守備軍(第32軍)が創設され、同年6月から中国戦線や本土からの実戦部隊が配置された。同時に、沖縄戦に備えるため本土からも将兵が派遣された。その途中の同年6月29日、独立混成第44旅団・第45旅団の将兵約4、600人を乗せて鹿児島から沖縄へ向かっていた軍用船・富山丸が徳之島海上で、米潜水艦に撃沈され、約4、000人が帰らぬ人となった。 

 

また同年7月には、老幼婦女子の疎開計画が実行され、8月中旬から学童疎開が始まり、8月22日には825人の学童を含む約1、500が「対馬丸」に乗り込み出航した。しかし米潜水艦ボーフィン号の攻撃を受け沈没、乗員は、暗闇の海に呑みこまれていった(船体と犠牲者の遺体は現在も水深800mの海の底に眠ったままである)。

 

米軍は、沖縄戦をアイスバーグ(氷山)作戦と名づけ、約1、500隻の軍艦と、戦闘部隊と補給部隊を合わせて54万8、000人もの兵員を動員して沖縄戦略を展開するが、その一環として、同年10月10日、米軍によるB−29爆撃機など延べ900機による9時間にわたる激しい空襲(10・10−じゅうじゅう−空襲)が那覇・首里をはじめ宮古島、石垣島、大東島などに敢行された。この空襲で、548人が死亡し、家屋1万1、451戸を焼失、那覇の市街地の90%が焦土と化した上、県民の1月分の食糧を意味する30万の米俵を失ったばかりか、貴重な歴史的遺産が数多く焼失した。

  

10・10空襲の後、第32軍から最精鋭の第9師団(武部隊)が、台湾防備の強化戦略ため移動させられたため、沖縄守備軍の兵力不足は深刻さを増した。そのため日本軍は、1945(昭和20)年の2月から3月にかけて法的根拠もないまま、16歳から45歳までの男子を司令官命令で招集し、陣地構築や飛行場の建設等に動員するばかりか、戦場にもかりだした。

 

さて米軍は、1945年3月9日夜から10日にかけてサイパン、グァム、テニアンの各基地から飛び立った300機を超えるBー29で東京を夜間に大空襲、この東京大空襲の焼夷弾投下で東京の下町一帯は火の海となり、江東地区は全滅、約23万戸が全焼し、100万以上の人が家を失い、12万人以上の死傷者を出した。

 

焼け跡には「この仇必ず討つ」といったビラが張り出されたが、このころより本土空襲が激化、11日には名古屋、14日には大阪(13万戸が焼失)、18日から20日にかけては九州各地、つづいて四国、呉が空襲された。高度1万メートルからの爆撃では地上の高射砲は全く役立たず、迎撃用の日本の戦闘機は既になく、国民はただ逃げ惑うことしかなすすべがなかった。

 

米軍は3月26日に、沖縄西方25キロの慶良間(けらま)諸島に上陸、激しい戦闘が展開される。慶良間諸島は大小約20の島々からなるが、住民の多くが住んでいたのが渡嘉敷(とかしき)島と座間見(ざまみ)島であった。

 

いうまでもなく慶良間諸島上陸は、水上機基地・補給基地としての戦略的価値を重視したニミッツ元帥の戦術であった。艦船からの猛砲撃後の米軍の上陸で、島の住民たちは窮地のたち、追い詰められた。日本軍は海岸地帯に食糧を保管していたため、米軍の上陸でそのすべてを失ってしまった。それゆえ日本軍は、住民から食糧を強制的に供出させ、米軍の攻撃に備えて日本軍は壕の中に陣取った。すでに壕に避難していた住民を追い出してである。そのため住民は裸同前で米兵の前に放り出されることとなった。

 

米軍との持久戦を想定した日本軍にとって、住民は足手まといになるばかりか、食糧不足の要因にもなる。そこで軍は、住民に集団自決を強いるところとなる。その結果、700余人が自決する。悲惨(残酷)極まりない話(事実)である。

 

米軍は3月29日までに、同諸島を制圧し、米国海軍軍政府布告第1号・「南西諸島における日本のすべての行政権、司法権を停止し、最高行政の責任は占領軍司令官の権能に帰属させる」を公布(ニミッツ布告)した。

 

本土空襲を続けながら、米軍は4月1日午前8時36分、第24陸軍と第3海兵隊を主力(このほかH・ロウリングス中将の率いる英国太平洋艦隊が、米第5艦隊に所属して参戦)とする米太平洋艦隊司令官兼太平洋方面部隊指揮官チェスタール・W・ニミッツ大将配下の、サイモン・B・バックナー中将の率いる将兵18万2、000人を擁した第10軍が沖縄本島中部西海岸(北谷・嘉手納・読谷)に上陸作戦を敢行する。迎え撃つ日本の沖縄守備軍・第32軍は、第24師団(山部隊)、第62師団(石部隊)、独立混成第44旅団(球部隊)のほか、いくつかの砲兵部隊を主力とする陸軍8万7、000人・海軍1万人、それに沖縄県民義勇隊2万2、000人(米軍の約4分の1)に過ぎなかった。日本軍が水際作戦を放棄したことと、米第2海兵師団が南部から上陸しようとみせかける陽動作戦に、日本軍が完全にはまり中部戦線が手薄になってもあって、わずか1時間内で1万6、000人の兵士は無血上陸に成功する。米軍はまさに「ピクニック気分」で上陸作戦を完了できたのである。

 

しかしその後の戦闘は雨季とかさなり、悲惨を極めることとなる。そしてそれ以後3カ月間にわたり、戦略的に何の意味もない絶望的な戦いが展開されるのであった。

 

もとより米軍の沖縄(当時の沖縄の人口は約45万人弱)本島上陸の目的は、日本の一部を占領するといった事実を日本帝国に突きつけるという決定的な意義とともに、沖縄を基地化することにより米軍が完全に南西諸島の制海権と制空権を確保し、日本本土の攻略に備えるという戦略的な意義があった。

 

やすやすと米軍の上陸を許した戦力的に劣勢の日本軍は、持久戦に備え、守備軍司令部のある首里を防衛するため、主力部隊を首里近郊の地下陣地などに集結させるため、読谷の北飛行場、嘉手納の中飛行場を放棄せざるを得なかった。その結果米軍は、上陸日の午前中には両飛行場を占領するともに、東海岸沿い進撃し、4月3日には沖縄本島を南北に分断することに成功する。

 

南北に分断したあと、北部に向かった米軍は、4月13日には北端の辺戸まで進撃、17日までに北部地区守備隊として配置されていた国頭支隊の本拠地八重岳を制圧し、20日ごろには本島の北部全域を占領する。

 

  4月16日からは、伊江島で飛行場をめぐって日米軍の激しい戦闘が始まった。当時伊江島には約2、700人の日本軍が駐屯していたが、この正規軍だけでは兵員不足は明らかであった。 

 

そのため住民の中から防衛隊、青年義勇隊、女子協力隊など称して、1、200人を動員するところとなる。いわゆる「根こそぎ動員」である。

 

攻防は実に1週間に及んだが、圧倒的武器・兵員の前に日本軍は全滅し、防衛隊員や女子協力隊員も爆雷や手榴弾を持って体ごと米軍の戦車に突撃していった。

 

伊江島での日本人の犠牲(戦死)は4、706人に達した(米軍も日本軍や住民の予想外の抵抗で、1、120人の死傷者がでた)が、そのうち約1、500人は地元住民であった。そのうえ、島の壕(アハシャガマ)では100人余の住民の「集団自決」も起こった。あまつさえ、北部戦線で敗走した日本軍の敗残兵は国頭の山中を転々と逃げ延びていたが、各地で住民から食糧を強奪、その上、住民をスパイよばわりして虐殺した。

 

上陸後、沖縄本島を南下した米軍は、4月7日に牧港・嘉数・我如古・和宇慶を結ぶ日本軍陣地前面に到達したが、ここで初めて日本軍の猛烈な反攻に遭遇するところとなった。日本軍は体に爆雷をかついで米軍戦車に体当たりしたり、闇夜にまぎれて米軍陣地に切り込む等の玉砕戦術で米軍に抵抗した。特に首里北方の嘉数高地と前田では40日余り一進一退の激闘が続いた。

 

5月3日以降、日本軍は2度の総攻撃を行ったが、米軍の圧倒的な近代兵器と将兵の軍門に下った。この時点で、日本軍は主力部隊3個師団の約85%に相当する6万4、000人の戦死者を出し、大部分の兵員を失った。完全敗北は火を見るより明らかであったが、捨石戦である沖縄戦、絶望的な戦いは5月中旬から下旬にかけても続くこととなる。日本軍の玉砕戦術で米軍の被害も甚大で、米第6海兵師団は那覇市安里の北側丘陵地での9日間「シュガーローフ」の戦いで2、600人を超える戦死者と1、300余人の戦闘恐怖症による精神障害者をだした。

 

悲惨な戦いの最中、九州・台湾の日本軍は、7、800機の航空機で沖縄航空特攻作戦(「菊水作戦」)と、日本海軍のシンボルであった不沈戦艦「大和」を中心とした海上特攻作戦を敢行したが、効果なく、4月7日大和はあえなく九州の南方海上で藻くずとなる。それは日本海軍の壊滅を意味する象徴的な出来事であった。

 

日本軍の主力である第32軍司令部は、首里城の地下に堅固な陣地壕(通称「天の岩戸戦闘司令所」)を築いて、そこで牛島満司令官、長勇参謀長、八原博道高級参謀などの軍首脳部が作戦指揮にあたっていたが、5月下旬、司令部は北・西・東の三方から米軍に包囲されて袋のねずみとなる。完全に包囲された司令部では、例によって「玉砕」か「降伏」かの論議の後5月22日、南部の喜屋武半島への撤退を決定する。「玉砕」でも「降伏」でもない、持久戦術であったが、それは捨石戦である沖縄戦を引き伸ばす(本土決戦への単なる時間稼ぎの)ための作戦を意味した。

 

5月27日、日本軍首脳は司令部壕を放棄し、南部の摩文仁(まぶに)へ撤退を開始、5月31日、司令部壕は米軍の手に落ちた。だが、小禄飛行場(現那覇空港)の大田実司令官率いる海軍部隊は撤退せず、6月6日米軍の攻撃をうけて全滅する。

 

第32軍が撤退した沖縄本島の南部一帯には自然壕が多く、米軍の攻撃から見を護るため、当然のことながら沖縄住民の多くはこうした壕に避難していた。そこへ敗走した日本軍兵士と、軍と共に南部へ移動した中部地区の人々が入ったため、喜屋武岬一帯の東西10q足らずの地域に、約3万人の将兵と10万人余の住民がひしめく大混乱状況をきたした。

 

6月初旬米軍は、海からは艦砲射撃、空からは飛行機の爆撃や機銃掃射、陸は戦車を先頭に、火炎放射機を中心とする火器を使用して掃討作戦を展開する。おびただしい犠牲がでたことはいうまでもなかった。

 

そして6月17日までに米軍は、摩文仁岳の日本軍司令部壕まで前進してきた。18日には米軍のバクナー中将が、牛島司令官に降伏勧告状を送ったが、牛島司令官はこれを拒否し、第10方面軍宛に訣別電報を送る。そのバクナー中将も、真栄里部落で日本軍との砲撃戦で戦死する。

 

またこの日、第3外科配属のひめゆり部隊が伊原の壕内で最期を遂げる。 決別の電文送信の翌19日、牛島司令官は、「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、悠久の大儀に生くべし」と命令を出し、23日未明、長勇参謀長と共に、摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決をした。その2日前6月21日、米軍はニミッツ元帥の名で沖縄戦の勝利を宣言していた。牛島司令官自決の日6月23日は、日本軍の組織的抵抗が終了した日を意味した(沖縄慰霊の日。なお、米軍はその日を6月21日と記している)==⇒平和の礎(いしじ)

 

降伏文書に署名する南西諸島の日本軍代表(45年9月7日)−米軍撮影

 

ひめゆり津島

 

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<もうひとつの沖縄戦>(5)12人の死 伝えたい(2018年6月4日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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ハワイ・ホノウリウリ収容所の跡地を見つけた日系人団体のスタッフ、ベッツィー・ヤングさん(右端)の話を聞く古堅実吉さん(手前左から2人目)と渡口彦信さん(同3人目)=米国ハワイ州オアフ島で(秋山かおりさん提供)

 

 沖縄戦の後、捕虜として米国ハワイの強制収容所に送られた3千余人のうち、12人の沖縄県民が病気などのために収容先で死亡したが、その歴史を知る人は沖縄でも少ない。強制収容所を経験した元嘉手納(かでな)町議の渡口彦信(とぐちひこしん)さん(91)は、沖縄の戦争捕虜の歴史を後世に伝えるため、遺骨探しなどを続けている。

 活動を本格化させたのは1980年初め。ハワイの日系議員や弁護士の力を借りて調査を始めた。82年に死亡証明書が地元保健局に残っていると分かると、死亡者が埋葬されたという墓地にも行った。だがそこに遺骨はなかった。

 捕虜の帰国事業を担当した厚生労働省は「遺骨は(ハワイからの)帰国船が神奈川に着いた46年、米側から返された」と説明する。しかし、返還されたはずの遺骨が、その後どうなったのかは分からず「調査を継続中」と言うだけだ。

 強制収容所の歴史は日米の間でずっと忘れ去られてきた。だが近年、変化が見られるようになった。戦後に閉鎖され、日系社会でも「抑留された恥の跡」と語られなかったホノウリウリ収容所に目が向けられるようになったのだ。

 きっかけは98年、米国のテレビ局がホノルルの日系人団体「ハワイ日本文化センター」に、ホノウリウリの調査協力を依頼したことだ。センターのボランティアで日系3世のジェーン・クラハラさんやベッツィー・ヤングさんらが跡地を歩き、2002年に森の中から石垣や収容所の基底部などの遺構を発見した。

 オバマ大統領(当時)が「戦時下に自国民を強制収容した負の歴史」を伝える史跡として公式認定したのは15年のことだ。こうした機運の中で、収容されていた日系人だけでなく、沖縄県民の捕虜への関心も向けられるようになった。

 

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 渡口さんは昨年6月、初めてホノルルの寺院で帰国できなかった12人の慰霊祭を営んだ。当時15歳で学徒兵として収容された元衆院議員の古堅実吉(ふるげんさねよし)さん(88)や沖縄に住む遺族も参加し、地元のハワイ沖縄連合会が協力した。

 米国立公園局の案内で渡口さんや古堅さんらはホノウリウリ収容所跡を訪ねた。「沖縄に帰れなかった人の無念は…」。遠い苦難の日を思い出し、2人は戦没者の鎮魂を祈って跡地に花びらをまいた。

 少なくなった捕虜の体験者たち。古堅さんは言う。「私たちは確かにあの時代、ハワイの収容所にいた。それは米国の沖縄占領政策にもかかわっていたはずなんです」と。「だから体験を語っておかなければならない。3千人余の1人の捕虜として」

 

<もうひとつの沖縄戦>(4)なぜ沖縄県民だけが(2018年6月2日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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少年兵とみられる若者に尋問する米軍=那覇市歴史博物館提供

 

 沖縄戦から73年。沖縄県北中城村(きたなかぐすくそん)に住む元飲料会社会長、安里祥徳(あさとしょうとく)さん(88)は今も思う。「われわれはなぜあのように異国を転々とさせられたのか」

 1945年3月。当時15歳。現在の那覇市首里(しゅり)にあった旧制県立第1中(現首里高)1年だった安里さんは、米軍の沖縄本島上陸が迫る中、陸軍1等兵扱いの少年通信兵として召集された。しかし所属中隊は米軍に追い詰められ、糸満市の摩文仁(まぶに)まで一気に撤退、6月下旬に投降した。

 米軍の兵員輸送船でハワイに送られ、ホノウリウリ収容所に。間もなく米国本土に移されることになり、シアトルに向かう船上で敗戦を迎えた。その後、サンフランシスコの収容所へ移され、さらにテキサスへと移されそうになったときにその移送は中止となった。

 米軍はホノウリウリで捕虜をボーイ(年少者)とオールド(年長者)にえり分け、ボーイの安里さんら100人余りはほかの捕虜よりも早く、45年の秋に沖縄に帰された。安里さんは「当時は分からなかったが、ハワイでの労働に適さない者を外したのかな」と思う。

 沖縄戦の捕虜移送は未解明な部分が多い。最大の謎は「なぜ沖縄県民だけがハワイに移送されたのか」という点だ。

 米軍は戦場で捕まえた者を戦闘員と非戦闘員に分け、さらに戦闘員を(1)本土出身の日本兵(2)朝鮮半島出身の軍夫ら(3)沖縄県民−の3つに分けた。安里さんのような少年もこの選別の対象になった。沖縄県史などによると、ハワイに送られた3千人余の捕虜は、ほとんどが沖縄県民だった。

 

写真安里祥徳さん

 

 戦時中のハワイ日系人の強制収容を研究する国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)外来研究員の秋山かおりさんは、ハワイに連行された県民の捕虜リストを沖縄県公文書館で見つけた。リストには海外戦地の捕虜も含め約3600人が記載されていた。

 「移送の謎に答える決定的な史料はまだ見つかっていない」と話す秋山さん。当時のハワイは労働力不足で、米本国から日本人捕虜も使えという指令が出ていたというが、秋山さんは「理由はそれだけではない可能性が高い」と推察する。

 学徒兵として捕虜になった古堅実吉(ふるげんさねよし)さん(88)は「米軍は戦後の沖縄占領を円滑に進めるために、沖縄の男を沖縄から切り離したかったのではないか」と考える。「軍隊にいた男は邪魔になる。だから僕みたいな少年も容赦しなかった」

 46年の秋以降、ハワイに1年以上抑留された捕虜たちが帰り着いた沖縄は「アメリカ世(ゆ)」に変貌していた。沖縄の生活のすべては米軍の指揮下にあった。

 

<もうひとつの沖縄戦>(3)敗戦 帰れない日々(2018年6月1日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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沖縄県出身の捕虜たち。ズボンに戦争捕虜を表す「PW」の文字がある=ハワイ日本文化センター提供

 

 沖縄県民の捕虜が集められた米国ハワイの収容所で、18歳未満には軽作業が割り当てられた。沖縄からの輸送船で16歳になった元衆院議員の古堅実吉(ふるげんさねよし)さん(88)に命じられたのは、指揮班のお使い役や捕虜の起床係だった。

 戦争の終結も収容所で知った。監視役の米兵が部屋の壁をたたき、金属製の食器をぶつけ合って歓声を上げている。「何があったのか」と古堅さんが尋ねると、「日本が戦争に負けた」と教えてくれた。

 ポツダム宣言の受諾によって日本は無条件降伏を受け入れ、アジア全域での戦闘も終わった。だが古堅さんに悔しさはなかった。戦場からずっと「いつ殺されるか」とおびえ続けた毎日。「これで命拾いした」という、ほっとした気持ちが勝ったという。

 

写真古堅実吉さん

 

 1929年、沖縄本島北部の国頭村安田(くにがみそんあだ)の貧しい家に生まれた古堅さんの少年時代は、命さえもが「お国のため」にあった。四四年に当時の最高学府だった沖縄師範学校に入学したものの、授業は1学期で終了。防空壕(ごう)掘りや陣地構築の毎日に変わった。沖縄戦では2等兵扱いの学生部隊「鉄血勤皇隊」として、日本軍司令部壕の発電用冷却水の運搬を任された。

 戦争は惨めだった。足に被弾し「アンマー(お母さん)」と叫び絶命した先輩。至近弾で即死した同級生。最後は道に転がる無数の死体に胸を痛めながら、敗走するしかなかった。

 「君たちは戦後の沖縄を担ってほしい」。この戦争を生き延びることなど考えもしなかったが、師範学校の校長が戦場での別れに残した言葉を、収容所で反すうした。「これからどう生きるか」を考え始めた。

 日本の敗戦は古堅さんら沖縄の捕虜たちに「帰国」の夢をもたらした。45年秋からフィラリア菌の保持が疑われる捕虜らが沖縄に送還されるようになった。だが他の捕虜に帰還指令はない。さらに1年以上、収容所を転々としながらハワイに留めおかれた。

 そのうち現地の沖縄出身の日系人の中で「沖縄から捕虜が連れられてきている」という情報が伝わり、監視兵に賄賂を渡して食料などを差し入れる人も現れた。古堅さんにも捜し当てた親類が、弁当や英和辞典を届けに訪ねてくれた。

 それでも帰れない日々はつらい。故郷での別れ際に「命(ぬち)どぅ宝ど(命は宝よ)」と言った母を思った。沖縄から戻った軍用機の掃除をしながら「ここに隠れていたら沖縄に帰れるんじゃないか」と涙ぐんだ。ようやく帰国の途に就けたのは46年の秋を過ぎてからのことだった。 

 

<もうひとつの沖縄戦>(2)「地獄谷」と呼ぶ収容所(2018年5月30日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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ハワイのホノウリウリ強制収容所。木造のバラックとテントがあり、沖縄県民の捕虜たちはテントに収容されていた=ハワイ日本文化センター提供

 

 1945年7月、沖縄戦での日本人捕虜を乗せた輸送船は、米国ハワイのパールハーバー(真珠湾)に入った。州都ホノルルを擁するオアフ島の南側に位置するこの軍港は、41年12月8日未明に日本海軍が奇襲攻撃を仕掛けた因縁の地だ。船から下ろされた捕虜がトラックで連れて行かれたのは、島の中西部にあるホノウリウリ収容所だった。

 山中の約65ヘクタールの荒れ地を切り開き、43年に建設されたハワイ最大規模の強制収容所。鉄条網に囲まれてバラックやテントが並ぶ。雨が降ると赤土がぬかるみ、猛烈な暑さと大量の蚊が捕虜たちを悩ませた。「地獄谷」と呼ばれていた。

 収容所では大きな袋が一人ずつに配られた。中には靴や靴下、せっけん、歯磨き粉、食器、コップなどの生活用品が入っていた。

 

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渡口彦信さん

 

 ハワイに上陸する直前、捕虜たちに配られた上着とズボンを脱ぎ、胸や背中、ズボンの太もも部分に「PW」とペンキで書かれた服に着替えた。「Prisoner of War(戦争捕虜)」を意味する屈辱的な印だった。

 捕虜たちはホノウリウリで、ただ食べて寝て、衰弱した体を休めた。18歳の渡口彦信(とぐちひこしん)さん(91)が労働を命じられたのは、ハワイに来て1カ月が過ぎたころ、ホノルル湾入り口のサンド島の収容所に移されてからだ。

 軍の洗濯工場での軍服の整理や、米軍将校宅の庭の草刈り、ごみ集めなどが割り当てられた。労働は1日8時間。監視の米兵が捕虜に暴力を振るうことはなかったが、銃を手に「ジャップ」と呼び、敵意をむき出しにする監視兵もいて怖かった。

 「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え込まれた皇軍兵士が敵国のために働かされる。渡口さんはその悔しさを忘れない。「故郷や家族のことばかり考えてね。働いても米国のためだと思うと苦しかった…」

 真珠湾攻撃はハワイの日系人社会にも暗い影を落としていた。ホノウリウリ収容所には沖縄からの捕虜だけでなく、米国籍の日系一世や二世らが数百人も収容されていた。生活の活路を求めてハワイに移住した日系人の人口は、40年に全州の37%を占めていた。

 このうち、宗教者や教師、経済人ら影響力のある人たちは米国政府より日本に忠誠を誓う者たちとみなされて隔離を強いられた。有力者を失った日系社会は弱体化していった。 

 

<もうひとつの沖縄戦>(1)18歳の捕虜 ハワイへ 猛暑の船底 裸で移送(2018年5月29日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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1945年6月27日、船着き場に向かう捕虜たち=沖縄県平和祈念資料館提供

 

 太平洋戦争末期に日米合わせて約20万人が死亡した沖縄戦から73年。沖縄の人々は本土防衛の捨て石とされただけでなく、3千人以上の男たちが捕虜として米国ハワイに移送され、終戦後も収容されつづけた。少なくなった元捕虜たちは、もうひとつの「沖縄戦」を語り継ごうとしている。 

 捕虜を乗せた米軍の上陸用舟艇は、嘉手納(かでな)沖に停泊した大型輸送船の脇腹につけるように止まった。20メートルほど上方の甲板から縄ばしごが下ろされる。「カモン(上がれ)」。船上から米兵が手招きした。捕虜たちは戦闘で弱った体にむち打って上った。

 1945年6月下旬。米軍との戦いで焦土となった沖縄本島から、戦場で捕虜となった沖縄の兵士らを乗せた船が出航した。

 当時18歳だった元嘉手納町議の渡口彦信(とぐちひこしん)さん(91)は船内で全裸にされ、米兵に海水のシャワーを浴びせられた。あとは下着1枚配られない。閉じ込められたのは、荷を積む船底だった。「殺される」と恐怖に震えた。

 旧制県立農林学校の卒業を目前にした45年2月、渡口さんは徴兵検査に2年繰り上げて合格。那覇市内に駐屯していた球2172野戦高射砲隊に入隊し、初年兵教育もないまま戦場に出た。

 

写真

嘉手納の海辺で73年前を振り返る渡口彦信さん=沖縄県嘉手納町で

 

 4月1日に米軍が沖縄本島に上陸し地上戦が始まると弾薬運びなどをしたが、米軍に制空権を握られて昼間は高射砲を撃てない。砲台に草木をかぶせて壕(ごう)に隠れ、夜になると敵の陣地を攻撃した。弾も食料も睡眠も足りない。「大和魂だけで踏ん張っていた」と渡口さん。150人余いた中隊はやがて30人ほどに。那覇から南へ撤退し、糸満市摩文仁(まぶに)の海岸に隠れていたところを捕まった。

 米軍トラックに詰め込まれ、捕虜を集めた屋嘉(やか)収容所に向かった。数日後には故郷の嘉手納に移動。そこでは集められた捕虜が列をつくり輸送船に乗せられていた。渡口さんも家族の安否も分からぬまま乗せられた。同じ船に当時15歳の古堅実吉(ふるげんさねよし)さん(88)がいた。鉄血勤皇隊と呼ばれる学生部隊の1人だった。

 何十人もの捕虜が押し込まれた暗い船底は窓もない。明かりは裸電球が一つ。猛烈な暑さで人いきれが激しかった。「食事のときも皿一枚配られない。手のひらに飯を盛り、おかずをのせる。顔をうずめて獣のように食べるんです」。そんな扱いが古堅さんには耐えがたかった。誰もが疲れ切って無口だった。1日2回の食事で日にちを数えた。

 用便も人目のある所でバケツにした。汚物処理のため、輪番でバケツを甲板に上げる一瞬だけ、新鮮な空気に触れることができた。

 行き先も分からぬまま、ある日、甲板に出た渡口さんは遠くに島をみた。「あそこは」と監視の日系米兵に尋ねた。「こちらサイパン。あちらはテニアン」。指さす方に日米の激戦地となった島が見えた。

 捕虜を乗せた船は南東へと進んでいた。3週間ほど過ぎたころ、米兵が「上陸だ」と知らせに来た。到着したのはハワイだった。

 

 

証言 戦争 「震える少女」 私です(2019年8月18日配信『しんぶん赤旗』)

 

那覇市 浦崎末子さん(81)
 太平洋戦争で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられ、県民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦。その悲惨さを象徴する場面として戦後、全国に伝えられた米軍撮影の記録映像、米兵を前に「震える少女」を「私だった」と名乗りでた浦崎末子さん(81)=那覇市小禄=。「あんねーる戦(いくさ)でぃ、むるうらんなてぃ(あんな戦争でみんな死んでしまった)。戦争が憎い」。当時の戦場跡、高嶺村大里(現在の糸満市)を74年ぶりに訪れ、家族4人をはじめ、幼友だちなど多くの命を奪った沖縄戦への浦崎さんの記憶は今も鮮烈です。)

キャプチャ2
米軍撮影の映像で、恐怖のあまり、座り込んだまま体をがたがたと震わす少女

 

 映像は、高嶺村大里の農道に座り込んだ「少女」・浦崎さんが、2人組の米兵から水筒で水をもらいながら、がたがたと体をふるわせる姿を映し出しています。
 浦崎さんは6人きょうだいの三女で上に姉と兄が2人ずついました。
 浦崎さんは、米軍の艦砲射撃や爆弾から逃れ15歳上の次女と避難場所を捜していました。その次女が別行動だった母と三男を捜すから、ここで座っているようにと言われ、夜明け前の暗闇の中、1人でいました。
 浦崎さんは、当時の撮影現場の農道で、まだ7歳だったころの不安と恐怖の体験を、こう証言しました。
 「アメリカー(米兵)を目の前で見るのは初めてで、青い目が怖かった。見慣れない撮影機が何か武器に見え、撃たれるのではないかと怖くなり、がたがた震えた」「米兵が差し出した水筒やお菓子は姉たちから『米軍の食料には毒が入っているから食べてはだめだ』と教わっていたので手をつけなかった」
 浦崎さんともどってきた次女は、その日のうちに米軍が越来村(現、沖縄市)に設置した収容所に移されました。母と三男にも3日後に再会しましたが、母のいない寂しさと不安で毎日、泣き明かしたといいます。
 三男はその後、避難中に受けた米軍の催涙弾の後遺症で死亡。父と長男も戦死し、次女も戦時中の傷がもとで亡くなりました。8人家族のうち、生き残ったのは4人だけでした。
少女を震えさせた沖縄戦
“恐ろしい 二度とだめ”

 

キャプチャ
太平洋戦争の末期、沖縄戦で米軍が撮影した記録映像の「震える少女は私だった」と名乗り出て、当時の撮影現場とされる農道で「戦争が憎い」と証言する浦崎末子さん=糸満

 

 「震える少女」は私と名乗り出た浦崎末子さん。この少女を自分と重ね合わせ「似ている」と初めて感じたのは2005年の戦後60年特集のテレビ報道でした。しかし「自分だ」と言えるまでの確信が持てませんでした。
 そんな浦崎さんが「この写真は私だよ」と雑誌に掲載された「震える少女」を手に、はっきりと打ち明けたのは2年前のお盆の頃のこと。突然の告白に、近くに住み、浦崎さんをネーネー(沖縄方言で姉さんのこと)と慕っているめいの明子さん(仮名)は「まさかー」と聞き流しました。
 しかし今年にはいって、明子さんは知り合いを通じて「震える少女」などの沖縄戦の記録映像を作成した「1フィート運動の会」で当時、映像の編集を担当した山内榮元琉球大学非常勤講師に相談しました。
映像を確認して
 
山内さんは保管してある一連の映像で確認した結果、「映像は、高嶺村大里付近で沖縄戦末期に撮影されたものとみられ、話からも本人である可能性は高い」としました。
 なぜ映像を“私だ”と確信できたのか―。浦崎さんは、まよわずに証言しました。
 「身につけている服は、近所のおばぁが着物をほどいて作ってくれた柄とおなじだった。座っていた場所は、アンマー(母親のこと)と一緒に、頭の上に芋などの野菜をのせていつも町まで運んだ通り道だったから覚えていた」
 浦崎さんは、「震える少女は私」と名乗り出てから、仲の良いおばぁや明子さんらとのユンタク(方言でおしゃべり)の場で「戦争と平和」が話題になると言います。
 浦崎さん一家は米軍の攻撃が激しくなり、高嶺村与座から同村大里に避難していました。与座区自治会の「与座の歩み」は過酷な沖縄戦の実態をこう記述しています。「沖縄戦の中でも与座は激戦地であり、与座に住んでいた約4割もの住民が戦没し、家屋・緑が焼き尽くされた」
 1フィート運動の会が、米国立公文書館から取り寄せた記録映像には、住民を巻き込んだ過酷な沖縄戦の状況が映し出されています。
 ―大里や与座付近とみられる山林の「ガマ」とよばれる住民や日本兵が逃げこんでいる避難壕(ごう)などに向けて容赦なく放たれる戦車からの火炎放射や砲弾の連射。
 ―日本兵か住民かの区別のつかない黒く焦げた死体が横たわる道を進軍する米軍。
 ―集落の奥深くまで侵入して砲撃を繰り返す戦車と海兵隊の歩兵部隊、など。
「誰が悪いのか」
 
浦崎さんは、つぶやきました。「こんな戦争を仕掛けたのは誰か、誰が悪いのか」と。
 参院選のとき安倍首相の「憲法9条への自衛隊明記」の報道に、あるおばぁがこう言ったといいます。「また戦の準備かねー」
 艦砲射撃や焼夷(しょうい)弾が着弾するたびに地面にふせ、米兵に囲まれた恐怖で体を「震わせた」当時の農道は、夏草に覆われています。脇を流れる小さな水路、小高い丘の森をいとおしむように見渡しながら、浦崎さんは目に涙をにじませ、力を込めました。
 「戦争は本当に恐ろしい。またんあてーならん(二度と起こしてはだめだ)」

 

(2019年6月25日配信『しんぶん赤旗』−「潮流」)

 

米軍のカメラに写った震える少女。ぼろ切れのように道端に座り込みながら、おびえた表情で身をぶるぶると震わす。その映像は、住民を巻き込んだ沖縄戦の痛ましさを伝える記録としてくり返し放映されてきました

▼「これは私」。今年の「慰霊の日」を前に名乗り出た女性がいました。那覇市の浦崎(旧姓・賀数)末子さん、81歳。現在の糸満市にいたという浦崎さんは地元紙の琉球新報に「初めて見るアメリカーの青い目が怖かった」と証言しています

▼撮影されたのは1945年の6月下旬頃。当時7歳。砲弾飛び交う中を逃げ惑い、姉と避難先を探している途中だったといいます。74年前の戦争で家族4人を失った浦崎さん。「戦争は本当に恐ろしい。二度と起こしてはいけない」と語っています

▼よみがえる、いまわしい記憶。少年兵、ひめゆり学徒隊、集団自決…。本土の捨て石とされ、住民が次々と犠牲になった沖縄戦は国内外の20万人をこえる人びとが命を落としました

▼先人から受け継いだ平和を愛するチムグクル(肝心)。それを伝えていく決意を追悼の日に示したデニー知事は、改めて辺野古新基地の断念を政府に求めました。一方で、ポーズだけの安倍首相のあいさつにはやじや怒号が

▼11歳の少女が詠んだ詩。「二度と悲しい涙を流さないために/この島がこの国がこの世界が幸せであるように」。いまだ平和が脅かされる沖縄の現状を変え、笑い合える本当の幸せを―。それは今に生きる私たちの使命だというように。

 

[沖縄戦 記憶の継承]非体験者が時代を開く(2019年6月17日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 沖縄戦を巡る記憶継承のあり方が今、大きく変わろうとしている。

 沖縄戦体験者が、戦争を知らない世代に、自らの体験を通して、沖縄戦の実相を語り伝える−それがこれまでの普通の姿だった。

 だが、体験者の高齢化や現役引退が急速に進んだ結果、従来のような記憶継承は難しくなった。

 代わって、沖縄戦を経験していない非体験者が体験者から学び直し、非体験者に語り伝えるという試みが急速に広がりつつある。

 今年、開館30周年を迎える糸満市のひめゆり平和祈念資料館は、いち早くこの試みに着手した。

 沖縄戦はしばしば「ありったけの地獄」を集めたような戦争だと形容されるが、その言葉を引用しただけでは何も伝えることができない。

 若い世代はそもそも「ありったけの地獄」をイメージできないのだから。

 例えば、1951年に刊行された「沖縄の悲劇−姫百合の塔をめぐる人々の手記」や53年に発行された「沖縄健児隊」は、学徒隊が経験した軍民混在の戦場を生々しく描ききった戦記である。

 こうした作品に接することで戦後生まれの非体験者は沖縄戦の実相に触れることができる。

 その半面、ひめゆり資料館を訪れる外国人や若い入館者は残酷な場面や暗い映像に対して拒否反応を示すことが多くなったという。

 戦争の実相をどう伝えればいいのか。非体験世代の模索が続いている。

    ■    ■

 「どう伝えるか」という問いかけには「何を伝えるか」という問いも含まれる。

 非体験者が非体験者に語り伝えるこれからの時代は「何をどう伝えるか」という明確な問題意識が要求されると同時に、体験者の語りを繰り返し聞き取り学び直す姿勢が求められる。

 それともう一つ大きな課題になっているのが「どうすれば足を運んでもらえるか」という点である。

 ひめゆり資料館も県の平和祈念資料館も県内の入館者が低迷している。展示の仕方に改善の余地はないか、発信方法は時代にかなっているか、改めて点検が必要だ。

 教員が多忙な上に生徒も部活や進学準備に追われ、学校現場における平和教育は、低迷気味である。

 沖縄戦の記憶を次代にバトンタッチしていくためには、児童生徒が沖縄戦について触れ、考える機会を意識的に作っていく必要がある。

    ■    ■

 吉川弘文館から出版された近刊の「沖縄戦を知る事典」は、沖縄戦若手研究会の非体験世代28人が47のテーマを設定して分担執筆したものだ。

 ざん新なのは非体験世代が多角的な視点で史実を記録していることである。新しい取り組みが広がっていくのを期待したい。

 親も祖父母も戦争を知らないという世代が、これからどんどん増えていく。

 だからこそ、沖縄戦とその帰結としての米軍統治の実相を後世にきちんと伝えていく取り組みが重要になる。

 

戦の記憶に耳を傾けて(2019年5月4日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 安里配水池のある那覇市おもろまちの小高い丘は沖縄戦で日米両軍が激しく戦った場所だ。74年前の5月、頂上の争奪戦を繰り広げ、米軍が制した。米軍の死者は2662人、極度の精神疲労者は1289人に上ったという。日本側の犠牲者数は定かではない

▼米軍が「シュガーローフ」と呼んだ一帯を歩いた。坂の斜面は草木に覆われ、静けさが漂う。戦闘の様子を記した「説明板」が戦いの記憶に触れるよすがだ

▼苛烈な戦争体験は精神疾患を引き起こす。共同通信の調べによると、日中戦争、太平洋戦争で精神疾患になり、戦傷病者特別援護法に基づく療養費を受給しながら入院生活を送る旧日本軍の軍人・軍属が1970年度は567人いた

▼年々減り10年度に21人になり、平成の終わりを前に全員が他界した。心の病に苦しんだ人の壮絶な人生に心を重ねる

▼沖縄戦を体験した元学徒隊の男性の証言が忘れられない。一緒に避難した友達が撃たれて即死した。男性は振り返らず逃げた。生きるために「歩けなくなったらお互い放っておこう」と約束していた

▼戦後、友達の夢を何度も見た。高齢になっても罪の意識を感じ「夢を見るのがつらい」と顔をこわばらせた。戦争がもたらす心の傷は深く、消えない。「令和」の時代も平和であってほしいと誰もが願う。過去の記憶に耳を傾けることは平和な未来につながる。

 

沖縄戦:戦死報告への返信、遺族の元に 元上官保管(2018年11月13日配信『毎日新聞』)

 

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手紙を手渡した大学生の後藤さん(右)と遺族の小亀さん(左から2人目)=札幌市西区で

 

 太平洋戦争末期の沖縄戦で戦死した兵士の元上官の手元に、遺族に報告した書簡の返信が多数残されていた。青森県深浦町の写真家、浜田哲二さん(56)、律子さん(54)夫婦が首都圏の大学生らと協力して、この返信を遺族に返す活動に取り組んでいる。部隊の多くが北海道出身者で、これまでに道内だけでも36通の手紙を届けた。
 陸軍歩兵第32連隊第1大隊長だった伊東孝一さん(98)=横浜市=は終戦の翌年、部下計500人の遺族に手紙を送り、遺族から返事のあった356通を保管していた。 手紙の存在を知った浜田さん夫婦が2017年5月、大学生と共に返還作業を始めた。記載されていた当時の住所や古い電話帳などを手がかりに、遺族を捜している。
 大学生らは4日、幌加内町出身で同連隊に所属していた松本安司さんの妹で、札幌市西区に住む小亀綾子さん(89)方を訪ねた。
 松本さんは、那覇市首里石嶺町周辺で米軍との戦闘中に戦死したとみられる。東洋英和女学院大4年の後藤麻莉亜さん(22)は薄茶色になった封筒を小亀さんに手渡した。手紙では、松本さんの父が「戦死現認証明書、有り難く受けたまわりました」(原文)などと書いていた。
 小亀さんは「ギターや尺八の演奏が得意で、優しい良い兄さんだった。大変だったと思うがよく見つけてくれた。仏様に供えたい」と感謝。「若い人がこうした活動に関わってくれるのもうれしい。戦争だけはダメだね。戦争だけは」とつぶやいた。

 沖縄戦は住民を巻き込んだ地上戦が約3カ月続き、日米で計約20万人が犠牲になった。北海道出身の兵士は沖縄県外者としては最も多い1万800人が戦死。伊東さんが保管していた356通の手紙のうち8割程度が道内からの手紙だったという。
 これまでに返したのは、札幌市、砂川市、帯広市など道内分36通を含む52通。伊東さんは「97歳を超え、私自身が直接出向いてご報告できないことをおわび申し上げます」「二度と無謀な戦争を引き起こさない国家を再興するために、及ばずながら尽力させていただいたつもりです」などとする遺族へのメッセージを、学生たちに託している。
 浜田さんは「手紙を出した本人は多くの場合すでに亡くなっており、当時の遺族が戦死者に対して抱いていた思いも詰まっている」と話す。後藤さんは「この活動を通じ遺族と交流したことで、戦後70年以上たっても、なお戦没者を思い続ける遺族がいることを再認識した」と話した。

 

沖縄戦(2018年8月15日配信『京都新聞』−「凡語」)

 

 この夏、話題を集める一本の記録映画を見た。太平洋戦争末期、日本で最大規模の地上戦が行われた沖縄戦の裏面史に迫る「沖縄スパイ戦史」だ

▼民間人を含む20万人以上が犠牲になった沖縄戦は、1945年6月23日に組織的戦闘が終わる。だが、北部では10代半ばの少年を中心にした過酷な遊撃戦が続いていたことを映画は教える

▼少年たちの部隊は秘密戦教育の特務機関、陸軍中野学校出身の青年将校によって村ごとに組織され、「護郷隊」と呼ばれた。正規部隊に編入された学徒の少年兵部隊「鉄血勤皇隊」とは別の組織である

▼そのゲリラ戦で戦車への特攻など絶望的な戦いに挑み、約160人が戦死した実相が元少年兵らの証言であぶりだされる。精神に異常をきたすなど足手まといになった者は、命令で幼なじみの手で射殺されたという

▼情報が敵に漏れないように住民をマラリアのはびこる島へ強制移住させる、住民同士を監視させて密告させる組織をつくる、さらにスパイ・リストに基づく住民虐殺…。映画が伝えるのは、軍が住民を手駒のように使い、本土決戦に向けた「捨て石」とした沖縄戦のやりきれない闇の深さだ

▼軍隊は本当に住民を守る存在なのか。監督した三上智恵さんと大矢英代さんの問いは、今も続く沖縄の問いでもあろう。

 

沖縄戦:「しまくとぅば」で世代超え継承 孫の琉球大院生(2018年8月1日配信『毎日新聞』)

 

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「卒業式は壕の入り口。泣きながら校歌を歌った」と語る宮城さん(左)の話しを聞く平良さん=沖縄県宜野湾市大謝名4で2018年6月12日午後3時27分


 太平洋戦争末期の沖縄戦に動員された「瑞泉(ずいせん)学徒隊」の生存者の1人、宮城幸子(さちこ)さんが6月に亡くなった。90歳だった。孫の琉球大大学院生、平良美乃(よしの)さん(25)=沖縄県浦添市=は、祖母が生前語ってくれた沖縄戦の記憶を継承し、自身の研究テーマである「しまくとぅば」(島言葉)で後世に語り継いでいくことを心に決めている。「沖縄戦もしまくとぅばも伝え続けていかなくては忘れ去られてしまうから」
 沖縄戦の犠牲者を悼む「沖縄慰霊の日」を4日後に控えた6月19日、平良さんと一緒に訪れた宜野湾市の高校の駐車場で宮城さんは意識を失って倒れ、搬送先の病院で息を引き取った。叔母が勤務する高校の平和学習で全校生徒を前に平良さんが宮城さんにインタビューする予定だった。
 宮城さんは渡嘉敷島の出身で、那覇市の県立首里高等女学校に進学。1945年3月末に沖縄戦に動員され、南風原(はえばる)町にあった野戦病院「ナゲーラ壕」の入り口で卒業式を迎えた。4月に米軍が沖縄本島に上陸すると、手足のない負傷兵の傷口にわくウジ虫を取りのぞくなど必死に働いた。
 「足を切断するために負傷した親友の手足を押さえたのよ。壕を移動する時に『一緒に行きたい』と言われたけれど、離ればなれになってそれっきり」「今も思うわよ。あの子が生きていたらどんな老後を過ごしていたのかなって」。亡くなる1週間前、73年前を思い出して涙を浮かべる祖母の話を平良さんは一生懸命メモした。
 瑞泉学徒隊は61人が戦場に送り込まれ、生き残ったのは宮城さんら28人だけだった。
 平良さんがそんな祖母の戦争体験に初めて触れたのは2014年のことだ。関西の大学で英語を学び、米国留学も経験して沖縄出身というルーツを強く意識するようになっていたころ、祖母がいた壕を巡りながら戦争体験を聞くイベントに参加して衝撃を受けた。
 暗い壕の前で聞いた、祖母が体験した生々しい地上戦の話。生き抜いてくれたことで今の自分がある。そう感じて沖縄の歴史や自らのルーツに目を向けるようになり、沖縄の歴史や文化の土台にある「しまくとぅば」を研究しようと故郷に戻った。
 「ばあちゃんは戦争で家族や友達を亡くした。その痛みを自分がいかに理解できていなかったか、ばあちゃんが亡くなって初めて分かった」。大好きだった祖母を失い、深い喪失感を感じている。だからこそ、沖縄戦も「しまくとぅば」も風化が懸念されるが、「島にある大切な歴史と言葉。きちんと後世に伝えなくてはなかったものにされてしまう」との思いを強くする。
 「美乃が沖縄戦に関心を持ってくれてうれしい。語り継いでいってくれるから」。そう言ってくれた祖母の笑顔。平良さんは叔母と一緒に祖母の体験を一冊の本にまとめようと考えている。決してなかったことにしないために。

 

昭和と同じ…国会は一度狂えばどこまでも狂う人の集まりだ(井筒和幸)(2018年7月28日配信『日刊ゲンダイ』)

 

酷暑が人の命を脅かし続けている。そんな中、我らはうな丼でもホルモン焼きでも冷やし中華でも何でも食らい、無頼の徒たちの昭和史の映画撮影準備に追われている。資料を調べてると、いつの時代も、人は生き残ろうとするか諦めてしまうか、どっちかだと気づいた。

 73年前の7月末も、さぞかしクソ暑かったことだろう。沖縄では6月の末、日本軍は兵も弾も尽き果て、島の住民も巻き込み、米軍に壊滅させられた。それでも日本は本土決戦のために戦争はやめなかった。絶句してしまうが「2000万人特攻をして米軍に和平交渉をしかけたら、日本は全面降伏せずに済む」という、気の狂ったことを平然と言う将官がいたらしいが、いったい、どこまで国民の命を奪い、どんな国を残すつもりでいたのか想像もつかない。

 連合軍の本土侵攻が迫った6月22日「義勇兵役法」を公布し、徴兵を拡大した。これにもゾッとさせられる。15歳から60歳の男、17歳から40歳の女に戦闘を仕向け、17歳未満の少年まで召集した。先の沖縄玉砕戦で14歳から17歳の少年は“鉄血勤皇隊”に入れられ、多くが戦死していたので、この兵役法も当然のことで、「一億玉砕」の法律だった。国会議員どもが制定した。「国会」は一度狂えば、どこまでも狂う人の集まりだ。これは今も言える。豪雨災害の復旧策もままならないのに、デタラメなカジノ法を通した。ふざけた話だ。

 狂っていた昭和の夏。当時の国民のそれぞれの気持ちはどうだったか、必死で生き残ろうとしたか、疲れて諦めたのか。老い果てる最後の戦争体験者に教えてもらいたいのはそこだ。今の10代の若者にそんな好奇心があるかは疑問だが、自分の曽祖父や曽祖母に今からでも聞き取るのが平成世代の最後の仕事かもだ。

 合点がいかないのは73年前の7月27日、つまり本日、米英中から降伏勧告「ポツダム宣言」を受けた翌日、日本の新聞社が書き立てた、まるで酔っぱらいが書いたような見出しだ。「笑止、何が降伏条件だ! 米英よ自惚れるな! 聖戦あるのみ!」と。当時の鈴木首相も「そんな宣言は重要でない。今は黙殺して戦争に邁進する」と記者会見したら、世界中に、「日本は宣言を拒絶した」と報じられてしまった。

 首相以下、戦争指導者の面々は本当はどう思っていたんだか。「もう終結させよう。和平交渉だ」となんで皆で声を上げなかったのか。軍部の玉砕戦の執着に気おされたとしても、なんで、国民、政治家、学者、文学者、ジャーナリストは最後の原爆の悲劇を回避できなかったのか、生き残ろうとしたのか諦めたのか。政府はアメリカの原爆の悪だくみをほんとに知らなかったのか。ポツダム「拒絶」の日に、改めて疑問が湧いてくる。

 

井筒和幸映画監督

1952年12月13日、奈良県出身。県立奈良高校在学中から映画製作を始める。75年にピンク映画で監督デビューを果たし、「岸和田少年愚連隊」(96年)と「パッチギ!」(04年)では「ブルーリボン最優秀作品賞」を受賞。歯に衣着せぬ物言いがバラエティ番組でも人気を博し、現在は週刊誌やラジオでご意見番としても活躍中。

 

ジャーナリストの三上智恵さんと大矢英代さんが…(2018年7月26日配信『沖縄タイムス』−「大弦小弦」)

 

 ジャーナリストの三上智恵さんと大矢英代さんが共同監督を務めたドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」が那覇市の桜坂劇場で公開中だ。初日の舞台あいさつは満員の約300人が詰め掛けた

▼日本軍第32軍の周辺で起きた本島中南部の激戦を「表の沖縄戦」とすれば、映画が描くのは北部の少年ゲリラ兵部隊「護郷隊」や八重山の戦争マラリアなどの「裏の沖縄戦」。綿密な取材による証言と資料映像で、6月23日以降も続いた遊撃戦の実相をつづる

▼北部各地から10代半ばの千人が召集された護郷隊。中高生の年頃の少年たちが背丈より長い銃を担ぎ、敵陣への突撃、スパイと疑われた仲間の処刑などに追い込まれたという。生存者の生々しい証言に胸が痛む

▼映画は住民同士の密告のシステムを暴き、軍への協力を拒めなくなる過程も描く。無垢(むく)な被害者という側面だけではなかった住民の姿が浮かび上がる

▼軍隊は地域に忍び入り、住民同士を監視させ、物資を徴用し、機密を知った者や邪魔になった者は「始末」する。映画が掘り起こした史実は、特定秘密保護法ができた現在とつながる

▼先島では国防強化の名のもと、自衛隊配備が進む。「情報戦」は既に始まっているかもしれない。70数年前、やんばるや波照間島で何が起きたか。再び誰かに利用されないために知る必要がある。

 

沖縄戦はなぜ起きた 神戸で戦禍伝える遺品展(2018年7月1日配信『神戸新聞』)

 

展示された沖縄戦の遺品に見入る来場者ら=神戸市長田区若松町4

 

 太平洋戦争末期の沖縄戦の壕から収集された遺品を展示する企画展が30日、神戸市長田区若松町4のピフレホールであった。犠牲者約20万人のうち半数近くが住民とされる沖縄戦は、なぜ起きたのか−。主催した「沖縄戦遺骨収容国吉勇応援会」学生共同代表、西尾慧吾さん(19)=米エール大=と語り合うワークショップも開かれ、壮絶な地上戦の実相に迫ろうと多くの人が来場した。

 遺品は、沖縄県那覇市在住の国吉勇さん(79)が60年かけて収集した。西尾さんらは戦禍の記憶を継承しようと、国吉さんへの聞き取り調査や全国での企画展に取り組んでいる。

 今回は民間人の遺品を中心に約70点を展示した。西尾さんは「沖縄の壕は一時的な避難所ではなく、数カ月過ごす家のような場所だった」と説明。たんすの飾りや折れた歯ブラシ、女性用くしなどからは「第二の家」として過ごした住民の暮らしぶりが分かる。

 来場者は、鉄不足のために伝統産業である陶器で作らせた地雷や、磁器の手りゅう弾、破裂した砲弾の破片などに見入った。火炎放射により石とくっついた飯ごうや変形したガラス瓶なども惨禍を生々しく伝えた。

 ワークショップでは、西尾さんが「沖縄は米軍と日本軍の双方から抑圧された。沖縄戦に無知であることは、沖縄に対する無意識の差別につながる」と主張した。参加者からは「民間人が犠牲になるむごさを改めて感じた」「沖縄の問題をひとごとと捉えてはいけない」などの声が上がった。

 

終戦後に…スパイと決めつけ、日本兵が一家刺殺 久米島(2017年9月7日配信『朝日新聞』)

 

 1945年、沖縄で大規模な戦闘が終結した後から8月の終戦後にかけて、住民が殺害され続けた地域がある。那覇市の西100キロに浮かぶ久米島。日本兵が住民を米軍のスパイとみなし、乳児を含む計20人の命を奪った。島にいた最後の日本兵が投降してから、7日で72年。悲劇は島で今も語り継がれている。

 「何で日本軍に殺されなきゃならんかね」。久米島の喜友村宗秀(きゆむらそうしゅう)さん(88)は72年前、隣人で兄のように慕っていた仲村渠(なかんだかり)明勇(めいゆう)さん(当時25)とその妻、1歳の息子の遺体を見た。その時のことを思い出すと目が潤んだ。「3人とも真っ黒に焼かれて、頭がなかったですよ。殺した証拠として持って行ったんでしょう」

 沖縄本島や周辺の離島が焦土と化した沖縄戦で、久米島は無傷に近かった。

 沖縄県教育委員会が編集した2種類の「沖縄県史」(1974年と2017年に発行)によると、米軍が久米島に上陸したのは沖縄戦が終結した3日後の45年6月26日。米兵966人の案内役に、島出身の仲村渠さんがいた。

 海軍兵だった仲村渠さんは沖縄本島で捕虜になり、収容所で上陸作戦を知った。久米島に対する大がかりな攻撃が計画されていた。仲村渠さんは、島内の日本兵は海軍通信隊の数十人だけであることを米軍に説明し、投降の呼びかけ役を志願した。

県史に収録された当時の地元農業会長の日記には、仲村渠さんの言葉として「米軍は上陸前に艦船三隻から艦砲射撃をすることになっていたが島の無防備を説き中止させた」と記されている。仲村渠さんが「島を救った」と語り継がれるゆえんだ。

 だが、そんな思いとは裏腹に悲劇は起きた。

 米軍上陸後、山にこもった通信隊は、米軍と接触した住民をスパイと決めつけ、子どもも含め家族ごと殺した。「米軍は住民を殺しません」と呼びかけた仲村渠さんも標的となった。

 8月15日、国民学校に集められた住民は米軍のラジオで玉音放送を聞いた。住民は避難壕(ごう)から戻り、集落の畑を耕す。その横を米兵が歩く。喜友村さんはそんな光景を思い出す。

 一方、通信隊はその後も山中に隠れ続けた。終戦を知っていたかは分かっていない。

 仲村渠さんは米軍から解放され、再会した妻子と自宅から数キロ離れた場所に身を潜めた。だが、それもつかの間。18日に日本兵に見つかった。3人とも刺殺され、家に火をつけられた。

 

沖縄戦時の久米島で偽名を使って潜入していた旧日本軍の残置諜報員についての調査情報も掲載され注目された書籍。

日本兵に殺された仲村渠(なかんだかり)明勇さん(左)=徳田球美子・島袋由美子著「久米島の戦争」(なんよう文庫)から

 

 その2日後には、朝鮮人の谷川昇さんと沖縄本島出身の妻、5人の子どもが殺された。近所に住んでいた与那永昌(えいしょう)さん(88)は取材に対し、「米兵から食料をもらったことでスパイと決めつけられた」と言い、「朝鮮人への偏見もあった」と振り返る。一番下の乳児を松林に埋葬したという与那さん。「赤ん坊まで殺す必要があったのか」と憤る。「米軍と戦おうともせず、島民を殺したひきょう者」。そんな印象は今も変わらない。

 住民の恐怖は、島に派遣された上官の説得で日本兵が投降した9月7日まで続いた。事件を研究し、2010年に「久米島の戦争」を著した島出身の島袋由美子さん(78)は家族全員が日本兵が作成した「殺害リスト」に含まれていたという。「負けるはずはないという思い込みと、上官の命令は“絶対”という軍の体質が虐殺につながった」とみている。

 住民の殺害を指示した隊長は、沖縄の本土復帰を目前に控えた72年3月、朝日新聞の取材に「直接、間接のスパイ容疑で島民を殺した。自己批判せよというのならするが、戦争中のことで、軍人として日本の盛衰をかけてやったことだった」などと語った。

 久米島で平和ガイドをしている佐久田勇さん(59)は「戦後になっても本人は『正しいことをやった』と言う。個人の人間性ではなく、これが軍隊教育の恐ろしさだ。虐殺事件は伝えていかなければいけない」と話した。

 久米島空港から車で10分ほどのサトウキビ畑に、大人の背丈ほどの高さの碑がある。黒い石にはこう彫られていた。

 

 

 

「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人 痛恨之碑」

1974年8月20日(明勇さんの命日)、東京に住む沖縄出身の人達によって仲村渠明勇さんの土地に建立された

 

久米島で起きた鹿山正隊長(海軍兵曹長。当時32歳)による7家族20人の集団虐殺。この鹿山隊長が1972年3月に琉球新報の記者のインタビューに答えて次のようなことを言っている。「戦時中にとった行動に対して当時の最高指揮官として、その時点で最前を払った。弁明は一切しないし、全部責任を持つ」「日本の軍人としてとった行動であって、それが謝罪して元にかえるものでもない。謝ったからどうなんだというような立場は取らない。…日本国民として対米戦争に参加して命をマトに、もちろん生きて帰る予定でなくて、こういうことが起こったことに謝るということは日本の極東防衛のために散った人達に対して、ひとつの冒涜になると思う」「那覇は知らんが、久米島は離島で一植民地」

 

復員した鹿山は事件から27年後の59歳当時(画像)は徳島県に在住していたが、沖縄本土復帰を控えた1972年4月2日号の『サンデー毎日』に掲載されたインタビュー記事の中で事件について概ね事実であったと認めたが、動機については、「スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先きに、島民にやられてしまうということだったんだ。なにしろ、ワシの部下は三十何人、島民は一万人もおりましたからね、島民が向こうがわに行ってしまっては、ひとたまりもない。だから、島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するために、ワシはやったのです」として、処刑は住民ではなく部隊を守る行動であったとして正当な業務行為であったことを主張した4月23日号

     ◇

 〈日本兵による久米島の住民殺害〉 2017年発行の「沖縄県史 沖縄戦」によると、米軍が久米島に上陸した翌日の1945年6月27日、米軍に捕まった郵便局員が降伏勧告状を日本軍に届けに行くと、「敵の手先」としてその場で射殺された。その2日後には区長ら9人が殺され、家ごと焼かれた。

 8月18日には仲村渠明勇さんの一家3人が、20日には朝鮮人の谷川昇さんの一家7人が殺された。日本兵は9月7日に投降したが、他に9家族40人のリストをつくり殺害を計画していたという。

 

■終戦前後の出来事と久米島の住民殺害

《1944年》

10月10日 米軍が沖縄などを空襲し、那覇市は壊滅的被害(10・10空襲)

《1945年》

3月10日 東京大空襲

 26日 米軍が慶良間諸島に上陸

4月1日 米軍が沖縄本島・読谷に上陸

5月下旬 日本軍司令部が首里(那覇市)から南へ撤退

6月23日 牛島満司令官らが自決し、沖縄戦の組織的戦闘が終わる

 26日 米軍が久米島に上陸

  27日 〈郵便局員が日本兵に殺害される〉

  29日 〈住民9人が殺害される〉

8月6日 広島に原爆投下

 9日 長崎に原爆投下

  15日 昭和天皇が玉音放送で降伏を発表。終戦

  18日 〈仲村渠明勇さんの一家3人が殺害される〉

  20日 〈谷川昇さんの一家7人が殺害される〉

9月7日 久米島の日本兵が投降

     南西諸島の日本軍が降伏文書に署名。沖縄戦が正式に終了

※太字は日本兵による久米島の住民殺害

 

いかに伝えるか(2017年8月29日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 中学の修学旅行で行った長崎の平和祈念像の手は、爆心地の位置を示していると思っていた。掲げた方は原爆の恐ろしさ、横にしたのは平和を表す、というのが正しい

▼終戦から1年後の長崎には実際の爆心地を示す矢形標柱という巨大な矢が設置された。美術家の小田原のどかさんはこの標柱を「戦後日本の野外彫刻の起点」として調査を続け、作品も制作している

▼毎日新聞が「戦後72年の表現者たち」と題した連載で小田原さんらを取り上げた。戦争をテーマに表現を続ける。小説や写真、舞台とさまざまな分野で挑戦を続ける人たちがいる

▼平和事業の一環で北谷町から長崎、広島に派遣された中高生の報告会があった。長崎に行った中学生は他県の中高生と交流。多くの住民が巻き込まれたことや強制集団死など沖縄戦の実態を知らない同年代が多いと驚きを話した

▼同時に「伝える活動がさらに必要」と貢献を誓った。北谷高生は広島で外国人と多く接し、沖縄戦が知られていないことを痛感した。伝えるには「英語を学ぶことが大切」と身をもって知った

▼継承の難しさが言われる。学ぶ機会を得た子どもたちは現状を捉え、つなぐことを率直に模索している。表現の第一線にある人たちと同じようなしなやかさと、たくましさを感じさせる。その真っすぐな瞳にいかに答えるか。私たち大人が目をそらしてはならない。

 

(2017年8月26日配信『しんぶん赤旗』−「潮流」)

 

「実際に戦地に行ってみると、戦争は人間と人間の殺し合い、それ以外なにもない」。南方の戦場に従軍した斎藤牛男さん(92)の、次の世代へのメッセージです。戦争体験を語り継ぐ本紙のシリーズ「証言 戦争」で、平和への思いを込めて戦争の悲惨さを語りました

▼この企画への体験談や情報を募集すると、次々と寄せられました。斎藤さんを紹介してくれたのは、近所に住んでいた本紙読者でした

▼笠原梢さん(69)は、祖母が生前語った沖縄戦の体験の録音テープを聞かせてくれました。長男が戦死したことを話した祖母は、「命(ぬち)どぅ宝…」とつぶやきました

▼日本やアジアの多くの人を犠牲にした戦争の実相を伝えることは、平和を守るために欠かせないこと。戦後、市民の運動でもメディアでも営々と積み重ねられてきました▼今、復刻版が話題を呼んでいる『戦争中の暮しの記録 保存版』(暮しの手帖編)。1968年8月に発行した同誌96号の特集号をもとにしたものですが、同号では一テーマの特集は「創刊以来はじめて」だとして、こう記しています。「私たちとしては、どうしても、こうせずにはいられなかったし、またそれだけの価値がある、とおもっている」

▼「証言 戦争」に寄せてくれた方も「平和のために伝えたい」という思いからです。安倍首相は、8月15日にも侵略戦争への反省を全く口にしませんでした。しかし、歴史の真実を隠すことはできません。惨禍を体験した人、それを語り継ぐ人がいるかぎり。

 

水滴が石灰岩に落ちる音だけが暗闇に響く…(2017年8月21日配信『毎日新聞』−「余禄」)

 

 水滴が石灰岩に落ちる音だけが暗闇に響く。ガマと呼ばれる自然洞窟に入ると夏でもひんやりする。沖縄県南部の南城(なんじょう)市にある糸数アブチラガマは沖縄戦の時、野戦病院として使われた

▲戦争末期の1945年5月、約600人の負傷兵が運び込まれた。だが戦況が悪化すると病院は閉鎖され、重傷者が置き去りにされる。ガマに逃げ込んできた地元住民たちとの共同生活になった

▲重傷の兵隊は次々に亡くなる。ガマの中に爆弾を投げ込む米軍の攻撃にもさらされた。命をつないだのは、わずかな食料と水だった。洞窟の天井から落ちてくる地下水の滴を軍靴や飯ごうにためて飲んだ

▲奇跡的に生き残った兵士9人のうちの1人で、愛知県出身の日比野勝広さんは当時21歳。著書「今なお、屍(しかばね)とともに生きる」で光と闇に触れている。「何ヶ月も暗黒に閉ざされていると『太陽を拝んで死にたい』と日光を求め、緑にあこがれ狂ったようになって(重傷者の)大部分が息絶える」

▲日比野さんはこうも書く。「全くの闇であったことが、かえって私たちを狂わせずに、少しでも落ち着かせていたのではないだろうか」。ガマに光が差していたら耐え難い光景を目にしていた。日比野さんは戦後繰り返し訪れ、戦友を供養した

▲この夏も修学旅行生が懐中電灯を手に見学する。時々明かりを消し、当時の出来事に思いをはせる。戦争が終わり、日比野さんらがガマを出たのは72年前のあす。陽光を浴びた山々の緑をただ見つめていたという。

 

沖縄戦の遺骨 国は身元特定に全力を(2017年8月18日配信『北海道新聞』−「社説」)

 

 沖縄戦で亡くなった戦没者の遺骨について、政府が今年から身元の特定方法を見直した。

 事実上、軍人や軍属の遺族に限っていたDNA鑑定を、民間人の遺族にも広げるという。

 それ自体は前進であり、もちろん異論はない。むしろ、多くの住民を巻き込んだ沖縄戦の特殊性を考えれば、もっと早く軌道修正してしかるべきだった。

 国には遺骨を遺族に返す重い責務があるが、遅々として進まない。見直しを機に全力で身元の特定を急がなければならない。

 政府は2003年から、遺骨と遺族を結び付けるDNA鑑定を行っている。ただ、検体の提供を呼びかける対象は、軍人・軍属の遺族にほぼ絞ってきた。

 軍関係者はまとまって行動していることが多く、部隊の記録や遺品などから比較的手がかりを得やすいと考えたようだ。

 だが、これには首をかしげざるを得ない。

 激しい地上戦が繰り広げられた沖縄では、日米合わせて20万人を超す命が失われたが、実にその半数が一般県民である。

 DNA鑑定から民間人の遺族を除く理由はまったくない。

 軍人らに限定したこれまでの身元特定が、ほとんど成果を上げていない事実に照らせば、調査手法そのものに欠陥があったと言われても仕方あるまい。

 政府は先月、鑑定を希望する遺族の募集を始めた。

 制度についての丁寧な説明が欠かせない。

 戦後72年、遺族は遺骨が戻る日を待ち続けている。高齢化を考えると、当然ながら、効果的で迅速な対応が求められる。

 長い年月を経過したDNAは壊れていたり、抽出が難しかったりする。鑑定には困難も予想され、さまざまな科学的手法を駆使する必要があるだろう。

 政府は当面、沖縄県内の10地域で見つかった84柱の遺骨について鑑定を進める方針という。

 戦没者の数に比べれば、ほんのひと握りにすぎない。

 沖縄戦は県内の全域に及んだ。遺骨や地域を限定しない幅広い取り組みで、一人でも多くの身元特定につなげたい。

 一方、国内外の戦場跡には今もなお、約113万柱の遺骨が残されている。

 昨年施行された戦没者遺骨収集推進法は、24年度までを「集中実施期間」と位置付ける。政府は収容に一層力を注ぐべきだ。

 

(2017年4月26日配信『しんぶん赤旗』−「潮流」)

 

やんばるの山々の新緑まぶしく、真っ赤なデイゴの花が咲き始める頃。沖縄はいま、うりずんと呼ばれる梅雨入り前のさわやかな季節です

▼若葉がもえ、草花が彩りを増し、大地を潤す。豊かな自然の中で感じる生命の息吹。しかし72年前、沖縄はこの時期に躍動どころか、命が根こそぎ奪われていく惨禍を味わいました。太平洋戦争末期に日米両軍が激しくたたかった沖縄戦です

▼4月1日、本島の中部に上陸した米軍に対して日本軍は住民を巻き込んだ徹底抗戦で臨みました。本土防衛の時間を稼ぐ「捨て石」として。3カ月にもわたった泥沼の地上戦は沖縄の人びとや自然を破壊し尽くしました

▼あの痛ましい体験を決してくり返してはならない。平和への強い願いは戦後の沖縄の礎となってきました。ところが安倍政権は県民多数の反対の声を押し切り、辺野古の米軍新基地建設を強行。ついに美(ちゅ)ら海を埋め立て始めました

▼護岸工事に着手した25日は沖縄戦で最も戦闘が激しかった場所の一つ、浦添の「前田高地」で攻防が開始された日です。ここで両軍は12日間に及ぶたたかいをくりひろげ、その後の首里陥落、南部彷徨(ほうこう)と住民の犠牲は日を追うごとにふくれ上がっていきました

▼すべての命を奪う戦争につながる基地を新たにつくりながら、どこが「負担軽減になる」(菅官房長官)のか。沖縄にひろがる怒りと悲しみ、魂の叫び。その思いは連帯する全国でも。いまこそ平和をもとめる輪を大きく。合言葉の“あきらめない”を掲げて。

 

米軍資料公開 沖縄戦の全容解明に期待(2017年4月1日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 県公文書館は、沖縄戦に参加した米陸軍や米海兵隊の作戦報告書類約58万4千枚を一般公開した。

 公開資料の中には、米軍が戦時中に押収した日本軍の文書や捕虜となった日本軍兵士の尋問調書も含まれる。日本軍関連の資料の大半が焼失し、沖縄戦は不明な部分が多い。地上戦の証言を検証・補完する貴重な記録である。沖縄戦の全容解明に期待したい。

 この米軍資料はこれまで米国国立公文書館や東京の国立国会図書館でしか閲覧できなかった。これからは沖縄で閲覧できる意義は大きい。

 公開されたのは、米陸軍の「第2次世界大戦作戦報告書」と米海兵隊の「地理ファイル」の沖縄関連資料。このうち「定期報告書」や「日誌」では、1日ごとの日本軍の活動や、砲撃を受けた回数、撃った回数を記録している。戦闘に関する電話でのやり取りも分単位で記録している。1中隊レベルの行動記録であるため、各地域の細かな行動が分かる。これまで知られていなかった市町村ごとの戦争が再現可能だ。

 米軍の記録と、記録されている戦場の証言とを合わせると、戦後世代でも沖縄戦の様子が具体的にイメージできるだろう。実際に資料と住民証言を照合することで壕(ごう)の場所が分かった事例もあるという。沖縄戦から72年経過して戦争体験者が減少する中で、記録資料の価値はますます高まっている。

 「捕虜尋問調書」は、捕虜となった日本兵や民間人の年齢、出身などの情報や、捕虜から聞き取って描いたとみられる地下壕のスケッチなども掲載している。日本軍の配置を聞き出し、捕虜の様子から日本軍の士気を推測するなど、米軍が詳細な分析を行っていたことが分かる。捕らえた日本兵の日記も重要な情報源だった。

 「捕虜尋問調書」の中には、防衛隊として召集された県民の証言がある。防衛隊は沖縄戦直前の1945年2月から3月にかけて根こそぎ動員された。ほとんど軍事訓練が行われず、軍装もないまま約2万5千人が動員されたといわれる。

 今回公開された尋問調書の中に、沖縄出身だということで差別され、脱走した防衛隊員の証言も含まれている。

 「軍政府報告書」の中には戦争孤児を収容していたキャンプ・コザの様子も記録されている。戦争孤児の実態解明も進めてほしい。

 

[43年ぶり県史「沖縄戦」]研究成果 継承に生かせ(2017年3月31日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 沖縄戦に関する県史としては43年ぶりとなる「沖縄県史 各論編6 沖縄戦」が県教育委員会から刊行された。

 新しい証言や資料の発見などで、沖縄戦に関する研究は進展した。若手の研究者たちも育った。今回の県史は、これまでの研究成果の積み重ねを踏まえ、新たな知見を盛り込んだものだ。

 沖縄戦とは何だったかを多面的に知ると同時に、基地問題など現在の沖縄につなげて考えることができる。沖縄戦の新たな基本文献として重要な一冊である。

 特徴は、これまで取り上げられることの少なかった「障がい者」や「ハンセン病」「戦争孤児」、近年研究が進む「戦争トラウマ(心的外傷)」についてもまとめていることだ。

 砲弾の飛び交う中、母親の着物の帯をつかみ走って逃げた目の不自由な少年。聴覚障がいのある若者は、歩いていたところを日本兵にスパイとして捕らわれた。戦場で傷を負った結果、体に障がいが残り、戦後の生活に困難を強いられた住民も少なくない。

 沖縄戦で親を失い、孤児院に入れられた子どもの生活も悲惨で、多くの子どもたちが栄養失調などで命を落とした。米軍の占領支配は児童福祉の観点に乏しく「一貫して支配者の視線」だったと言及している。

 ハンセン病の患者は日本軍によって療養所に強制収容された。劣悪な環境下で壕掘りに駆り出され、餓死や衰弱死が相次いだという。

 「集団自決(強制集団死)」や「慰安所」の実態についても詳述している。

■    ■

 沖縄戦と精神保健との関連は近年になって、注目されている分野だ。戦場での凄惨(せいさん)な体験で心に深い傷を負い、報道や慰霊の日、基地などをきっかけに当時を思い出し、トラウマの症状を訴える人たちがいる。

 「鉄の暴風」が残した不発弾も、県内各地で発見される。処理作業のたびに避難や交通規制を強いられ、県民に不安を与える。2009年には糸満市で水道管工事中に爆発事故が発生した。

 県民への過重負担が続く米軍基地問題も、沖縄戦当時の基地建設から始まった。

 こうした記述からは、沖縄戦が沖縄の現在、そして未来につながる問題だということが伝わってくる。

 県史には、教科書検定に伴う沖縄戦記述の後退、学校での平和教育の成果や課題などもまとめられている。今に生きる私たちが沖縄戦をどうとらえるべきか、考える一助となっている。

■    ■

 翁長雄志知事は発刊のことばで「沖縄戦を理解し、悲惨な体験をしっかり受け止め、次の世代に継承していくための指針となることを目的としています」と記す。

 戦争体験者の高齢化が進む中、沖縄戦の風化が懸念されている。体系的にまとめられた史料をどう生かし、平和の創造に結び付けられるかが今後の課題だ。

 例えば、より平易に書かれ手軽に入手できる普及版を制作してはどうか。沖縄戦の実相を正しく伝えるために、さらなる工夫が求められる。

 

沖縄戦の90日間(2017年3月26日配信『朝日新聞』−「天声人語」)

 

 ちょうどいまごろから咲く沖縄の県花デイゴは炎のような色をしている。《でいごの花が咲き、風を呼び、嵐が来た》。90年代のヒット曲「島唄」は、沖縄のひめゆり学徒隊の話を聞いた衝撃からつくられた。「自分の無知に怒りがこみ上げた」とボーカルの宮沢和史さんは振り返っている

▼72年前のきょう、沖縄戦は始まった。慶良間諸島に米軍が上陸し、水面を埋める艦艇で海は黒く染まった。ありったけの地獄を集めたと形容された地上戦は90日間続く

▼沖縄戦は、運命の分かれ道が延々と続く。始まりや終わりだけを知っても、体験者の本当の苦しさは理解できない。そんな思いから、日米の記録や住民の証言などをもとに、一日ごとに何が起きたのかをたどったことがある

▼3月28日の集団自決に居あわせた女性は証言する。「私の頭部に一撃、クワのような大きな刃物を打ち込み、続けざまに、顔といわず頭といわず……目を開いて、私は私を殺す人を見ていたのです」(『沖縄県史』)

▼叫ぶ。泣く。燃やす。ためらう。命ずる。死ぬ。記録をめくるたびに「これが戦争だ」と違う側面を突きつけられる。沖縄戦で亡くなった日米の軍人や地元の住民は、約20万人。それぞれの形の「戦争」があった

▼沖縄は、本土を守る「捨て石」として戦場となった。その体験を共有することは簡単ではない。それでも想像力を働かせることはできる。6月23日の「慰霊の日」までの90日間。心のタイマーを72年前に合わせてみたい。

 

国保交付金格差 沖縄戦のつけを解消せよ(2017年1月31日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 県民は沖縄戦で多大な犠牲を負った上、今も交付金の格差の不利益を被り続けている。政府は、早急に抜本策を講ずべきだ。

 沖縄戦時に出生数が激減した沖縄は前期高齢者(65歳〜74歳)の割合が全国最下位と極端に低い。そのため前期高齢者の割合に応じた交付金が全国より少なく、市町村の国民健康保険財政の赤字が拡大し続けている。

 前期高齢者交付金制度が始まった2008年度から15年度に、県内の市町村が国保財政の赤字を埋めるため一般会計から支出した総額は637億円余にも上る。

 同制度は高齢化に伴い赤字が拡大する国保財政の支援が目的だ。

 制度導入後、前期高齢者の人口比率が高い全国市町村の国保財政は改善し、制度の恩恵を受けた。しかし沖縄戦の影響で同年代の割合が低い沖縄は交付金が少なく、国保財政は悪化をたどり、単年度赤字が100億円近くに上る。

 そのほかの制度支援を含め全国の市町村が18年度までにほぼ赤字を解消するのに対し、沖縄は18〜24年度の赤字総額が数百億円にも上る見通しというのだ。

 国保加入者1人当たりの交付額を見ても、14年度の全国9万9千円余に対し沖縄は1万6千円余と極端に少ない。

 国保財政の赤字を補うため県内市町村は一般会計予算から多額の支出を余儀なくされ、行政サービスの低下が危ぶまれる事態に陥っているのである。

 沖縄戦で国策の犠牲になった上、そのしわ寄せを県民が負わされ続けるのは不条理極まりない。

 前期高齢者交付金の制度設計に問題があったのは明らかだ。政府は沖縄戦による出生減の特殊事情を掌握し、県民に不利益を及ぼさない制度とすべきだった。

 制度導入後に厚生労働省は、以前の制度より「交付金が少なくなったのは事実」と不備を認め、厚労相は「沖縄の特殊事情を勘案し制度に反映させたい」と約束した。

 その後も県、市町村が制度の改善を訴え続けているが何ら改まっていない。政府のこの間の無作為を厳しく批判せざるを得ない。

 政府は18年度から国保の運営を市町村から都道府県に移管させる。そのための論議が今後、本格化する。この機会に、県や市町村、議会、国会議員など県民が一体となって前期高齢者交付金の格差解消を政府に突き付けたい。

 

分かり合う機会に(2016年12月27日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 月日は駿馬(しゅんめ)が駆けるようにあっという間に過ぎ去っていく。沖縄の言葉に「月(チチ)ぬ 走(ハ)いや 馬(ンマ)ぬ走い」とある。時を大切に、ということだ

▼ブラジルから来て北中城村で3カ月を過ごした大工廻ルーカス・ケンゾさん(27)は、そんな言葉を引用して研修を振り返った。自国で修行を続ける琉球舞踊を本場でみっちり学んだ。充実の日々を惜しみ、修了式で語った。「沖縄は私のふるさと。帰る場所」

▼1992年から始まった北中城村の海外移住者子弟研修は25回を数える。今回も3人が来沖した。日本語を学び、地域伝統を知り、村内外の文化施設も巡る

▼ペルーからの大城金城アルド・ラウルさん(29)は、糸満市摩文仁の平和の礎などを訪れた。沖縄戦に思いを寄せ「祖先の苦しみを知り、もう二度と戦争が起きないようにするのが私たちの義務」と決意した

▼アルゼンチンからの安里ナオミさん(24)は、来沖前まで「私は100%アルゼンチン人でした」と言う。研修を経て「今、私は北中城の人。ルーツは北中城」と話す。祖先が生きる糧ともした文化に触れ、新たな思いが湧いた

▼電子機器がいかに発達しようとも、じかに人が接し、分かり合う機会を大切にしたい。何か起これば、大丈夫だろうか、困っていないだろうかと思い合う。何物にも替え難い、支え合いの輪が村内、南米にまた広がった。

 

日本兵が日本兵を銃殺 当事者の元隊員95歳男性が記録に 「住民虐殺、強姦・強奪許せず」(2016年12月26日配信『琉球新報』)

 

 1945年の沖縄戦で激戦地となった摩文仁で、日本兵が沖縄住民を殺害したり強姦(ごうかん)したり食料強奪をしたりする事態を我慢できず、別の日本兵がその日本兵を殺害する出来事があった。当時、沖縄で戦闘に参加した元日本兵・飯田直次郎さん(95)=神奈川県在住=は自ら日本兵を銃殺したことを証言した。飯田さんは知人の協力を得て、中国で戦争に参加した体験や沖縄戦の詳しい足跡を原稿用紙129ページにまとめた。

 1945年の沖縄戦で激戦地となった摩文仁で、日本兵が沖縄住民を殺害したり強姦(ごうかん)したり食料強奪をしたりする事態を我慢できず、別の日本兵がその日本兵を殺害する出来事があった。当時、沖縄で戦闘に参加した元日本兵・飯田直次郎さん(95)=神奈川県在住=は自ら日本兵を銃殺したことを証言した。飯田さんは知人の協力を得て、中国で戦争に参加した体験や沖縄戦の詳しい足跡を原稿用紙129ページにまとめた。

 45年6月、球部隊に所属していた飯田さんは摩文仁の壕に潜んでいた。一緒に逃げて仲良くなった日本海軍兵や周辺住民から「自分が隠れている壕で住民にひどいことをしている軍曹がいる」と聞いた。その内容は、住民や子どもを殺害したり女性を強姦したり食料を強奪したりするほか、その一帯で水が飲めた唯一の井戸を独り占めにしているというものだった。

 ある日、飯田さんも「佐々木」という名の軍曹による「悪行を目撃」した。「見るに堪えない。もう限界だ。同じ日本の兵隊として許せねえ」と殺意が湧いた。海軍兵に「このまま見て見ぬふりできねえ。島民が殺されているんだぜ。やつさえいなければ皆なんとかしのげる。水も飲める」と殺意を明かした。

 飯田さんは米軍との戦闘前、那覇市の住民宅で寝泊まりし、沖縄の人々から温かくしてもらったことへの「恩義」もあって「住民を殺す日本兵が許せなかった」と言う。ある晩、井戸で住民に嫌がらせをしている佐々木を見つけた。人影がなくなったのを見計らい、軍服を引き裂いた布で拳銃を隠し持って近づき、水を飲んでいる佐々木の後頭部に銃を近づけ引き金を引いたという。

 飯田さんは「全ては島民のためと思ってやったが、私自らの手で日本人をあやめてしまった。70年余たっても忘れられない」と話し、今でもつらい思いが残っていることを吐露した。

 本島南部の激戦時、食料が尽きて飢えた日本兵が夜、米軍の陣地に忍び込んで食料を盗み、その帰りを待ち伏せた日本兵がそれを奪い、殺し合う事態も「よくあった」という。「戦場では人間が人間ではなくなってしまう」と振り返る。

 飯田さんは「軍隊は住民を守るどころか、軍隊がいることで戦場になってしまう。(辺野古に)飛行場を造ることはいいことではない。沖縄の人々にとって戦後は終わっていない。戦争は絶対に駄目だ。勝っても負けてもよくない。自分の命を落としてでも俺は絶対に反対する」と語った。

       ◇     ◇

 【沖縄戦研究・石原昌家沖縄国際大名誉教授の話】

 住民への日本兵による残虐行為の証言は多いが、日本兵自身による詳細な証言はあまりなく、貴重だ。

 

(2016年12月13日配信『しんぶん赤旗』−「潮流」)

 

 「申(さる)年の息子から孫が元気にうまれた」と、申年生まれの4代目を喜ぶのは、年女で、84歳になる広島被爆の中村雄子さんです。安倍政権にきな臭さを感じ、ひ孫が“戦争で命を落とすことのないように”と思ってしまう、とも

▼あの日、市内で建物取り壊し作業に動員された後輩たちは全員犠牲に。「核兵器と戦争は許せない」と語り部をしてきました。先日の被団協沖縄連帯ツアーで中村さんの心に響いたのは、沖縄戦“ひめゆり学徒”の語り部、島袋淑子さんの体験です

▼「負傷兵の手術、切断した手足の処理や死体埋葬…数カ月もつらい仕事をさせられた。敵兵から逃げ回った恐怖。苦しみを深く理解しないといけない」と中村さん。基地ノー・米軍いらないのたたかいで先頭にたつ「オール沖縄」の原風景をみた思いだと

▼県民根こそぎ動員と持久作戦で臨んだ日本軍。米軍の上陸作戦が始まった3月、島袋さんらは陸軍病院に。撤退した南部で六つの壕(ごう)に分散して伝令などを手伝います。軍は6月18日、突然「解散命令」を出し、敵の目前に放り出します

▼数日で100余人が犠牲に。自身も、瀕死(ひんし)の重傷を負いました。「死ぬ時は一緒よ」と約束したのに。すまないと思い続けた日々。それが消えたのは1989年、平和祈念資料館が完成してから

▼遺族が「あなた方が生きたから、娘も生きたことが証明された」と。島袋さんは語ります。「戦争は人災、人間がやること。人間がとめられる。いまが大事」。非戦と非核の思いは重なります。

 

東京の劇団「こまつ座」の公演「木の上の軍隊」を見た(2016年12月2日配信『沖縄タイムス』−「大弦小弦」)

 

 東京の劇団「こまつ座」の公演「木の上の軍隊」を見た。作家の故井上ひさしさんの原案を、劇作家の蓬莱竜太さんが遺志を継いで完成させた作品で、2013年以来の再演だった

▼沖縄戦時、木の上に隠れて2年間生き延びた沖縄育ちの兵士と、県外出身の上官の2人の物語。伊江島での実話から着想を得ている

▼登場人物はわずか3人で、巨大なガジュマルを据えた舞台は主に兵士2人の対話で進む。コミカルで微妙にかみ合わないが、そこにヤマトと沖縄がそれぞれに向ける“目線”が反映されていた

▼生まれ島を米軍に奪われ基地が造られていくことに焦る新兵は、「あいつらを追い出すために、一緒にいるんですよね」と問う。上官は、島でなく国を守るためにいると叱り「そのことをまったく分かっていない。お前が本当の意味での国民じゃないからだ」と言い放つ

▼新兵は叫ぶ。「守られているものにおびえ、おびえながらすがり、すがりながら憎み、憎みながら信じるんです」。せりふの随所に沖縄と本土の“裂け目”が投影され、今にも通じる痛みを感じた

▼「沖縄は日本なのか」、あるいは「日本にとって沖縄は何なのか」。昨今の政治社会情勢から発せられる問いを思い返した。裂かれ互いに痛む心であるなら、その間に「回路」をつくってくれる舞台だと感じた。

 

沖縄戦 風化させぬ 大津の94歳男性 今秋、語り部に(2016年8月14日配信『京都新聞』)

 

「生と死の分岐点を何度くぐり抜けたかわからない」と自身の体験を振り返る木本さん(大津市内)=左=と出征前の壮行会で、地域の人たちに送り出される木本さん(お辞儀をする右側の男性)=近江八幡市・小田神社、木本さん提供

 

 15日の終戦記念日が近づき、71年前の沖縄戦を生き延びた木本勇さん(94)=大津市大平2丁目=は「生と死の境目に何度立ったかわからない。戦争を風化させてはいけない」と思いを強めている。壮絶な地上戦が繰り広げられた摩文仁(まぶに)で重傷を負いながら、幸運にも命を取り留めた。犠牲になった人たちの姿は今も脳裏に焼き付いている。今秋、県平和祈念館(東近江市)で初めて体験を語る。

■犠牲者の姿や記憶 今も鮮明なまま

 太平洋戦争末期の1944年。滋賀県職員だった木本さんは22歳で2度目の赤紙を受け取った。配属先はその後の沖縄戦で最前線を担うことになる「石部隊」。博多港から朝鮮半島を経由し中国で部隊に合流、同年8月に沖縄へ上陸した。1カ月以上かかった道中は一度も洗濯できず、体中にしらみが湧いたという。

 沖縄では道路造りに従事したが、県職員としての経験を買われ、途中から沖縄守備軍(第32軍)の司令部に出向した。各部隊への指示が書かれた書類をガリ版でつくるなど事務作業を担った。

 米軍が上陸を開始した45年4月、首里城にあった軍司令部にも空と陸から砲弾の雨が注いだ。食料を壕(ごう)の中へ移そうと、弾幕の中を米袋を担いで死にものぐるいで駆けた記憶もある。上陸地点を守っていた当初の配属部隊は全滅し、「出向していなかったら私も死んでいた」。戦況はさらに悪化し、軍司令部は最南端の摩文仁まで撤退。たどり着いた兵士はガマと呼ばれた岩穴に身をひそめたが、隣の人が誰かも分からない混乱状態だった。

 そこでは、わずかな判断が生死を分けたという。米軍は互いの顔を認識できる距離まで接近しており、「暑いから、穴の外へ涼みに出た人は狙い撃ちされた。真水をくめる井戸も近くに一つしか無く、格好の的だった」。20日前後、ほぼ食料なしで耐えたが、状況を悲観して自爆する人も出た。

 終戦の知らせが届かず、8月15日以降も岩穴にこもり続けた。投降するよう訴える米軍の呼び掛けも信じられなかった。耐え続けていたが、岩穴付近で爆発した手りゅう弾の破片で、右太ももに骨が見えるほどの重傷を負った。痛みはなく、しびれたような感覚が続く。もちろん薬はない。「いずれ死ぬな」。運を天に任せるような気持ちで呼び掛けに応じた。8月26日だった。

 「犠牲者の姿や当時の記憶は、今も鮮明なままです」と木本さんは話す。兵士や住民、白衣の看護師らの遺体は、数え切れないほど目にした。摩文仁へ撤退する道中は、20歳前後の女性住民が「どうせ死ぬからもういい」と、あきらめて自宅から逃げようとしなかった。

 「上層部は敗戦すると分かっていたはず。なぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのか」。思いは年々、募っていく。

 忘れられない体験から71年。講演を頼まれる機会はあったが、「短い時間では語りきれない」と断ることが多かった。ただ、自身の体験を伝えようと手記を書きとめていたこともあり、県平和祈念館が定期的に催している「戦争体験を聞く会」で語り部を務めることを決めた。11月13日に登壇する予定だ。「戦争を体験した人の多くが亡くなっている。若い世代に戦争のことをもっと知ってほしい」

 

注;石部隊(いしぶたい)=沖縄戦で、沖縄本島に配備された主要部隊・第62師団(藤岡武雄中将)の通称。京都で編成され、1944年7月に中国から沖縄守備隊・第32軍に編入された。嘉数高地を中心とする戦闘で多くの戦死者を出した。1941年6月22日、沖縄本島南端の摩文仁において藤岡師団長が自決し戦闘を終えた。

 

遺骨DNA鑑定 対象遺骨を拡大すべきだ(2016年7月21日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 沖縄戦の犠牲者とその遺族に対し、国は最大限の責務を果たすべきだ。その観点から収容遺骨のDNA鑑定に取り組んでほしい。

 厚生労働省は、沖縄本島で収容した戦没者の遺骨を遺族の元に返すため、全国の遺族に対しDNA鑑定へ協力を呼び掛けた。費用は全額国負担である。

 身元が分からない遺骨と遺族を結び付けるDNA鑑定を効果的に進めるための事業であり、国の対応は評価はできる。沖縄戦で肉親を失った全国の遺族の要望に応えるものだ。

 鑑定対象となる遺骨を日本兵にとどめてはならない。住民犠牲者の遺骨も遺族の元へ戻すべきである。厚労省は力を尽くしてほしい。鑑定を進めるため、家族を沖縄戦で失った県民の協力も必要だ。

 4人に1人が犠牲になった沖縄では県民の多くが遺族と言える。沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松代表は県内遺族のDNA鑑定への参加を呼び掛けている。遺族に遺骨を戻す意義を県民全体で理解したい。

 気になる点がある。今回の鑑定対象を、部隊の記録などが残る那覇市真嘉比や西原町幸地など4地域で見つかった遺骨のうち、歯からDNAが抽出された75人分に限定したことだ。厚労省が発掘し、保管している遺骨は600人分である。鑑定対象となるのは、その1割強にすぎない。

 激しい地上戦において部隊の正確な位置を資料で証明するのは困難だ。具志堅氏によると、遺族が認識する戦死場所と遺骨発見場所が大きく異なる事例がほとんどという。鑑定対象の遺骨を地域で限定するのは疑問だ。

 厚労省は頭蓋骨が残る遺骨に限り、歯からDNA献体を採取する方針だ。これでは鑑定対象の遺骨は限定的だ。遺骨収集で出てくる骨は爆発などでバラバラになったものが多いからだ。

 朝鮮戦争戦死者の遺骨鑑定を進める韓国は大腿(だいたい)骨からDNAを採取している。参考にしてほしい。

 遺族に遺骨を戻すためのDNA鑑定ならば、厚労省は対象範囲を限定するのではなく拡大すべきだ。そのことが沖縄戦犠牲者と遺族に対する国の責務を果たすことにつながる。

 DNA鑑定で遺骨の身元が初めて判明したのは2011年のことだ。国の取り組みと遺族の協力を通じて、より多くの遺骨の身元を明らかにし、遺族に届けたい。

 

沖縄戦22収容所で住民6400人死亡 米軍保護下で栄養失調や感染症(2016年6月19日配信『東京新聞』)

 

 米軍が1945年4月に沖縄本島に上陸して以降、占領地域に設けた収容所で計約6400人の民間人が死亡していたことが、本紙と沖縄社会経済史研究室主宰の川平(かびら)成雄・元琉球大教授の共同調査で分かった。各地の収容所の総人数はピーク時に33万人を超え、栄養失調や感染症による死亡者が続出。米軍の保護下での食糧不足などで、収容された住民に多大な犠牲が出ていた実態が浮き彫りとなった。

 米軍は沖縄戦で、占領した地域から順に軍政を敷き、民間人収容所を設けた。共同調査では、少なくとも22カ所の収容所で計6523人の死者が出ていたことが判明。各地の収容所は統廃合の末、45年10月ごろには16カ所に集約され、大半が46年までに閉鎖された。

 収容所の所在地を現在の自治体に当てはめると、うるま市以北の名護市、宜野座(ぎのざ)村など、沖縄本島北部四自治体にあった13収容所の死亡者が計約3400人に上り、全体の半数以上を占めた。日本軍が45年5月に南部に撤退した後、米軍は取り残されたりした中南部の住民の大半を北部の収容所に送り、死者数も増えた。

 死亡者数が最も多かったのは、南部の知念(ちねん)(現南城市)の収容所で2042人。死因が判明しているのは一部の収容所に限られるが、大川(現名護市)ではマラリア感染で700人が死亡し、汀間(ていま)(同)の死者236六人のうち、半数近くの98人の死因が胃腸病だった。

 米軍は沖縄戦で、民間人24万人に1人当たり1日1・9リットルの水のほか、食糧7万食の調達を計画。だが、民間人収容所の住民は45年8月に計約33万4000人に達し、食糧供給は限界を超えていた。

 川平氏は「民間人収容所の設置には、沖縄戦をスムーズに戦う狙いがあった。収容者を米軍施設建設や、沖縄の『戦後』復興に利用しようとした米軍の政策意図も読み取れる」と話す。

本紙共同調査の方法

 調査は、米軍の民間人収容所で亡くなった住民の死者数を、収容所単位で抽出することに主眼を置いた。

 死亡者の氏名、年齢、出身地、死没年月日などが記された古知屋(こちや・現宜野座村)や瀬嵩(せだけ・現名護市)など4カ所の収容所の共同墓地の埋葬者名簿や墓地台帳をはじめ住民への聞き取り調査などに基づく収容所に関する市町村史収容所に勤務していた米兵の日誌−などに記述がある収容所の死者数を集計。自治体には可能な限りデータの根拠を確認した。

 市町村史に出身者の死者数の記録があっても、共同墓地の埋葬者名簿や墓地台帳にその市町村出身の死亡者名がある場合、重複を避けるため集計から除外した。

 

 <米軍の民間人収容所> 米軍は沖縄戦で捕らえたり、投降した日本兵の捕虜収容所とは別に、占領した地域の住民向けの民間人収容所を各地に設置した。中には、集落全体を管理下に置き、有刺鉄線に囲まれていない草地にテントを張っただけの所もあった。食糧は米軍からの無償配給で1日数回の配給時には長い列ができた。収容は住民の保護に寄与する一方で、栄養失調やマラリアなどで死亡者が相次いだ。収容所での死亡者総数を示す米軍の記録は見つかっていない。

 

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沖縄戦収容所 消えぬ記憶 孤児たち次々衰弱死(2016年6月19日配信『東京新聞』)

 

 沖縄戦では、米軍保護下にあった民間人収容所でも多くの死者を出した。特に犠牲が大きかったのは、米軍の攻撃からの逃避行中に親と死に別れ、戦争孤児となった幼子たちだった。収容所に送られた体験者は「衰弱して死んでいった子どもたちの姿が忘れられない」と語る。

 71年前の7月、当時20歳だった本村つるさん(91)=那覇市=は、胡差(こざ)(現沖縄県沖縄市)にあった収容所にいた。その一角にあった孤児院の中の光景が、今も脳裏に浮かぶ。

 「瓦ぶきの民家と農作物の倉庫などを改造した孤児院の中は、ベニヤ板に仕切られた狭い部屋がいくつもあり、孤児たちが床に寝かされていました」

 陸軍病院の看護要員として学徒動員された本村さんは、その10日ほど前、教師や他の女学生とともに米兵に捕らえられた。別の民間人収容所で看護師として1週間ほど働いた後、20人ほどの戦争孤児たちとともに、トラックで胡差まで運ばれた。

 当時、米軍は各地の民間人収容所内に計13カ所の孤児院を設置し、親を失った子どもを収容していた。胡差の孤児院も、その一つだった。

 本村さんは「子どもたちは下痢が続いている状態で、汚れた部屋を水で流すのが最初の仕事でした」と振り返る。

 胡差の収容所では、540人の収容者が死亡したが、そのうちの4割近い208人は孤児だった。

 その胡差の孤児院にいたのが、当時8歳だった神谷洋子さん(79)=同県うるま市。家族との逃避行の途中、潜んでいた壕(ごう)の入り口付近に爆弾が落ち、母と弟を失った。戦場をさまよう中、米兵に保護されトラックで孤児院に送られてきた。

 「仏壇の前の狭いスペースに、10歳未満の孤児5〜6人と一緒だったのを覚えている。首から下げたおわんにおかゆやミルクを出されたが、みんな衰弱していた」と神谷さんは当時の記憶をたどった。

 本村さんは1946年1月まで、孤児院内に開設された小学校の教師も務めた。

 「戦争さえなければ、あの子たちは親元で育てられていたはずなのに…。今でも悔しい思いでいっぱいです」 

 

15回顧 沖縄戦70年 不戦と「戦後」継続を誓う(2015年12月26日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 ことしは、おびただしい数の住民を巻き込んだ凄惨な地上戦があった沖縄戦から70年の節目だった。

 記憶の風化が懸念される中、集団的自衛権の行使容認やそれに伴う安全保障法制の成立など、沖縄が再び戦火に巻き込まれかねないと危ぶむ声が県内で広がった。

 沖縄戦の教訓を無にするかのような動きにあらがい、多くの県民が不戦の誓いを新たに刻んだ。沖縄の普遍的価値観を表す「命どぅ宝」を礎に、「戦後」をいつまでも継続する決意を強めたい。

 圧倒的な戦力を持つ米軍との戦闘や日本軍による住民虐殺を含め、防衛隊を含めた12万2千人の県民が犠牲になった。本土決戦への時間を稼ぐ「捨て石作戦」で辛酸をなめた体験を語ることができる世代が少なくなっている。

 戦後70年の「慰霊の日」を前に本紙と沖縄テレビが実施した県民世論調査で、「もっと戦争体験を語り継ぐべきだ」が75・4%に達し、「現在の程度で語り継げばよい」の19・4%を大きく上回った。

 県民の9割近くが戦後生まれとなったが、沖縄戦体験の継承は世代や思想信条を超えた共通認識となって息づいている。一方で、継承への課題は山積している。

 多くの観光客や修学旅行生が足を運ぶひめゆり平和祈念資料館(糸満市)は元ひめゆり学徒による館内講話が3月に終了した。80代後半から90代の証言員の体力を考慮しての決断だった。

 同資料館で戦後世代の説明員による講話が始まった。沖縄戦体験の発掘は市町村史レベルから字史レベルでも広がりを見せている。沖縄戦継承の幹を太くする新たな取り組みを拡充せねばならない。

 県教育庁が沖縄戦遺跡の保護に向け、文化財指定に着手したことは評価できる。今も発見が続く戦没者の遺骨をめぐり、遺族を特定するDNA鑑定を可能にするため、県は全遺骨を焼骨せず、保管する方針に転換した。遺族の心情に配慮した妥当な措置である。

 沖縄戦の教訓は「軍隊は住民を守らない」であり、それは「軍の駐留が住民の犠牲を招く」と同義だ。70年前の沖縄戦と安倍政権が強権の度を強める辺野古新基地建設と地続きの問題であり、県民を軽んじる為政者の存在という共通点がある。

 沖縄を前線にした戦争につながる動きへの警戒感を研ぎ澄ませ、不戦を貫く声を上げ続けたい。

 

沖縄戦でPTSD 住民70年の傷 国賠訴訟に診断書提出(2015年9月28日配信『東京新聞』)

 

 太平洋戦争の沖縄戦に巻き込まれた住民やその遺族が国に謝罪と国家賠償を求めた訴訟(命(ぬち)どぅ宝裁判)で、弁護側が30日の最終弁論を前に、戦争に起因する心的外傷後ストレス障害(PTSD)などがあると認められた原告37人の診断書と鑑定書を那覇地裁に提出していたことが分かった。弁護団によると、民間人の戦争犠牲者への国家賠償を求めた裁判で、精神被害の診断書が提出されたのは初めて。 

 戦後70年を経ても、目に見えぬ心の痛みが続いていることを浮き彫りにすることで、身体的苦痛だけではない戦争の傷の深さと、それを引き起こした

国の責任を問う。

 沖縄戦被害者や福島第一原発事故の被災者について、長い潜伏期間を経て症状が現れる晩発性(ばんぱつせい)PTSDを研究している精神科医の蟻塚(ありつか)亮二さんが、今夏までに原告79人のうち39人を診断。37人からPTSDなどの精神疾患が確認された。

 弁護団によると、診断では、人が殺されるのを目の前で見たトラウマ(心的外傷)で不眠症になったり、車やバイク、花火の音などが爆撃音を彷彿(ほうふつ)とさせてパニック障害になったりする、原告たちの現在の精神的な症状が克明に記されている。

 孤児になって家庭の築き方が分からず、子どもをネグレクト(育児放棄)した経験があったなど、世代を超えて戦争による精神被害が引き継がれていることも分かったという。

 これまでも東京大空襲の被害者らが国家賠償を求めた訴訟などで、戦争で受けた心の傷について研究者の意見書が提出されたことはあった。今回、診断書と鑑定書を提出した理由について、瑞慶山(ずけやま)茂弁護団長は「国は、あの戦争で民間人の精神も破壊し、今もそれが続いていることを、事実として明らかにした。戦争は最大の人権侵害」と話す。

◆火炎放射器の記憶 掃除機の音でパニック

 今回、診断書を提出した原告の一人、神谷洋子さん(78)=沖縄県うるま市=は、1945(昭和20)年6月ごろ、壕(ごう)に落ちた米軍の艦砲弾で、一緒に逃げていた母と弟をこなごなにされた。「顔を上げたら、吹っ飛んだ母の焼け焦げたもんぺの一部だけが宙から降ってきた」

 父は沖縄戦の防衛隊としてすでに戦死しており、7歳で孤児に。飲まず食わずで逃げ惑った。唯一、手元に残していた乾パンは、「おまえが食べても国のためにならん」と日本兵に取り上げられた。どうしようもなくおなかが減り、人から流れ出た血をすくって飲んだ。その時のにおいは、今も忘れられない。戦後もちょっとした異臭でパニックに陥るようになった。

 米軍が壕を焼き尽くす火炎放射器の音は、戦後普及した家電掃除機の音に似ていた。「私は掃除機が怖い。今も、自宅を拭き掃除しかできない」

 蟻塚医師の診察で、PTSDと診断された。「戦争が影響している。幼いころの心の傷は簡単には治らないよ」と告げられた時、症状の病名が分かった安堵(あんど)とともに、怒りが込み上げた。「戦争は、人の心にも手を突っ込んで壊す残酷なもの。悔しい。70年たってもずっと苦しまされるなんて」

 今月成立した安保関連法に「戦争の影」を感じ、さらに眠れない日々を強いられている。30日の最終弁論で、裁判長に訴える予定だ。「私の本来の正常な心を国に返してもらいたい。できないなら、国は私が生きている間にちゃんと謝ってほしい」と。

 

<命どぅ宝裁判>

 旧軍人軍属だけではなく、民間人犠牲者にも国による謝罪と1人当たり1100万円の賠償金を求めている。2012年8月15日に第1次提訴があり、6次までで原告は60歳代〜100歳代の計79人。来年3月にも判決が出る見通し。地上戦のあった沖縄では、「軍への壕の提供」など20項目に該当する人は「準軍属」とし、国は弔慰金を支払った。しかし沖縄県によると、詳細な日時や場所、第三者の証言が求められるなど認定基準は厳しい。沖縄戦の民間人犠牲者は約9万4000人で、準軍属認定は5万5000人にとどまる。民間人の戦後補償をめぐる裁判は07年以降、東京や大阪で相次いだが、沖縄では初めて。国は、「当時の状況から国民は等しく受忍(我慢)しなければならなかった」(1968年最高裁判決)という受忍論を主張し、請求棄却を求めている。

 

戦災報告書に沖縄戦ない理由は「不明」 政府、空襲犠牲者数も把握せず(2015年9月16日配信『沖縄タイムス』)

 

総務省の「全国戦災史実調査報告書」に沖縄戦の被害が盛り込まれていない問題で、政府は15日、沖縄が抜け落ちている理由について「行政文書が残っておらず不明」とする答弁書を閣議決定した。また、「10・10空襲」による犠牲者数についても「政府として把握しておらず、お答えすることは困難」などと回答した。照屋寛徳衆院議員(社民)の質問主意書への答弁。

照屋氏は政府の沖縄戦などの調査・記録がなければ、沖縄県などによる被害調査結果を政府報告書に反映するよう求めたが、答弁書は「意味するところが明らかでない」とし、まともに取り合わなかった。県民(非戦闘員)の犠牲者数についても把握しておらず、住民が巻き込まれ多大な犠牲となった沖縄戦の実相も正確につかめていない。

照屋氏は沖縄タイムスの取材に対し「政府として沖縄戦の被災実態を明らかにしようとの姿勢が皆無なのが問題。戦争の記憶継承の在り方が問われる中、無責任極まりない」と国の不作為を強く批判し、実態調査と記録化を求めた。

 

[戦後70年 地に刻む沖縄戦]降伏調印式 住民は守られなかった(2015年9月7日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 1945年8月15日、沖縄の米軍は、現地区指揮官のD・ペック海兵少将の名で「布告」を発した。日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏したことを明らかにし、武器を捨てて出頭せよ、と日本軍将兵に命じる内容だった。

 しかし、天皇の「終戦の詔書」がラジオから流れた8月15日以降も、一部の部隊は敗戦の事実を受け入れず、洞窟陣地や山中に立てこもって反撃の機会をうかがった。

 本島南部に陣取っていた第24師団歩兵第32連隊の将兵が集団投降したのは8月27日のことである。

 9月2日、東京湾のミズーリ号艦上で、降伏文書への調印式が行われた。南西諸島の日本軍代表と米第10軍司令官のスチルウェル大将らが、第10軍司令部(現在の嘉手納基地内)で、降伏文書に署名したのはその5日後である。

 きょう9月7日は、沖縄戦の終結を告げる降伏調印式から70年に当たる。

 日本国内で戦われた地上戦で、沖縄戦ほど住民が犠牲になった例はない。なぜ、これほどまで住民が犠牲になったのだろうか。

 いくつもの要因が重なった結果ではあるが、突き詰めていくと、住民を守るという発想が著しく欠けていた事実が浮かび上がる。

    ■    ■

 ニューヨーク・タイムズのボールドウィン記者は「沖縄戦は戦争の醜さの極致」だと指摘した。米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』は、兵隊の言葉を借りて「ありったけの地獄を一つにまとめたようなもの」だと形容した。

 引用されることの多いこの二つの言葉は、沖縄戦の特徴を簡潔に伝えている。

 まともに訓練を受けたこともない住民が防衛召集を受け、兵力不足を補うため、戦場に駆り出された。

 対戦車用の急造爆雷を背中に抱え、肉弾攻撃に行くのだと言って壕を飛び出し、それっきり帰ってこなかった男子学徒もいた(養秀同窓会編『沖縄の教育風土』)。

 米軍が「人間爆弾」と恐れた急造爆雷は助かる見込みのない特攻兵器だ。それを正規兵だけでなく学徒たちにも背負わせていたのである。

 第32軍司令部の長勇参謀長は常々、「全県民が兵隊になること」を求め、「1人10殺」の闘魂を強調していた。

 戦場の足手まといになる老幼婦女子は疎開させ、その他の住民はすべて戦力化する、というのが第32軍の考えだったが、その疎開もスムーズに進まず、多くの住民が行く当てもなく右往左往して戦闘に巻き込まれた。

 6月に入って米軍の攻撃も無差別化した。日本軍が住民の服を着用し偽装したことから兵隊と非戦闘員の見分けがつかなくなり、それが米軍の無差別攻撃を招いたケースもある。

 住民にとって米軍が「前門の虎」だったとすれば、追い詰められた日本軍は規律の緩んだ「後門の狼」だった。住民を壕から追い出して食糧を確保したり、スパイの疑いをかけて殺害するケースが各地で相次いだ。

    ■    ■

 収容所では慶良間諸島などから送られてきた朝鮮人軍夫が、人を人とも思わない戦場での扱いに抗議し、かつての上司をつるし上げた。

 日本が戦争に負けたのは沖縄人がスパイ行為をしたためだ、というデマも飛んだ。

 体験者が戦後長い間、公の場で体験を語らなかったのは、それが「醜さの極致」だったからではないだろうか。

 伊江島では、島に残っていた住民のうち約半数の1500人が戦死したといわれる。生き残った人々は45年5月に慶良間諸島への強制移動を命じられ、さらに53年になると米軍から土地接収の通告を受け、銃剣とブルドーザーによって土地を奪われた。

 沖縄戦の終わりは、米軍支配下の新たな苦難の始まりでもあった。

 

「沖縄は日本ですか?」(2015年6月22日配信『秋田魁新報』−「北斗星」)

 

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に程近い沖縄国際大の教授で基地経済論が専門の前泊博盛(まえどまりひろもり)さん(54)は、学生に自作の「基地検定」を出題している。現地で講演を聞いた際、「やってみてください」とその問題を渡された
▼全国の米軍専用施設のうち沖縄の施設面積が占める割合(74%)や、沖縄戦終結の日(1945年6月23日)は何とか答えられた。だが米軍機が絡む累計事故件数(650件)などの問いにはお手上げだった
▼学生の大半は地元出身だが、全32問の平均正答率は2割という。沖縄の地方議員の正答率はさらに低い。秋田県人が答えられないのも無理ないか。自分で自分を慰めていたら、今度は講演で考えさせられた
▼前泊さんは「沖縄の基地問題が解決しない背景には本土の無知と無関心がある」と指摘する。「沖縄は基地で潤っている」「基地は沖縄固有の問題」との誤解や無理解が解消されない限り、いつまでも基地はなくならないと語る
▼太平洋戦争で沖縄は米軍の本土上陸を阻むための「捨て石」となり、県民12万人以上が亡くなった。戦後は長く米軍の施政権下に置かれた。こうした過去と現状を、本土の人々はどれだけ日本の問題として捉えているだろうか
▼基地検定の最終問題は「沖縄は日本ですか?」だった。問われているのは地元の学生だけではない。あす23日は戦後70年の「沖縄慰霊の日」。基地と安全保障の在り方を考え、沖縄のいまと向き合うきっかけにしたい。

 

沖縄戦元隊員証言、護郷隊少年兵が互いに制裁(2015年6月22日配信『琉球新報』)

 

 沖縄戦で大本営がゲリラ戦を目的として、やんばる地域の十代の少年らを集めて組織した「護郷隊」の一部で、上官の命令により少年同士による制裁が行われていた実態があったことが分かった。名護市教育委員会の市史編さん係嘱託員、川満彰さんが複数の関係者から証言を得た。少年らの中には仲間の射殺を命じられ、実行していたケースもあるという。「上官絶対」の軍事論理が少年らを支配していた現実が浮き彫りになった。

 護郷隊は、米軍の沖縄上陸を見据え、1944年秋から召集が始まった。少年らは幼なじみの5、6人のグループに分けられ、在郷軍人が上官として訓練指導に当たったとされる。爆弾を持っての体当たりや背後からの急襲といったゲリラ戦の訓練が昼夜問わず実施される一方、山や谷、民家があってもひたすら直進するといった訓練も課された。その課程で上官への服従や全体責任を押し付ける軍事論理の浸透も図られたとみられる。

 川満さんや元隊員の証言によると、少年らは地域の幼なじみだったため、結束が固かったという。しかし、上官が同じグループの別の少年を殴るよう指示し、少年が従ったケースもあった。結果として少年が少年を制裁し合う構図が生まれていったという。

 その中にはスパイ嫌疑がかけられた少年の射殺も含まれており、上官の命令により複数の少年が目隠しをされた仲間に対して一斉に銃を発射。犠牲になった少年は集合時間に遅れただけだったという。

 軍事教育は徹底していたが、実際に沖縄戦が始まると、少年らの親戚や知人が米軍に投降して近くの収容区に入っていたことから隊を無断で離脱するケースが相次いだ。地域の結び付きの強さを裏付ける一方、少年同士の制裁は終戦後も大きな影響を地域に与えた可能性がある。川満さんは「軍事論理により、地域の人たちが苦しみ続けるということを学んでいくべきなのではないか」と話した。

 

<用語>護郷隊護郷隊の一員として(読谷村史>「戦時記録」下巻>第六章 証言記録)

 

 主にやんばる地域の十代の少年らで組織された第三、第四遊撃隊の秘密名。それぞれ第一護郷隊、第二護郷隊と称した。スパイ養成機関として知られる陸軍中野学校出身の将校が派遣され、主に同地域を中心にゲリラ戦を展開することが任務とされた。地の利を生かす狙いがあったが、全く知らない土地に配置された少年も多く、162人が戦死した。

 

「平和の礎」20年 「命どぅ宝」さらに世界発信を(2015年6月22日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 「平和の礎」は、1995年6月23日に除幕された。ことしでちょうど20年を迎える。

 第2次世界大戦で沖縄は住民を巻き込んだ地上戦の場となり、多くの人命と財産を失った。礎には国籍、軍人、民間人を問わず、沖縄戦で亡くなった人々の名が刻銘されている。そのことは一人一人の命が何物にも代え難く重いことを示している。

 いかなる大義があろうと、戦争は残酷な行為であることを礎は語り掛けている。県民の普遍的な思い「命どぅ宝」(命こそ宝)の象徴であり、沖縄戦で亡くなった人々の声なき声を聴く場所だ。

 当初の刻銘数は23万4183人だった。その後、毎年、追加刻銘を重ね、ことし6月現在で24万1336人の名前が刻まれている。そのうち約62%が県出身者だ。

 戦後70年、戦争体験者、証言者の高齢化、減少で追加刻銘の確認作業は難しくなっている。しかし、沖縄戦の実相を後世に伝えるために、私たちは全ての戦没者の刻銘に引き続き努めていかなければならない。

 20年という節目に、県内はもとより他府県出身者や外国出身者のデータをしっかり再点検する必要もあろう。収集した戦没者データを重層化するなど、戦争の実態を示す新たな取り組みの検討も必要だ。

 また、軍夫や「従軍慰安婦」として強制連行された韓国、北朝鮮出身の多くの犠牲者の刻銘については、両国の遺族や関係者らの礎への理解と共感を得る取り組みを丁寧に進め、追加刻銘を加速させたい。

 沖縄戦を過去の歴史の一こまにしておくべきではない。「沖縄戦」「米軍統治」「復帰」という歴史の節目、転換点と「現在」を線として結び、将来の平和創造につなげていかなければならない。

 積極的平和主義の名の下、安倍政権が「戦争立法」化を進めるいま、礎に刻銘された戦争犠牲者一人一人の声に私たちが謙虚に耳を傾けるべき時ではないか。併せて世界中で紛争が絶えないいまだからこそ、世界に向けて礎の精神「命どぅ宝」をさらに発信すべきだ。

 世界の恒久平和の実現は、全人類の最大の願いだ。相互の信頼を基盤にした共存共栄の国際社会構築のため、私たちは礎の存在を通して、愚直に非暴力、反戦平和を訴え続けなければならない。

 

[戦後70年 地に刻む沖縄戦]一家全滅 生きた証しは消えない(2015年6月22日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 糸満市米須。集落内を歩くと、くしの歯が欠けたように空き地が点在する。崩れた石垣が、かつてそこにあった家族の暮らしを想像させる。

 敷地内には大抵、コンクリートブロックを積んだだけの簡素で小さな建物がある。その中には位牌(いはい)や香炉、花瓶が置かれている。

 地域のお年寄りはその場所をこう説明する。「イクサウティ チネードーリ ソーン」(戦争で一家全滅したんだよ)。チネーとは家庭のこと、ドーリとは倒れるという意味だ。沖縄戦で誰もいなくなった世帯のことである。

 『米須字誌』(1995年刊行)には、沖縄戦が終結した45年当時の集落の「戦災地図」と各世帯の屋号、家族人数、戦没者の数、氏名、当時の年齢、戦没場所が記された「戦災実態」の調査結果が収められている。

 それによると、米須では全257戸のうち一家全滅が62戸(24%)、半数以上の家族が亡くなった世帯が93戸(36%)、半数以下が78戸(30%)。全人口1253人のうち戦没者は648人(52%)、実に半数以上の住民が亡くなっている。

 字誌や『糸満市史』の調査資料、屋号地図などを基に米須の一家全滅屋敷跡を訪ねると、厳粛な気配が立ち上る。ここは消えた家族を悼む「喪の空間」でもある。

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 沖縄戦末期の45年5月下旬、日本軍(第32軍)は首里城地下にあった司令部を放棄し、本島南部の喜屋武半島一帯に撤退した。本土決戦に備えた、勝ち目のない時間かせぎの戦は、一般住民の犠牲を甚大なものにした。

 喜屋武一帯は、敗走する日本兵約3万人と十数万人の避難住民が混在する状態となった。日本兵による住民の壕追い出しや、食料強奪、住民虐殺などが相次ぎ、戦闘に巻き込まれる住民が続出した。

 米須集落の北側にある二つの自然壕でも悲劇は起きた。住民の避難壕だった「アガリン壕」と「ウムニーガマ」に6月下旬、敗走した日本軍が入ってきた。

 日本兵が投降呼び掛けに応じなかったため、米軍はガソリンやガス弾を投げ込み壕を焼き尽くした。

 アガリン壕では50家族159人、ウムニーガマでは28家族71人の住民が亡くなった。それぞれの壕に建立された慰霊塔には、一家全滅を含む犠牲者の氏名が家族ごとに刻銘され、壕で起きた惨劇を無言で訴えかけている。

 糸満市に住む大城藤六さん(85)は、沖縄戦で家族8人のうち父親を含む4人を亡くした。一家全滅した親族も含めると30人余が犠牲になった。

 「身内だけでもこれだけ多くの人が死んだ」

 大城さんは戦後、出身地真栄平の戦争被害の実態を独自に調べ始め、その後「平和の礎」の刻銘調査にも携わった。「戦没者1人でも抜け落ちることがあってはならない」

 家族全員が亡くなり、名前が特定できない戦没者も少なくない。夫婦と子どもの家族3人が亡くなり、子の名前が分からないケースでは「○○の子」と刻銘した。

 「戦争で罪のない多くの人が死んだ。生きた証しを残さなければならない」。大城さんは強く思う。

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 県の資料によると、沖縄出身の戦没者数は一般住民約9万4千人、県出身の軍人・軍属2万8千人の合わせて約12万2千人とされているが、それも大ざっぱな数字で、実際はもっと多いとみられている。

 それにしても、なぜこれほど多くの住民が犠牲になったのだろうか。

 

戦後[名護市の私設博物館「民俗資料」(2015年6月22日配信『沖縄タイムス』−「大弦小弦」)

 

 名護市の私設博物館「民俗資料博物館」が1945年の新聞、365日分を展示している。沖縄戦の記録として、館長の眞嘉比朝政さん(78)が8年かけて集めた

▼新聞は全て本土から。壕で発行された沖縄新報は5月25日で途絶え、戦火でほぼ失われたからだ。眞嘉比さんは「沖縄以外の新聞社の記事で沖縄戦が分かるのは皮肉」と言う

▼色あせた新聞を手に取ると、本土の視点が分かる。沖縄本島に米軍が上陸した直後の4月3日。朝日新聞は高村光太郎の詩「琉球決戦」を掲載した。「琉球やまことに日本の頸(けい)動脈」「琉球を守れ、琉球に於(おい)て勝て」と、抗戦を訴える

▼軍部は負け戦を重々承知だった。敗北が迫った6月15日、毎日新聞は鈴木貫太郎首相の会見を報じる。「私は沖縄を天王山としていない」「あまり沖縄のみを強調して国民の意志を弱めることは好まぬ」と手のひらを返した

▼組織的戦闘が終わった26日。北海道新聞の社説は「沖縄の戦いによって稼いだ『時』はわが本土の防衛態勢を強化せしめ」と、捨て石作戦の性格を露骨に書いた。結局、「本土決戦」はなかった

▼沖縄は昭和天皇の「メッセージ」で米国に差し出され、日本復帰後も基地を背負い続ける。原点である慰霊の日が巡ってくる。70年。かくも長く終わらない不正義を、誰が想像できただろうか。(阿部岳)70年。この問いを手放さずに問い続けることが、ますます重要になってきた。戦後の安全保障政策の大きな転換点にあって「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」(憲法前文)ためにも。

 

伊江島出身の並里千枝子さん(2015年6月21日配信『沖縄タイムス』−「大弦小弦」)

 

 伊江島出身の並里千枝子さん(80)が沖縄戦を語る姿を本紙が最初に紹介したのは5年前。紙面を通して知った彼女の証言を、先日初めてじかに聞いた

▼1時間半かけ旧日本軍の駐屯、米軍の上陸、島内の戦闘終結まで。壕の中、百を超える死体にたかるウジ虫が動く様を「白い波のようだった」と表現した。真に迫った語りは映像を見ているようだった

▼9歳のころの体験だが、70年の時を経ても昨日のことのようにまぶたに浮かぶという。証言の後、戦争を思い出した数日間は必ず夜中に目を覚まし、激しい嘔(おう)吐(と)と下痢を繰り返すのだと打ち明けてくれた

▼それを聞いて目の前の並里さんのにこやかな表情と、内なる苦しみの落差に思わず言葉を失った。いわゆる「戦争PTSD」の実態をほとんど理解していなかったことにこの時、気付いた

▼混迷極める国会の安保法制審議でもPTSDへの理解の乏しさを露呈する場面があった。中谷元・防衛相は海外活動拡大による自衛隊員の発症リスクに言及したものの「健康管理を万全にする」と答弁した

▼2001年から09年まで海外派遣された自衛隊員のうち50人超が自殺した事実と併せれば健康管理をすれば済む話ではない。今もなお我が身を削りながら語り続ける並里さんに比べ、国会で語られる戦争の軽さが恐ろしくなった。

 

「解散命令」(2015年6月17日配信『岩手日報』−「風土計」)

 

沖縄で、この時期に聞く「解散命令」という言葉には特別な響きがある。「ひめゆり学徒隊」の悲劇の基点となる命令が下されたのは70年前の明日18日だった

▼地元で「じゅうじゅう空襲」と語り継がれる1944年10月10日の沖縄大空襲で那覇は壊滅。沖縄師範学校女子部と県立第一高女の生徒二百数十人は翌年3月23日、傷病兵の看護要員として動員される。米軍は4月1日に本島に上陸した

▼病院とは名ばかりの、ガマと呼ばれる自然の洞窟の中で、彼女らの仕事は過酷を極めた。地上に通じる穴という穴から、米軍の火炎が襲う。いよいよ統率を失った軍は「以後、自らの判断で行動せよ」と伝令を出す。「解散命令」だ

▼沖縄戦は6月23日、日本軍司令官の自決で終結したとされる。3月の動員から解散までの間、19人だったひめゆりの死者は18日以降の数日間で100人超。学徒隊以外の同窓を含め227の命が散った

▼日本記者クラブ沖縄取材団の一員として訪れたひめゆり平和祈念資料館で、迎え出た88歳の元学徒仲里正子さんは終戦を知らず、8月22日に米軍に保護された。その瞬間まで、まだ日本は勝っていると思っていた

▼「真相を伝えることが、いかに大事か。世の中の流れには不安もある。希望をもって皆さんを迎えた」と仲里さん。背筋が伸びた。

 

沖縄戦「継承されず」66% 県民世論調査(2015年6月17日配信『沖縄タイムス』)

 

 

沖縄戦「きちんと継承されていない」と66%が回答。60歳以上で74%と、高齢になるほど割合が高かった。59%が「平和教育に課題」とし、学校現場での取り組みが重要に

 沖縄タイムスと琉球放送(RBC)が4月に行った戦後70年に関する県民世論調査で、「沖縄戦の体験がきちんと引き継がれていると思うか」との質問に「そうは思わない」と答えた人が66・4%に上り、「きちんと引き継がれている」は28・9%にとどまった。年齢別で見ると、「そうは思わない」としたのは60歳以上で74・7%、40〜59歳で65・8%、20〜39歳で59・7%となり、高齢になるほど、継承されていないと感じる割合が増えた。

 戦争体験世代が減りゆく中、「沖縄戦の継承に何が課題だと思うか」との問いには59・2%が「学校での平和教育」と回答し、学校現場での取り組み強化の必要性が浮かんだ。このほか「戦争を体験していない世代の『語り部』の育成」が29・1%、「平和資料館などの活用」が8・2%で続いた。「語り部育成」を課題としたのは20〜30代が35・1%となり、若い世代ほど割合が多かった。

 調査は4月18、19の両日、コンピューターで無作為に作成した番号に調査員が電話をかける「RDD」方式で実施した。有効回答数は900人。

 

米軍上陸70年 沖縄戦の教訓全国へ 時代逆戻りは許されない(2015年3月26日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 70年前のきょう26日、米軍が慶良間諸島に上陸し、沖縄戦は地上戦に突入した。

 米軍は4月1日には沖縄本島に上陸し、住民を巻き込んだ日本軍との戦闘が泥沼化する。日本軍の組織的な戦闘が終わる6月中旬までに、多くの尊い命が奪われたことを忘れてはならない。

 取り返しのつかない多大な犠牲を払った体験から日本は戦争放棄を誓い、平和国家として歩んできた。それが今、国のカタチを根底から覆す動きが加速していることを危惧する。

 あの時代への逆戻りは許されない。沖縄戦の教訓を全国に発信し続ける責任が私たちにはある。

「軍命」明記すべきだ

 米軍は沖縄本島上陸作戦に先立ち、慶良間諸島へ侵攻した。それと同時に渡嘉敷村や座間味村などでは「集団自決」(強制集団死)が起きた。

 家族や近所の人らが1カ所に集まり、手りゅう弾を爆発させ、不発で死ねなかった場合はカミソリやロープで親が子を手に掛けた。

 このような非人間的な行為を誰が進んでやるだろうか。

 そうせざるを得ないよう誘導・強制し、住民を精神的に追い込んだのは日本軍である。「米軍に捕まれば惨殺される」「投降は絶対に許さない」などと住民を脅していたのである。

 米軍上陸前に日本軍の命令を受けた兵事主任が住民に手りゅう弾を1人2個ずつ配布した上で「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、残りの1発で自決せよ」と訓示している。いざとなれば「死ね」という命令にほかならない。

 日本軍は軍事機密が漏れることを恐れ、住民の命を軽視していた。軍隊にとってそれが当然だったのである。

 「集団自決」での軍命の有無が争われた大江・岩波裁判では「集団自決には日本軍が深く関わっていた」と軍の関与を認定する判決が出ている。

 第3次家永裁判の最高裁判決は「集団自決」の原因を「極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、日本軍の住民への防諜(ぼうちょう)対策など」と認定している。

 ところが、高校歴史教科書は「日本軍が強いた」「日本軍によって追い込まれた」との記述にとどまり、「軍命」を明記したものはない。

 歴史を事実に即して書くことは当然のことである。「軍命」をしっかり書き込まなければ、戦争の犠牲者は浮かばれない。ましてや「集団自決」を殉国美談とすることなどあってはならない。

理想の実現目指せ

 日本は悲惨な戦争体験から平和の尊さ、戦争の愚かさを身をもって知った。その結果手にしたのが戦争放棄をうたった憲法である。国はそれを順守する義務がある。

 だが、安倍政権は「時代にそぐわない内容もある」とし、改憲に突き進んでいる。

 「積極的平和主義」を掲げる安倍晋三首相の一連の安全保障政策は戦前回帰そのものである。その内実は国民の描く「平和」とは大きく乖離(かいり)している。

 核兵器を持つ独裁国家の存在や軍事的対立、テロの続発など国際情勢に不安定要素はある。

 だからといって日本が戦争のできる国となっていいはずがない。日本は戦後、憲法が掲げる理想の実現に向かってきたからこそ、各国からの信頼を得てきた。

 理想を実現するのが政治家の役目である。理想を時代にそぐわないとすることは政治家失格と言わざるを得ない。国民に犠牲を強いた戦争の教訓を学ぶべきだ。

 安倍首相が自衛隊を「わが軍」としたのも改憲志向の表れである。菅義偉官房長官も「自衛隊はわが国の防衛を主たる任務としている。このような組織を軍隊と呼ぶのであれば、自衛隊も軍隊の一つということだ」と述べている。

 戦後の歩みを否定する発言であり、許されるものではない。

 

[戦後70年 地に刻む沖縄戦]防衛隊 ひんぎーしる ましやる(2015年3月17日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 八重山の大浜国民学校に勤めていた石垣正二さん(沖縄戦当時32歳)が防衛隊に召集されたのは、10・10空襲から1カ月後の1944年11月のことである。

 酒屋、写真屋、食堂の亭主、商店主、農民、漁夫。指定された登野城校に集まった人たちは、寄る年波から体が硬くなって動作もぎこちなく、「兵隊という観念からはおよそ遠い存在だった」(石垣正二『みのかさ部隊戦記』)。

 県立中央図書館の司書だった池宮城秀意さん(当時38歳)は45年2月、防衛召集を受けた。「17歳の少年と47歳のおやじに、同じように行動しろといっても、無理である。それは軍隊にはならない。ただの集団であった」(池宮城秀意『沖縄の戦場に生きた人たち』)。

 45年3月上旬にも、県内各地で大がかりな防衛召集が行われ、どこの地域でも、男という男はほとんど、根こそぎ軍隊に取られた。「現地自活に徹し、一木一草といえどもこれを戦力化すべし」−それが沖縄守備軍の方針だった。 一木一草とは決して比喩ではない。戦闘の足手まといになると判断した老幼婦女子や病者以外の、学徒を含む動ける男女すべてを、補助兵力として根こそぎ動員することを意味した。

    ■    ■

 防衛隊は沖縄戦を語る際に欠かせない存在であり、ある意味で学徒隊以上に沖縄戦を象徴する存在である。だが、本土ではその実相はほとんど知られていない。

 防衛隊は「陸軍防衛召集規則」に基づいて召集され、各部隊に配属された人々のこと。17歳から45歳までの兵役にもれた男性が対象だったが、実際には人数をそろえるため部隊の判断で対象年限を広げている。

 沖縄戦史家の大城将保さんによると、約2万5000人が防衛召集を受け、そのうち約1万3000人が戦死したという。

 米軍上陸前は、飛行場建設や陣地構築などが主な任務だった。防衛隊員は自分たちのことを自嘲気味に、「棒兵(ボーヒー)隊」、「苦力(クーリー)隊」「みのかさ部隊」と呼んだ。

 米軍上陸後、戦闘が激しくなると、防衛隊員は、守備軍の正規兵が壕の奥深くに身を潜めているときも、弾薬・食糧運搬、夜間斬り込みの案内など、危険な仕事を割り当てられることが多くなった。

 戦況が悪化するにつれて戦線の至る所で防衛隊員と正規兵の関係が崩れ始めた。浦添では、食事の配給をめぐって防衛隊員と正規兵が衝突し、壕のろうそくを消して殴り合うという事態も起きている。

 「ボーヒー隊どぅ、やるむんぬ、ひんぎーしる、ましやる」(どうせ棒兵隊なんだから、逃げて家族のもとに行ったほうがいいさ)。

 家族を残して召集された防衛隊員の中には戦線を離脱し、家族のいる壕に駆け込む人が少なくなかった。

 学徒隊と比べると、防衛隊のこの戦場での行動は際立っている。なぜ、このような違いが生じたのだろうか。

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 琉大名誉教授の米須興文さんは、あるインタビューで、身近で起きた「事実」を紹介している。

 「私の曽曾祖父は沖縄戦で迫りくる米軍第一線から逃れて南部に向かう途中、山羊(やぎ)に餌をやるのを忘れたことに気づいて家に戻ったところを米兵に射殺されたのです」。戦線を離脱した防衛隊もこのような行動規範を持っていた人々ではなかっただろうか。

 将来を担う島のエリートとして皇民化教育のシャワーをたっぷり浴びた若い学徒隊。多くが家族持ちで、負け戦のために命を捨てるのはばかばかしいと感じ、家族と一緒にいることを選択した防衛隊。両者の違いをどう解釈し、今後に生かしていくか。この課題の切実さは増すばかりである。

 

[地に刻む沖縄戦 僕ら少国民]消えた授業 失われた命(2015年3月9日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

戦時体制下の学校教育の再編によって1941年、尋常小学校が国民学校へと改められると、子どもたちの生活は一変した。教育は愛国心を育てることに力を注ぎ、行事は軍国調一色に染まる。

 学校から通常の授業が消えていった。

 山原の自然に囲まれた村の子どもたちも例外ではなかった。大宜味村喜如嘉国民学校の様子を「喜如嘉の昭和史 村と戦争」(福地曠昭著)が克明に記録している。

 「国民精神総動員運動の一環として毎月8日を『大詔(たいしょう)奉戴日(ほうたいび)』と定め、戦争協力の行事がとり行われた。校門には大きな国旗が掲げられ、校長が詔書を奉読し、全校生徒で『海ゆかば』を斉唱した」

 「紀元節」「天長節」といった儀式が重視され、「戦没勇士墓地清掃」「食糧増産作業」などの奉仕活動が授業に組み込まれた。

 70年前の45年3月1日、いよいよ空襲が激しくなり、喜如嘉国民学校はほとんどの授業を取りやめた。3日には男子教員が全員応召され、学校は閉鎖された。

 23日に予定されていた卒業式が開かれることは、ついになかった。

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 喜如嘉に住む平良俊政さん(84)は、満州事変の前年の30年生まれ。通っていた喜如嘉尋常小学校が国民学校となったのは5年生の時だ。

 毎朝、登校すると皇居の方角に向かって深々とお辞儀する宮城(きゅうじょう)遙拝(ようはい)が日課だった。授業では神武天皇から始まる124代の天皇の名前を暗唱。「銃後の戦士」としての基礎的な訓練も受けた。

 「運動場で3組に分かれ、ルーズベルト、チャーチル、

蒋介石と書かれた人形を竹やりで『ヤー』と突き刺す。一生懸命でした」

 兵隊さんになってお国のために戦うことが男の子の夢だった。平良さんは高等科2年、14歳の時、軍人になることを決意し、海軍を志願する。

 「10・10空襲の後、那覇へ受験に行きました。役場で合格通知をもらった時はうれしくて」。同級生の羨望(せんぼう)の的だったという。

 入隊する前に米軍が上陸したため、集落の裏手にある山に避難した。山の中で日本兵の伝令役として走り回り、山中で米兵に小銃を向けられ震える思いをしたこともあったが、敗戦を知るその日まで、日本軍の勝利を信じて疑わなかった。

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 「皇国民の錬成」を目的とした国民学校が存在したのは41年から47年までである。

 初等科6年、高等科2年。教科書は皇国史観を強め、軍事訓練などが授業に取り入れられた。

 当時、国民学校に通う子どもたちは「少国民」と呼ばれていた。将来の戦争を担う貴重な戦力として位置づけられていたのだ。

 平良さんの同級生の一人は高等科在学中に予科練に入隊した。国民学校生が食糧増産のための「農兵隊」として沖縄戦に動員されたケースもある。ゲリラ戦を目的とした「護郷隊」に10代半ばで召集され、戦死した少年もいる。

 政府は44年7月、「沖縄県の老幼婦女子10万人を本土や台湾に疎開させる」ことを決めている。その数は対象となったお年寄りや子どもの3分の1にすぎず、実際に県外へ疎開した人は約8万人にとどまる。

 自分では逃げることのできない多くの幼子が戦闘に巻き込まれて犠牲となり、あどけない顔の少年兵が戦死した。

 少国民をつくりあげた偏狭な教育。捕虜になることを許さない玉砕戦術。本土決戦の時間を稼ぐための勝ち目のない捨て石作戦。疎開の不徹底。これら全ての「過誤」が重なったのが沖縄戦だった。

 沖縄は、「鉄の暴風」が吹き荒れる軍民混在の戦場で、多くの子どもたちが犠牲になった戦争だ。その事実を忘れてはならない。

 

沖縄戦69年 子孫に語り継ぐ命ど宝(2014年3月22日配信『東京新聞』−「社説」)

 

 第2次大戦末期、本土防衛の捨て石とされ、住民を戦闘に巻き込んだ沖縄戦から69年。南国の光あふれる島に刻まれた戦禍の歴史を受け継ぎたい。

 那覇市から西へ約40キロ、慶良間諸島の東端に位置する渡嘉敷島。島の中央にある村役場に近い山裾に、その穴は残っている。

 近くに住む小嶺正雄さん(84)が造った防空壕(ごう)。3人も入ればいっぱいになる小さな壕だが、米軍が沖縄本島に大規模な空襲を仕掛けた1944年秋、決戦が近いと聞いて一人で掘り上げたのだ。

◆島に刻まれた記憶

 そんな壕も米軍の圧倒的な火力の前では何の役にも立たなかった。45年3月23日から、同諸島を取り囲んだ数百の艦艇が空襲と艦砲射撃を始めた。

 26日には座間味島に、27日には渡嘉敷島に米軍が上陸。逃げ場を失った島の人々は山の中に集められ、軍の手りゅう弾を使い、肉親の間で手にかけていった。本土決戦を覚悟した日本軍部が時間稼ぎのために沖縄を捨て石としたとされる戦闘。県民の4人に1人が亡くなった「鉄の暴風」の中で、悲惨さを象徴する集団自決である。

 千人以上ともいわれる沖縄戦での集団自決の犠牲者のうち、700人が座間味、渡嘉敷の島に集中したのは、日本軍の海上特攻基地があったためである。秘密保持のため島民は島外に出られなかった。沖縄本島では行われた子どもや女性の県外疎開も、島ではなかった。情報も交通も閉ざされた島で、「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられた島民は命を絶つしかなかった。

 45年8月の敗戦から72年までの27年間、米軍政下に置かれた沖縄。その戦後は「基地の島」として始まった。

◆捨て石にしない決意

 沖縄をアジア戦略の重要拠点と位置づけた米国は、サンフランシスコ平和条約の発効によって日本が独立した後も、軍用地のための強制的な土地収奪を続けた。圧政に対する沖縄の怒りは50年代半ば「島ぐるみ闘争」と呼ばれる抵抗運動に発展する。

 復帰後の今も基地の周辺では米兵の性犯罪など事件が絶えない。だが、日米地位協定によって不十分な捜査と処罰しかできない。沖縄戦を学徒兵の一員として戦った元衆院議員古堅実吉さん(84)は「沖縄は今も、日本の憲法の下に復帰したとは言えない」と話す。

 95年に起きた米兵による12歳の少女暴行事件を発端に、「世界一危険な基地」といわれる米軍普天間飛行場(宜野湾市)の返還が約束されたが、その移設地として名護市の辺野古に新たな基地建設が進められようとしている。

 県選出の自民党国会議員、同党県連が「辺野古容認」へと立場を翻し、「県外移設」を公約して再選した仲井真弘多知事も昨年末、政府の要請を受け入れる形で辺野古の埋め立て申請を承認した。

 与野党がともに県外移設を求める「オール沖縄」は崩れたが、今年1月の名護市長選では、辺野古移設に反対する稲嶺進氏(68)が再選、地元の強い意思を示した。

 沖縄は今年、島の将来を決める重要な政治決戦を迎える。その天王山は11月に予定される知事選だ。沖縄を半永久的な基地の島としない、負けられない闘いだ。

 日米両政府の普天間返還合意から18年たっても、なお混迷を深める移設問題が、戦後69年を迎える沖縄の現実を物語る。

 それはこの間、本土が沖縄の思いを忘れ、こたえようとしなかった裏返しでもある。

 地元の合意がないままの基地建設など許されるはずがない。今こそ、あの戦争で捨て石とした沖縄を、二度と捨て石にしないという決意を持ってこたえるべきではないだろうか。

 2007年の教科書検定で、集団自決への「軍の関与」が削除されようとしたとき、小嶺さんら体験者は証言に奮い立った。自らは手りゅう弾が不発に終わって生き延びた。このままでは歴史の事実がいつか本当になかったことにされてしまう。そう感じたのだ。

 元中学校校長の吉川嘉勝さん(75)も危機感は同じだ。定年後は再び故郷の渡嘉敷島に戻り、島に残る戦跡の保存に駆け回る。

◆残さなければ消される

 過去の歴史を覆い隠し、再び戦争のできる国へと舵(かじ)を切ろうとする大きな力への抗(あらが)いでもある。

 小嶺さんが詠んだ歌がある。

 < 戦さ場ぬ憶(うむ)い 忘る時ねえらん 子孫(くぁんまが)に語(かた)て 平和願(にが)ら 命(ぬち)ど宝 > 

 希少な生物が生息し、サンゴ礁の海に囲まれた慶良間諸島は今月、国立公園に指定された。明るい光に包まれた島々の記憶を、小嶺さんは三線(さんしん)をつま弾きながら語る。鎮魂の季節を迎えた沖縄。底に流れる思いをかみしめたい。

 

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[戦後70年 地に刻む沖縄戦]戦火のあとで 戦後のない沖縄の戦後(2015年12月31日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 日米両軍の激烈な戦闘がやみ、降伏文書への調印によって正式に戦争が終わっても、沖縄に本来の意味の平和は戻ってこなかった。

 伊江島がその典型である。 旧日本軍は島の土地を接収し、本島北部からも労務者を大量に徴用して「東洋一」と言われる飛行場を建設したが、航空特攻から戦略持久へと方針を変えた第32軍司令部は、米軍上陸直前に飛行場を破壊してしまった。

 伊江島の戦闘は「沖縄戦の縮図」といっていい。住民を非戦闘員として保護するのではなく、「軍官民共生共死の一体化」という軍方針の下、男性を青年義勇隊、防衛隊として動員し、女性も救護要員として戦場に駆り出した。

 住民約3千人のうち半数以上が犠牲になったといわれる。ガマの中では「集団自決(強制集団死)」も相次いだ。

 島を占領した米軍は1945年5月、慶良間諸島の渡嘉敷島と座間味島に計2100人の住民を強制的に移住させ、日本軍が破壊した飛行場を修復し、対日侵攻のための基地として整備・拡張した。

 だが、それだけでは終わらなかった。朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた53年、米軍は住民の反対にもかかわらず銃剣とブルドーザーで強制接収に乗り出す。

 戦前、日本軍が要塞(ようさい)化した伊江島を、戦後は米軍が再要塞化したのである。

 飢えとマラリアによる犠牲者が相次いだことも沖縄の大きな特徴だ。

 とりわけ、八重山の島々は、極度の食糧不足に陥った上に、マラリアが大流行し、戦後も「飢え」と「死」が島の人々を脅かした。

    ■    ■

 飢餓とマラリアに苦しんでいた八重山の住民は45年12月15日、郡民大会を開き、独自の自治組織を立ち上げた。八重山支庁が戦争で機能停止状態にあったからだ。

 八重山自治会、通称「八重山共和国」の誕生である。

 八重山支庁が再建されるまでのわずか8日間の「共和国」ではあったが、「人民による人民のための政治」という民主主義の理念を戦後いち早く実現しようとした試みは特筆に値する。

 戦争の終わりは、沖縄にとって、新たな苦難の始まりでもあった。

 戦場の様相があまりにも凄惨(せいさん)だったため、戦争トラウマ(心的外傷)の症状を訴える人々が今もいる。沖縄戦は過去の過ぎ去った話ではないのである。

 サイパンに出稼ぎに行って戦争に巻き込まれ、九死に一生を得て帰郷した松田カメさんは、亡くなるまで嘉手納基地の爆音に悩まされ続けた。

    ■    ■

 戦災復興という視点から日本本土と沖縄を比べると、その違いが歴然とする。

 沖縄諮詢(しじゅん)会が設置された45年8月から、沖縄民政府が設置される46年4月までの約8カ月は「空白の時代」と呼ばれる。「戦災復興をめざした積極的な政策展開は何ら見られなかった」(琉球銀行調査部編「戦後沖縄経済史」)からだ。

 「広島平和記念都市建設法」が、憲法第95条に基づく特別法として住民投票を経て施行されたのは49年のことである。同法によって国からの特別補助や国有財産の無償譲渡の道が開かれた。

 だが、沖縄はある時期まで、本格的な復興支援から取り残された「忘れられた島」だった。復帰時のあらゆる分野の立ち遅れは戦後27年に及ぶ米軍統治がもたらしたものである。

 米軍という巨大な占領権力に対する住民の異議申し立ては、生存権の主張、という形で始まった。46年に賃金制度が実施され、経済活動が復活すると、住民は財産権を主張するようになる。

 48年12月に国連総会で世界人権宣言が採択されると、今度は基本的人権を前面に掲げ、米軍の主張する「勝者の権利」に対抗しだした。民主主義を生活の場から実践し始めたのである。

 

[戦後70年 墓碑銘]時代の鏡のような人生(2015年12月27日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 戦後70年の今年、戦争をくぐり抜け、それぞれの仕方で戦後社会に向き合い、すぐれた仕事を成し遂げた人々が、惜しまれながら逝った(以下、敬称略)。

 漫画家で妖怪研究で知られた水木しげる(93)は、ラバウルでの戦闘で多くの仲間を無謀な突撃によってなくし、自らも左腕を失った。

 「ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきてしかたがない」 

 水木は、ゲゲゲの鬼太郎やねずみ男など、日本のそれまでの妖怪とは異なる新たな妖怪を次々に生み出した。異世界の中に現実の世界を豊かにするヒントがあることを水木は妖怪漫画で伝えたかったのだろう。

 1953年に上映された小津安二郎監督の「東京物語」は、世界的に評価の高い日本映画の名作中の名作である。

昭和の大女優・原節子(95)は、この作品で、戦争で死んだ次男の嫁という役柄を演じた。彫りの深い目鼻立ちと吸い込まれるような美しい瞳。

 義母が死んだ後、義父が嫁に言う。「もう次男のことは忘れろ。良い結婚相手を見つけて自分の幸福を追求しろ」。戦後という時代は、国家や共同体、家長支配という束縛から個人が解き放たれた時代でもあった。

 原は小津監督の死後、表舞台から忽然と姿を消し、人目を避けて独身のまま生涯を閉じた。実人生で映画の役柄を演じきるかのように。

 戦後日本を代表する思想家の鶴見俊輔(93)は、祖父が後藤新平、父親が鶴見祐輔というエリート政治家の家系に生まれた。

    ■    ■

 米国留学中に日米開戦を迎えた鶴見は米移民局の聴取に対し、こう答えたという。「この戦争についてはどちらの国家も支持しない」。

 ベ平連の運動に関わったり、護憲の立場から「九条の会」の設立を呼びかけるなど、個人を大切にする市民運動に関わり続けた。

 「本土の終戦と沖縄の終戦は日付が違う。この日付の違いは大きいですよ。沖縄には、この国を内側から世界に向かってあけるカギがある。それを何世代にもわたって保ち続けることが重要だと思います」。

 英文学者の米須興文(83)はアイルランドの文学者イエーツ研究で世界的に知られている。米須は米軍上陸の1カ月前に最後の疎開船で九州に疎開した。

 「沖縄戦の語りとは必然的に〈解釈〉なんです」

 反戦平和の視点だけでなく、非体験者や戦後世代、復帰後世代など多様な視点から語り直す必要がある、と指摘する。

    ■    ■

 沖縄芝居の平良とみ(87)は、映画「ナビィの恋」やNHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」で、沖縄の「おばぁ」を演じた。

 沖縄と聞いただけで重たい反応が返ってくる時代に、沖縄のゆったりした空気感と柔らかな物腰を体現した「おばぁ」を演じ、全国的なブームを呼んだ。

 「ウチナーンチュは苦労をなめて辛い思いをしてきたからこそ優しいんですよ」

 

 [戦後70年 地に刻む沖縄戦]降伏調印式 住民は守られなかった(2015年9月7日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 1945年8月15日、沖縄の米軍は、現地区指揮官のD・ペック海兵少将の名で「布告」を発した。日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏したことを明らかにし、武器を捨てて出頭せよ、と日本軍将兵に命じる内容だった。

 しかし、天皇の「終戦の詔書」がラジオから流れた8月15日以降も、一部の部隊は敗戦の事実を受け入れず、洞窟陣地や山中に立てこもって反撃の機会をうかがった。

 本島南部に陣取っていた第24師団歩兵第32連隊の将兵が集団投降したのは8月27日のことである。

 9月2日、東京湾のミズーリ号艦上で、降伏文書への調印式が行われた。南西諸島の日本軍代表と米第10軍司令官のスチルウェル大将らが、第10軍司令部(現在の嘉手納基地内)で、降伏文書に署名したのはその5日後である。

 きょう9月7日は、沖縄戦の終結を告げる降伏調印式から70年に当たる。

 日本国内で戦われた地上戦で、沖縄戦ほど住民が犠牲になった例はない。なぜ、これほどまで住民が犠牲になったのだろうか。

 いくつもの要因が重なった結果ではあるが、突き詰めていくと、住民を守るという発想が著しく欠けていた事実が浮かび上がる。

    ■    ■

 ニューヨーク・タイムズのボールドウィン記者は「沖縄戦は戦争の醜さの極致」だと指摘した。米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』は、兵隊の言葉を借りて「ありったけの地獄を一つにまとめたようなもの」だと形容した。

 引用されることの多いこの二つの言葉は、沖縄戦の特徴を簡潔に伝えている。

 まともに訓練を受けたこともない住民が防衛召集を受け、兵力不足を補うため、戦場に駆り出された。

 対戦車用の急造爆雷を背中に抱え、肉弾攻撃に行くのだと言って壕を飛び出し、それっきり帰ってこなかった男子学徒もいた(養秀同窓会編『沖縄の教育風土』)。

 米軍が「人間爆弾」と恐れた急造爆雷は助かる見込みのない特攻兵器だ。それを正規兵だけでなく学徒たちにも背負わせていたのである。

 第32軍司令部の長勇参謀長は常々、「全県民が兵隊になること」を求め、「1人10殺」の闘魂を強調していた。

 戦場の足手まといになる老幼婦女子は疎開させ、その他の住民はすべて戦力化する、というのが第32軍の考えだったが、その疎開もスムーズに進まず、多くの住民が行く当てもなく右往左往して戦闘に巻き込まれた。

 6月に入って米軍の攻撃も無差別化した。日本軍が住民の服を着用し偽装したことから兵隊と非戦闘員の見分けがつかなくなり、それが米軍の無差別攻撃を招いたケースもある。

 住民にとって米軍が「前門の虎」だったとすれば、追い詰められた日本軍は規律の緩んだ「後門の狼」だった。住民を壕から追い出して食糧を確保したり、スパイの疑いをかけて殺害するケースが各地で相次いだ。

    ■    ■

 収容所では慶良間諸島などから送られてきた朝鮮人軍夫が、人を人とも思わない戦場での扱いに抗議し、かつての上司をつるし上げた。

 日本が戦争に負けたのは沖縄人がスパイ行為をしたためだ、というデマも飛んだ。

 体験者が戦後長い間、公の場で体験を語らなかったのは、それが「醜さの極致」だったからではないだろうか。

 伊江島では、島に残っていた住民のうち約半数の1500人が戦死したといわれる。生き残った人々は45年5月に慶良間諸島への強制移動を命じられ、さらに53年になると米軍から土地接収の通告を受け、銃剣とブルドーザーによって土地を奪われた。

 沖縄戦の終わりは、米軍支配下の新たな苦難の始まりでもあった。

 

[戦後70年 地に刻む沖縄戦]朝鮮人軍夫 飢えと差別と重労働と(2015年8月25日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 糸満市摩文仁の平和祈念資料館の裏、道をはさんだ場所に小さな公園がある。石を積み上げたまんじゅう型の塔が平和祈念堂をバックに建っている。「韓国人慰霊塔」。

 隣の資料館には引きも切らず観光客が訪れるが、ここまで足を延ばす人は少ない。

 公園内の円形広場に、故国の方向を示す矢印が埋め込まれている。なぜ、矢印を刻んだのだろうか。碑文を読むと、矢印に込められた痛切な思いが伝わる。

 「この沖縄にも徴兵、徴用として動員された1萬余名があらゆる艱(かん)難(なん)を強いられたあげく、あるいは戦死あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった」

 「祖国に帰り得ざるこれら冤(えん)魂は、波高きこの地の虚空をさまよいながら雨になって降り風となって吹くであろう」

 推定で1万〜2万人の朝鮮人が軍人・軍属あるいは「従軍慰安婦」として沖縄に連れてこられた、といわれる。だが、犠牲者数を含め正確な数ははっきりしない。

 「平和の礎」に刻まれている朝鮮半島出身の戦没者(6月現在)は韓国365人、北朝鮮82人のあわせて447人にとどまる。県援護課が公表している沖縄戦戦死者の推計にも朝鮮人戦死者は含まれていない。

 朝鮮人軍夫は、決して忘れてはならない存在でありながら、人々の記憶から忘れられつつある存在だ。

 朝鮮人軍夫の沖縄戦体験は、現在につながるさまざまな問題を内包している。

    ■    ■

 1938年、国家総動員法が朝鮮に適用され、翌年の39年には国民徴用令も公布された。

 すべてを区別なく平等に遇するという意味の「一視同仁」、朝鮮を差別せず内地(日本本土)と一体化するという意味の「内鮮一体」−これらのスローガンを通して朝鮮総督府は朝鮮の人々を鼓舞し、皇民化を推し進めた。

 日本軍の軍人・軍属としてアジア・太平洋各地に送られた朝鮮人は、24万人とも34万人ともいわれる。

 朝鮮人軍夫は日本軍の軍属として沖縄本島、慶良間諸島、宮古島などに送られ、飛行場建設や陣地の構築、荷役、運搬などの雑役に従事した。

 特設水上勤務第104中隊の陣中日誌は、中隊の任務として軍用物資の陸揚げ、運搬、道路工事などを挙げたあと、次のような業務を明記している。

 「無学文盲なる朝鮮軍夫の教育訓練に従事す」

    ■    ■

 市町村史には、朝鮮人軍夫に関する証言が少なくない。日本兵の露骨な朝鮮人蔑視と居丈高な態度が目立つが、沖縄県民も決して差別感情から自由ではなかった。

 「一視同仁」「内鮮一体」と言いながら、沖縄での扱いは理不尽極まるものだった。

 海上特攻兵として慶良間諸島の戦争を体験した深沢敬次郎は書いている。

 「隊員には小さい米のおむすびが支給されていたのに、軍夫に与えられていたのは、桑の葉の混ざった少ない雑炊だけであった」(『沖縄戦と海上特攻』)。

 阿嘉島では、米軍への投降をおそれ、壕の中に軍夫を監禁した。「私が医務室にいるとき、よく朝鮮人の死体が運ばれてきました」「みんな骨と皮だけになってしまって、明らかに餓死です」(『沖縄県史 沖縄戦記録2』)。

 ひもじさのあまり、食糧を盗んで逃げようとした軍夫は山中で処刑された。

 収容所に収容され、ポツダム宣言受諾の報に接したとき、彼らは戦争が終わったことを深くかみしめ、快哉(かいさい)を叫んだという。

 敗戦を解放と受け止め喜んだのは、日本兵とともに戦ったはずの「植民地朝鮮」からきた軍夫であった。

 

[戦後70年 地に刻む沖縄戦]玉音放送 共有されなかった体験(2015年8月16日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 1945年8月15日、米軍政府の諮問機関「沖縄諮詢(しじゅん)会」を設立するための会議が、石川市で開かれた。

 集められたのは戦前の政治家や教育者たち。沖縄の行政機構を再建しようとの会議の冒頭、軍政府副長官から「正午より天皇の終戦放送がある」と告げられた。

 出席者を代表して後に沖縄民政府の初代知事となる志喜屋孝信氏ら3人が、軍政本部で玉音放送を聞いた。

 会議に出席した安谷屋正量氏(初代琉球工連会長)はこう回想している。「終戦を知らされみんなシュンとなった。しかしそれまで戦火に追われ、生命の危険にさらされショックというショックを味わいつくしただけに、それ以上の動揺はなかった」(沖縄タイムス社編『沖縄の証言 上』) 

 70年前の8月15日に昭和天皇が終戦の詔書を読み上げたラジオ放送を玉音放送と呼んでいる。「堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す」。自らの肉声でポツダム宣言の受諾を告げたのである。

 本土では重大な放送があることが前日から予告され、当日はラジオの送信出力も大幅に上げられた。

 しかし家は焼け、着の身着のまま逃げ惑った沖縄県民のほとんどは、玉音放送があることさえ知らなかった。

 一般住民で玉音放送を耳にした人はそれこそ少ないが、久米島の米軍のキャンプ近くに住んでいた徳田球美子さん(78)=那覇市=は、米軍から「大切な放送がある」と言われラジオを聞いた。

 小学2年生だった徳田さんの記憶に残るのは、焼け残った奉安殿にでんと置かれたラジオと、独特な抑揚の声である。漢語の多い文章は難解で「何のことか理解できなかった。日本が負けたということは後で分かった」と話す。

    ■    ■

 本土では「これで戦争が終わった」と玉音放送に平和の訪れを重ねる人が多い。

 御前会議でポツダム宣言を受諾することを決め連合国側に伝えたのは8月14日で、日本が降伏文書に調印したのは9月2日だが、戦後、玉音放送のあった15日が「終戦の日」として定着するようになる。

 だが沖縄では、米軍が本島に上陸した4月に捕虜となり収容所生活を始めた人もいれば、7月末には早くも石川高校が開校している。

 一方で日本軍による組織的抵抗が終わった6月以降も、一部の住民や敗残兵が北部の山中をさまよった。 

 南西諸島の日本軍代表が嘉手納の司令部で正式に降伏文書に署名したのは9月7日のことである。

 終戦の日が沖縄では必ずしも「平和の到来」につながらなかったのは、久米島で起きた陰惨な事件が象徴している。

 島に配備された日本軍が朝鮮半島出身の谷川さん一家7人を殺害したのは8月20日。米軍のゴミ捨て場から食糧を拾っていたという谷川さんを「スパイ視」してのことだった。

 「わらの下から4本の足が飛び出ていた」。徳田さんは、自分と同年代の谷川さんの娘2人の遺体を目にし、大きなショックを受けた。

    ■    ■

 沖縄守備軍を率いた牛島満司令官は自決する前に「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との言葉を残した。「軍官民共生共死の一体化」の方針の下、最後の一兵まで戦えとの指示である。沖縄は本土決戦の時間を稼ぐための「捨て石」となった。

 地上戦の舞台となった沖縄と本土では戦争体験の質がまったく異なる。戦争体験が異なるだけでなく、戦後体験もまったく違う。

 72年に施政権が返還されるまで本土と沖縄は歴史体験を共有していない。

 沖縄の戦中・戦後を理解することなしに、基地問題の根っこにあるものを理解することはできない。

 

[戦後70年 地に刻む沖縄戦]住民スパイ視 日本軍が「後門の狼」に(2015年7月20日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 「10・10空襲」のあと、耳を疑うような噂(うわさ)が流れ、政府や本土の報道機関、議会筋に伝わったという。「米軍が奇襲攻撃に成功したのは沖縄人スパイが手引きしたからだ」というのである(大城将保解説『沖縄秘密戦に関する資料』)。

 無線通信兵として沖縄戦を戦った野村正起は、自身の体験をまとめた『沖縄戦敗兵日記』の中で、軍司令部から指示された防諜(ぼうちょう)に関する心得について書いている。

 「戦前、南方に出稼ぎに行っていた多数の沖縄人が、アメリカ軍の来攻前後に上陸して、一般住民の中にまぎれ込み、日本軍の部隊の所在・陣地・行動などをアメリカ軍に連絡し、あるいはデマを飛ばして後方攪乱を企てるなど、活発なスパイ活動をしているとのことである」

 沖縄住民スパイ説は、戦争が終わったときにも、日本兵の間で口伝えに広まった。「沖縄戦に敗れたのは沖縄人がスパイ行為を働いたから」だという悪質なデマが九州の疎開地にまで届き、憤慨した沖縄出身の貴族院議員・伊江朝助が戦後の第89帝国議会でこの問題を取り上げている。

 デマが流れたというだけの話ではない。沖縄戦では、実際に日本兵が住民をスパイ容疑で殺害するという事件が各地で相次いでいる。

 追い詰められた日本軍は組織の規律を失い、あるときは住民を壕から追い出し、住民の食糧を奪い、またあるときは、投降を呼びかけにきた住民を殺害した。日本軍は「後門の狼(おおかみ)」だった。

 厚生省が1960年に14歳未満の戦没児童の死因について調べたところ、「友軍よりの射殺」が14人にのぼった。

    ■    ■

 友軍はなぜ、自国民に手をかけたのか。沖縄人スパイ説がこれほど深く日本軍の中に浸透していたのはなぜか。

 国家総動員法に基づく総動員体制の下で、戦前の日本には軍機保護法や軍用資源秘密保護法、国防保安法など軍事上の秘密保護を目的とした軍事法制が数多く存在し、言論や出版は厳しく統制された。

 軍機(軍事機密)保護の重要性を啓発するため防諜週間が設けられ、「軍機を語るな 沖縄県」というポスターが各地に貼られた。

 防諜思想の普及に協力したのは県や市町村、警察署、在郷軍人会、警防団、青年団、隣組などの組織である。

 「少しでもこれ(軍機)に違反する者は罰せられてしまう。たとえば、海港、要塞のたぐいのあるところでは、まわりの風景が美しいと思ってもカメラを向けてはならなかった」(牧港篤三『戦前・戦中の言論と報道』)。

    ■    ■

 防諜とはスパイ活動などによって軍事秘密や国家秘密が漏れるのを防ぐこと。第62師団の命令文書は、沖縄を「デマ多き土地柄」「防諜上、極めて警戒を要する地域」と指摘している。

 兵員、兵器、食糧などすべてが不足していた第32軍は、現地自給に徹し、住民を飛行場建設などに当たらせ、老幼婦女子以外の住民を防衛隊や学徒隊として根こそぎ動員した。第32軍は軍機保護について、そもそもの始めからジレンマを抱えていたのである。

 住民

 だが、スパイ行為が証明されたケースはほとんどなく、スパイ行為によって「敵に通じた者」は沖縄の住民の中にはいなかった、というのが定説だ。 

 市町村史の戦時記録には、住民スパイ視や住民殺害の事例が数多く紹介されている。「沖縄人はみんなスパイだ」と日本兵から暴言を浴びせられた住民も少なくない。

 この問題を過去の不幸な事例だと見て歴史にフタをすることはできない。「なぜ」という問いの切実さはむしろ高まるばかりである。

 

人の心は変わって平気になってしまう。それが戦争です(2015年7月20日配信『南日本新聞』−「南風録」)

 

沖縄戦のさなか、ひめゆり学徒隊は、壕(ごう)で亡くなった兵士を外に運び出し、埋葬する作業にも携わった。「最初はガタガタ震えていた。そのうち慣れて、砲撃でできた穴に放り込むようになるんです」。

 先月訪ねたひめゆり平和祈念資料館で元学徒の島袋淑子館長が話してくれた。「人の心は変わって平気になってしまう。それが戦争です」。悲惨な戦場を体験した言葉は重く響いた。

 島袋さんら元学徒は、資料館の開館から26年間続けてきた講話を3月で終了した。生存者が開館時の27人から9人に減り、高齢化したためだ。4月からは、30〜50代の職員が引き継いでいる。

 それでも館内での説明は、体調を見ながら続けている。訪ねた日も元学徒の一人が修学旅行の中高生に囲まれて話していた。耳を傾ける生徒たちの表情は、真剣そのものだった。

 沖縄戦が終結して解散命令が出たとき、島袋さんらは兵士に壕を追い出された。「国は国民を守るために基地や軍隊をつくると言う。でも軍は国は守っても国民は守らないんです」。語り続けるのは、戦争のむごさを若い人に知ってほしいからだ。

 安全保障関連法案が衆院を通過し、審議は参院に移った。「戦争は決してある日突然やってくるものではなくて長い準備期間がありました」。館の20年記念誌に、島袋さんはこう寄せている。今がその「準備期間」でなければいいと願う。

 

沖縄戦の戦没者や遺骨、県内にある壕の統計で、国と県の把握数食い違う(2008年12月10日付『琉球新報』)

 

 沖縄戦の戦没者や遺骨、県内にある壕の統計で、国と県の把握数が食い違っていることが分かった。戦没者は県が約1600人多く、遺骨収集数は国が約2100柱上回り、未収骨は県が約3700柱多くなっている。政府は08年12月9日の閣議で、照屋寛徳衆院議員(社民)の「沖縄戦犠牲者の未収遺骨と防空壕等に関する質問主意書」に対し、戦没者の総「計は約18万6500人、2008年3月までに収集した沖縄での戦没者の遺骨数は18万6142柱、未収集の遺骨数は約350柱とする答弁書を決定した。一方、08年12月8日の県議会で照屋大河氏(社民・護憲)の質問に対する県の答弁では、推計として戦没者の総計18万8136人、収骨数は18万4031柱、未収集の遺骨数は4105柱とした。沖縄県内に存在する旧日本軍などが築造した地下壕の数は、国が248カ所としているのに対し、県の答弁では壕が301カ所、自然壕(ガマ)は194カ所としており、大きな差がある。国の答弁書によると、地下壕の数は、国土交通省と農林水産省が05年度に共同で行った特殊地下壕実態調査で、県から報告を受けた数としており、うち旧軍によるものが144カ所、旧軍以外67カ所、不明37カ所とした。照屋寛徳氏は「国と県の連携が取れておらず、認識が離れすぎている。沖縄戦の実情を明らかにしようという姿勢が双方に欠けている」と批判した。

 

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荒井退造と修学旅行(2015年10月11日配信『下野新聞』−「雷鳴抄」)

  

 太平洋戦争における国内最大の地上戦で20万人以上が犠牲になった沖縄戦を前に、沖縄県警察部長として県民の疎開に尽力した宇都宮市出身の荒井退造(あらいたいぞう)。その功績について、修学旅行で沖縄を訪れる真岡工業高の生徒たちが学んでいるという。本紙9月28日付の記事で知った

▼荒井の地元で活動するNPO法人菜の花街道がまとめた顕彰記念誌「たじろがず沖縄に殉じた荒井退造」(本社刊)の出版記念講演会を報じる記事も、その前日に出た

▼この夏までの栃木、沖縄両県人の交流を反映し、同誌には大田昌秀(おおたまさひで)元沖縄県知事ら多方面から寄稿があった。荒井の生家に近い作新学院大の太田周(おおたいたる)学長は「荒井の偉業を整理し、作新発の『とちぎ学』の一章として県内大学の学生に広めていく」と決意を示している

▼戦争の記憶を若者に語り継ぐ動きが、学校を挙げた取り組みになるのは心強い。県教委によると、ことしは全日制の県立高32校が沖縄への修学旅行を計画。真岡工業高以外にも荒井について学んだ生徒は少なくないだろう

▼沖縄戦では本土の捨て石とされ、今日に至るも在日米軍基地の74%が集中するなど、沖縄が抱える痛み、矛盾を生徒たちは心に刻んでほしい。同時に楽しい思い出づくりのため、本県にはない美しい海、ユニークな文化や料理を堪能することもお勧めしたい。

 

戦後、日本は不戦を誓った(2015年8月12日配信『熊本日日新聞』−「新生面」)

 

広く長く愛されてきたからだろう。昭和の流行歌は老若男女が口ずさめ、その時代を知らない世代にも懐かしい。しかし最近は、そんな歌がなかなか出てこない。「歌は世につれ」だが、大量消費とばかり新曲が出ては消える時代はどこか

戦後70年を音楽でたどるNHK「思い出のメロディー」を見た。「リンゴの唄」「岸壁の母」「世界の国からこんにちは」−それぞれの時代背景が色濃くにじむ

▼くぎ付けになったのは、20万人以上が犠牲となった沖縄戦を振り返る場面に、以前取材した石原絹子さん(78)=那覇市=の姿があったからだ。昭和40年代から約35年間、大津町で牧師として過ごした人である

▼沖縄戦当時は7歳。「鉄の暴風」の艦砲射撃や火炎放射器が空まで赤く染め、遺体で足の踏み場もない中を逃げ惑った。摩文仁[まぶに]の丘へ着いた時、母と兄は既に死亡し、妹2人もやがて亡くなったという。「お水をちょうだい」とつぶやき息絶えた3歳の妹を、石原さんは「お姉ちゃんを許して」と言って抱き締めた

▼番組ではその丘に立つ石原さんに、夏川りみさんが「さとうきび畑」を語り掛けるように歌った。「ざわわ ざわわ 風に涙はかわいても…この悲しみは消えない」

▼戦後、日本は不戦を誓った。それは昭和の流行歌のように国民に共通の、戦争を知る人たちの思いだったはずだ。戦後生まれが8割を超えたという。戦争を実体験として語れる人が減っていく。その悲惨さを知る石原さんらの思いを途絶えさせてはいけない。

 

沖縄戦「風化」68% タイムス・朝日新聞・QAB意識調査(2015年6月17日配信『沖縄タイムス』)

 

 

 沖縄タイムス社は2015年6月13、14日の両日、朝日新聞社や琉球朝日放送(QAB)と共同で県内の有権者を対象に県民意識調査(電話)を実施した。6月23日の「慰霊の日」に関連した質問では、沖縄戦の記憶が「風化している」と答えた人が68%で「引き継がれている」と答えた人の20%を大きく上回った。沖縄戦の体験や知識を何らかの機会に次の世代へ引き継ぐ気持ちがある人は86%に達した。一方、翁長雄志知事が訪米し、普天間飛行場の辺野古移設反対を訴えたことは、73%が「評価する」と答えた。

 沖縄戦の体験や、見たり聞いたり読んだりしたことを次の世代に語り継ぎたいかという質問に「すすんで話したい」と答えた人が46%、「たずねられたら話す」が40%となり、沖縄戦の継承に意欲を示す人が大半を占めた。

 沖縄戦は「自ら体験がある」が9%にとどまり、戦後70年を経て戦争体験者が激減している現状が示された。「話を聞いたことがある」は75%、「どちらもない」は15%だった。

 23日が慰霊の日と知っている人は98%に達し、知らない人は2%だった。

 

本島上陸70年 軍は住民を守らない この教訓を忘れまい(2015年4月1日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 70年前のきょう1日、米軍は沖縄本島に上陸した。米軍の戦史に「ありったけの地獄を集めた」と刻まれる、とてつもない悲劇がここに始まった。

 沖縄戦の最大の教訓は「軍隊は住民を守らない」である。これは抽象的なスローガンではない。無数の実体験、戦場の実際によって立証された事実である。

 こう言い換えてもいい。「軍隊がいると住民は犠牲になる。とりわけ、心の底では住民を同胞と思っていない軍隊が一緒にいると、住民はむしろ死を望まれる」。この教訓を忘れまい。

出血持久戦

 米軍はまるで「ピクニックのように」無血上陸した。日本軍がそういう作戦を立てたからだ。

 作戦とは、本土決戦の準備が整うまで、米軍を一日でも長く沖縄に引き付ける「出血持久戦」(帝国陸海軍作戦計画大綱)である。

 一日でも長引かせるため、米軍上陸時に日本軍は兵力を温存した。その結果の無血上陸なのだ。

 上陸時、沖縄戦の見通しを尋ねた小磯国昭首相に対し、大本営はこう答えている。「結局敵ニ占領セラレ本土来寇(らいこう)ハ必至」(「大本営陸軍部戦争指導班の機密戦争日誌」)。最後は占領されると分かっていながら沖縄戦に突入したことになる。

 住民が多数いる沖縄にあえて敵軍を上陸させ、最後は占領されると知りながらなるべく長くとどめようとする。こんな計画のどこに住民を守る視点があるか。住民保護の意識は決定的に欠けていた。

 上陸のこの日以降の戦没県民は判明分だけで10万4千人に上る。沖縄戦の県民の戦没者の9割だ。無謀な沖縄戦に突入しなければ、助かったはずの命はかくも多かったのである。

 この上陸の後、読谷のガマなど各地で強制集団死(「集団自決」)の悲劇が発生した。それもまた軍の方針の反映だ。「軍官民共生共死」である。

 沖縄戦に先立ち、軍部は中学生を含む住民に壕を掘らせ、戦争準備を強制していた。従って住民が投降すれば、どこに司令官がいて、どこに武器弾薬があるか、敵軍に知られてしまう。だから住民が生き残るよりは住民の全滅を願う。「むしろ死を望まれる」とはそういう意味だ。強制集団死はその結果である。

 その後も、多くの住民が助かりそうな局面はいくつかあった。しかし日本軍はことごとく、住民を死に追いやる方向を選択した。

同胞扱いせず

 例えば中部戦線の第1防衛ライン(嘉数高地)が突破され、第2防衛ライン(前田高地)も破られた5月上旬。ここまでに日本軍は主力の7割を失った。まともな判断があれば戦闘継続は不可能と分かる。だが投降しなかった。これ以降の沖縄戦はもはや戦闘ではない。虐殺だ。

 激戦地のシュガーローフも奪われ、首里の司令部が維持できなくなった5月22日。第32軍は玉砕か南部撤退かを議論したが、「南の果てまで戦う」と決めた。この時、南部には避難住民10万人がいた。住民を巻き込むのを知りながら、否、むしろ巻き込むつもりで撤退を選択したのだ。

 これ以降、日本軍による食料強奪、住民の壕からの追い出し、壕内で泣く子の殺害が頻発する。「出血持久戦」でなければ無かった悲劇だ。果ては方言を話す住民をスパイ扱いしての殺害も起きた。住民を同胞扱いしない軍との同居の危険がここに顕在化した。

 今、日本政府は辺野古新基地建設を強行している。知事も地元市長も県議会も市議会も反対する中での強行は、他県ではあり得ない。まさに「同胞扱いしない」政府の姿である。

 沖縄戦体験者の4割は心的外傷を持つとされる。その傷口に塩を塗り込むように、沖縄では70年後も米軍機の爆音がまき散らされ、新基地建設は強行される。われわれは今も悲劇の中を生きている。

 

タイプライターが刻んだ戦後史(2015年4月1日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 沖縄市で長年、翻訳事務所を営んできた仲間徹さんの訃報を聞き、20年ほど前に初めてお会いした日を思い出した。短い会話だったが、穏やかな笑顔が印象に残っている

▼復帰前後の2年間、コザ市で暮らした直木賞作家の佐木隆三さんに「恋文三十年」という著作がある。米兵宛ての「恋文」を訳した仲間さんと、米兵と結婚した末にさまざまな困難を抱える女性たちの悲哀を描く

▼本にある「沖縄の戦後を考えるとき、決して忘れてはならないのは、利用されてきた女たちだ」という仲間さんの言葉に立ち止まる。「基地の街」の影を見詰め「恋文」の主を案じ続けた翻訳家の歴史観である

▼社会の下層でさげすまれながら、暮らしを支えた女性たちがいた。彼女たちの声やため息を聞き、仲間さんはタイプライターをたたいた。文面を束ねれば沖縄戦後史の一章を編むことができる

▼異民族統治が戦後沖縄の歩みをゆがめた。街も人も米軍基地にほんろうされてきた。それは今も続いている。その根源に沖縄戦がある。米軍が沖縄本島に上陸したのは70年前のきょう

▼重苦しい空気が漂う新年度を迎えた。自衛隊を「わが軍」と呼ぶ首相、辺野古の海を覆う暴力と不条理。戦後70年の荒れ地を私たちは歩まねばならない。声掛け合って、元気に歩こう。タイプライターが刻んだ沖縄戦後史もほのかに道を照らしてくれよう。

 

[米軍本島上陸の日に]もう捨て石にはならぬ(2015年4月1日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 1945年3月下旬、慶良間諸島を攻略した米機動部隊は4月1日朝、沖縄本島中部の読谷・嘉手納・北谷に至る西海岸に上陸した。

 物量の面で圧倒的に劣勢の日本軍は、首里や中南部の自然洞窟を利用した地下陣地などに主力部隊を配置し、水際作戦を避けた。本土決戦を想定した時間稼ぎの持久戦法を採用したためだ。激しい反撃を予想した米上陸部隊は「まるでピクニックのよう」に、大きな抵抗を受けることもなくやすやすと上陸した。

 米軍の沖縄本島上陸からきょうでちょうど70年になる。

 沖縄戦は「捨て石」作戦だったといわれる。日本政府は戦後、サンフランシスコ講和条約に基づき、自らの主権回復と引き換えに沖縄を米軍に委ねることを、敗戦国として了承した。沖縄の人々はまたしても「捨て石」になったのである。

 そして今、政府は名護市辺野古の沿岸部を埋め立て、米軍の意向に沿って新基地を建設することによって沖縄を米国に差し出そうとしている。選挙で示された民意を無視しているという意味で、これもまた、「捨て石」の論理というほかない。

    ■    ■

 住民の根こそぎ動員、老幼婦女子の戦場彷徨(ほうこう)、日本兵による食糧強奪、スパイ容疑による住民殺害、壕からの住民追い出し、集団自決(強制集団死)、餓死…。沖縄戦に従軍したニューヨーク・タイムズのボールドウィン記者が表現したように「沖縄戦は戦争の醜さの極致」だった。

 戦争末期、国体護持のため早期和平を模索していた日本政府は、近衛文麿を特使に選任し、すべての海外領土や琉球諸島などを放棄する和平案を用意していた。

 やむを得ない場合には、沖縄を切り捨てるという考え方は、1880年、日清間で締結され、効力発生寸前までいった「分島・改約案」の論理を思い出させる。中国での通商権獲得と引き換えに宮古・八重山諸島を中国領土とする案のことである。

 戦後、日本の民主化、非軍事化を進めた連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官は、沖縄を基地化することによって憲法9条による「軍事的空白」を穴埋めすることができると考えていた。

 米国による沖縄の軍事占領継続を希望し、沖縄を基地化することによって日本の戦後の安全保障を確保する、という考え方は天皇メッセージにも貫かれている発想だ。

 1950年代、本土に駐留していた米海兵隊が沖縄に移駐したとき、地元沖縄が強い懸念を示していたにもかかわらず、政府の中からは、これを歓迎する声が出た。日本本土から米地上部隊を撤退させ、沖縄に配備するという考え方である。

    ■    ■

 都市部から人口の少ない過疎・辺地への米軍基地の再配置−これが戦後一貫して続く日米の論理である。

 米国防総省の上級担当官として返還交渉にかかわったモートン・ハルペリン氏は、基地使用の自由度が損なわれないこと、米軍基地をより恒久的なものにすることが、沖縄の施政権返還と引き換えに米国が優先的に求めたものだった、とNHKのインタビューに答えている。

 この発言は極めて示唆的だ。実は辺野古への新基地建設も、普天間返還と引き換えに沖縄において使い勝手のある恒久的な基地を建設する試みなのである。

 辺野古沿岸部に揚陸艦の接岸できる新基地が建設されると、新基地とキヤンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセンは陸でつながり、北部訓練場や伊江島補助飛行場などとあわせ、国内法(例えば航空法)の適用を受けない、制約のない一大演習地域として使われることになる。

 こうして戦後史をたどっていくと、沖縄戦と新基地建設がつながってることがよく分かる。

 軍事的なニーズはあらかじめ決まっているというものではなく、「本来、どんな国であっても政治的な実情の中で決められるものです」というハルペリン氏の指摘は、「辺野古が唯一の選択肢」という言い方がいかに政治不在の脅し文句であるかを示している。

 

沖縄戦の教訓、今こそ生かせ(2013年6月12日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

  

 自然壕の暗闇の中、赤ん坊が次々に泣き出した。「黙らせろ」。敵に居場所を知られるのを恐れた日本兵が怒鳴った次の瞬間、銃声が響いた。7歳ほどの少女が前へ崩れ落ちた

▼糸満市の仲松庸全さんが沖縄戦で目撃した日本兵による少女銃殺の場面だ。「軍隊は住民を守らない。それどころか住民を殺害したり、死に追いやったりした」。体験から得た最大の教訓という

▼仲松さんが「まさか友軍が」と語るように、県民には当初、日本軍第32軍は守りに来たと見えた。だが目的は本土決戦に向けた時間稼ぎ。このため多くの犠牲を生む。今では周知の史実だが、県民に広く知れ渡るまでには時間を要した

▼沖縄戦研究者の石原昌家氏によると、戦後の混乱期は県内の識者の間で旧日本軍の行動を批判的に検証する動きは無いに等しかった。1960年代の復帰運動を機に「捨て石」作戦の実相が徐々に知れ渡ったとみる

▼運動の中心を担った教職員らが沖縄戦を捉え直し、県民に発信する役割を担った。生徒の命を奪った戦争を二度と繰り返すまいとの誓いからだ

▼沖縄戦の教訓に思いを致すと9条改定や国防軍創設を掲げる自民党改憲案に不安が募る。国民的議論を欠いたまま、改憲手続きが進み、いつの間にか国民に銃が向けられたり、銃を持たされたりする事態にならないか。不幸な歴史は繰り返してなるまい。

 

沖縄戦を体験した高齢者 4割PTSD(2013年6月14日配信『琉球新報』)

 

 沖縄戦を体験した高齢者の4割が、深刻な心の傷(トラウマ)を抱え、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したり、今後発症する可能性があることが分かった。県内の精神保健にかかわる専門家らが沖縄本島や周辺離島を含む8市町村で約400人の高齢者を対象に、沖縄戦が与えた影響について調べた。悲惨な体験に加え、戦後も米軍基地から派生する事件事故、騒音被害などが戦争を思い出させ、戦後68年たっても高齢者の生活を脅かしていることが浮き彫りになった。沖縄戦体験者のトラウマについての大規模調査は初めてという。

 調査は沖縄戦トラウマ研究会(代表・當山冨士子元県立看護大教授)が昨年4月からことし2月にかけ、読谷村、八重瀬町、宜野座村などで、デイサービスを利用する75歳以上の高齢者を対象に実施。保健師らが431人を面接して心身の健康状況を調べ、359人の有効回答を得た。平均年齢は82歳だった。

 PTSDのリスクが高い人を診断する指標は、国内外で広く使用されている「改訂出来事インパクト尺度」(IES−R)を使い、トラウマの程度を数値化(0〜88点)。PTSDの可能性が高いのは25点以上で、有効回答のうち141人(39・3%)にのぼった。平均点は22・4点で、最も高かったのは92歳の高齢者で72点だった。

 阪神・淡路大震災から5年後の同じ指標を用いた調査(68人)では、平均点数が15・6点で、25点以上のPTSDのリスクが高い人は22%(15人)だった。同震災でPTSDと診断された人の点数は平均35点で、今回の沖縄戦体験者の調査では95人(26・5%)が該当した。

 當山代表は「戦後67年以上経過しているにもかかわらず、阪神淡路の平均点を大きく上回った。PTSDが疑われる高齢者が2〜3割いるのは深刻といえる」と話した。

 リスクが高い人と、そうでない人を比べると、沖縄戦を思い出す頻度と相関関係があり、高い人では「常に思い出す」「時々思い出す」を合わせると87%、そうでない人の74%より高かった。思い出すきっかけは「基地や軍用機を見たり、騒音を聞いたりしたとき」「雷や花火の音や光」に有意な関係性が見られた。

 また、沖縄戦で身内を亡くすなどのつらい体験をしている人は、PTSDリスクが高い人で78%が「(死亡者が)あり」と答え、そうでない人で「あり」と答えた人の66%を上回った。

 

 

[沖縄戦PTSD]体験者の危機は深刻だ(2013年6月15日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 沖縄戦は、まだ終わっていないことを実感する。

 沖縄戦体験者の4割が心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱えている可能性が高いことがわかった。

 沖縄戦からやがて68年がたとうとしているが、過酷な体験を強いられた沖縄戦を想起させる米軍がらみの事件・事故がいまなお絶えない。深刻な心の傷(トラウマ)が消えることはなく、体験者は精神的な危機に陥るリスクにさらされている。

 精神科医ら6人でつくる沖縄戦トラウマ研究会(代表・當山冨士子元県立看護大教授)が昨年4月からことし2月にかけて調査した。

 保健師らの協力を得て、沖縄本島と離島の計8市町村でデイサービスを利用していた75歳以上の高齢者431人を任意で選び、直接面接方式で心身の状態を聞いた。

 有効回答は359人で、平均年齢は82歳だった。

 PTSDの診断指標は、国内外で広く使用されている調査方法を用い、質問に対する回答を数値化して判断した。

 PTSDの可能性が高い人と沖縄戦を思い出す頻度の間には高い関係性があった。「常に思い出す」「時々思い出す」を合わせると87%に上った。思い出すきっかけは「基地や軍用機を見たり、騒音を聞いたりしたとき」「雷や花火の音や光」で、関係性が認められた。思い出したときの気持ちは「大変つらい」「つらい」「多少つらい」を合計すると81%だった。

 戦時中から終戦後1年までに身内が死亡した人も関係性が高く、78%だった。

    ■    ■

 PTSDは衝撃的な体験が心に深く刻まれ、それが引き金になって起こる。

 沖縄戦を生き延びた人たちは戦後、すべてが灰燼(かいじん)に帰し、何もない中で、PTSDを心の底に沈め、生きることだけに懸命だった。一見すると、元気に生活しているように見える体験者も何かのきっかけで発症することがある。

 報告書によると、今回、調査に応じた女性は戦時中、妹を背負って逃げていたが、流れ弾が妹に当たり死亡した。自身は弾が脇腹を貫通したものの命は助かった。妹にすまない、という自責の念が消えることはない。

 女性は子どもが成人し、親の手を離れるころになってから体調が悪くなり、薬なしに眠ることができなくなった。

 別の女性は、米軍普天間飛行場に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ12機が強行配備されてから、同機の騒音を聞くと、沖縄戦がずっと続いているように感じると訴えた。

    ■    ■

 体験者のPTSDは、沖縄の日常が、沖縄戦と地続きであることを照らし出している。オスプレイが昨年10月に強行配備され、県内各地で日米合意に反した訓練が激化している。米軍は8月にはさらに12機を追加配備する方針である。

 体験者の心の中では戦争はまだ続いているのである。過去形で語ることはできない。現在進行形なのだ。

 沖縄戦PTSDの大規模調査は初めてである。国、県は全数調査を急ぎ、体験者の心のケアに当たるべきだ。

 

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  沖縄戦参考文献    

沖縄戦−痛恨の日々 [戦争を知らない世代へ]
創価学会青年部反戦出版委員会/編
第三文明社 (1975.6) 

沖縄戦記録写真 (第2集) <続・日本最後の戦い> [太平洋戦争記録写真集]
月刊沖縄社 (1978.4) 

沖縄戦―国土が戦場になったとき
藤原彰/編著
青木書店 (1987.8) 

沖縄戦と天皇制
藤原彰/編著
立風書房 (1987.11) 

沖縄戦敗兵日記 [シリーズ・戦争の証言]
野村正起/著
太平出版社 (1974.10) 

沖縄戦・母の祈り−娘が綴る母親の記録 [戦争を知らない世代へ]
創価学会青年部反戦出版委員会/編
第三文明社 (1977.6) 

沖縄のこころ−沖縄戦と私 [岩波新書(青版)]
大田昌秀/著
岩波書店 (1972.8) 

これが沖縄戦だ−写真記録
大田昌秀/編著
琉球新報社 (1983) 

戦場の乙女たち−沖縄戦従軍看護隊の証言、生と死の交差点。白衣の目に映った戦争の地獄絵図!もう再び戦争の手記は書きたくない
瑞ケ覧道子/[ほか著]
閣文社 (1989.3) 

総史沖縄戦−写真記録
大田昌秀/編著
岩波書店 (1982.8) 

天王山−沖縄戦と原子爆弾 (上)
ジョ―ジ・ファイファ―/著
早川書房 (1995.6) 

天王山−沖縄戦と原子爆弾 (下)
ジョ―ジ・ファイファ―/著
早川書房 (1995.6) 

泥と炎の沖縄戦−あるマリン兵の回想
E.B.スレッジ/著
琉球新報社 (1991.12) 
 

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