10.10沖縄空襲

 

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空爆を受ける那覇市 1944(昭和19)年10月10日

 

 

破壊された那覇市

 

 

沖縄戦の前哨戦/日本への無差別絨毯爆撃のはじまり

 

1941(昭和16)年12月8日(米時間7日)、日本軍はハワイ真珠湾Pearl Harborを奇襲攻撃し、西太平洋と東南アジアへ占領地域を拡大した。リメンバーパールハーバーを合い言葉に、反撃に転じた米軍は、これらの地域で日本軍の攻略に動き始める。

 

太平洋戦争中、日米両機動部隊の間で戦われたミッドウェー海戦において大勝した米国を中心とする連合国軍(日本側は赤城【あかぎ】、加賀【かが】、蒼龍【そうりゅう】、飛龍【ひりゅう】の4隻の主力空母と重巡1隻が沈没、航空機約300機と多数の熟練パイロットを失ったのに対し、米軍の損害は空母1隻沈没、航空機150機喪失にとどまり、その結果、制空・制海権の確保に支えられた緒戦における日本軍の優位は崩壊し、以後太平洋戦争は連合軍の反攻という新しい局面に突入する)は、その後、日本軍が占領した南太平洋上の島々の日本軍基地を次々に撃破・占拠し、さらに、南方から日本本土への資源・物資などの輸送の重要拠点であるフィリピン・レイテ島の奪回を目指すことになる。

 

レイテ島侵攻を成功させるためには、日本軍の後方支援を断ち切る必要不可欠となり、そのため、南西諸島の日本軍の飛行場や台湾の基地を攻撃することにしたわけである。

 

1944(昭和19)年当初米軍は、日本の植民地台湾を攻略と日本軍占領下の中国や日本本土進攻の足掛かりとなるコーズウェイ(堤)を意味する作戦(台湾攻略作戦【コーズウェー作戦】)の立案に傾倒したが、米軍によるフィリピンへの進攻が想定外の速いペースで進み、そこに米軍基地を確保できることから、台湾を不要と見て、小笠原・琉球作戦を実施に変更される。

 

米・統合参謀本部JCSJoint Chiefs of Staff。大統領と国家安全保障会議に最高の軍事的助言を行う機関。アメリカ国防長官の下で、陸・空軍参謀総長と海軍作戦部長を委員とする3軍作戦の基本的戦略の調整と実施を任務とする)は1944年10月3日、サイパン島硫黄島に続く、日本本土攻撃のための爆撃機発着基地として、第3の基地(沖縄の飛行場の利用)を確保するため、太平洋地域総司令部に対して「1945年3月1日までに南西諸島内で拠点を一つ、あるいはそれ以上占領するよう」発令し、早くも同月25日には太平洋地域総司令官ニミッツ元帥がアイスバーグ作戦計画を明らかにし、1945年1月6日付で同司令部は、沖縄攻略作戦計画(アイスバーグ作戦=10th Army entative Operations Plan 1−45 Iceberg。=氷山作戦を策定、各部隊に通達した。

 

同作戦の総指揮官はニミッツ元帥であったが、作戦指揮をとったのは、太平洋水陸両用軍司令官ターナー海軍中将を指揮下においた第5艦隊司令官スプルーアンス海軍大将であった(上陸軍の兵力はバックナー中将米第10軍司令官が率いる18万2,000人)

 

「史上最大の作戦」と呼ばれた後の米・第34代大統領アイゼンハワー(【Dwight David Eisenhower第2次世界大戦中、北アフリカとヨーロッパ連合軍最高司令官が指揮したノルマンディー作戦を上回る、参加兵力54万8,000人、軍艦318隻、特務艦船1139隻といった、第2次世界大戦の中でも最大規模の編成軍海軍力を動員しての、南九州、関東上陸のため飛行場確保を目指した壮大な沖縄進攻作戦は、戦略の本体部分(状況、任務、管理、指令統制)と戦術の18の付属文書(情報、砲兵・艦砲・航空支援の計画・調整、島司令部計画、軍政府計画など)から構成されていたが、その主たる目的は、「1.軍事基地の確保 2.東シナ海から中国沿岸及び揚子江流域にわたる海路および空路の安全性の確保 3.日本に対するとぎれることにない圧力」をかけることであった(第1章 概要)

 

当時沖縄は、1944年に創設された渡辺正夫中将(司令長官)が率いる第32軍(同年7月サイパン島玉砕による作戦見直しで牛島満中将が司令長官なる)と、第9、第24、第62の3個師団と独立混成第44旅団などの日本軍部隊が続々と移駐、その規模は約11万の軍人・軍属の集団(このうち3万3,000人強は宮古、八重山、奄美などにも部隊が分散配置されたため、沖縄本島の総勢7万7,000人であった)で、沖縄住民は、日本軍の島全体を航空基地とする全島要塞化のための飛行場建設や陣地構築などに強制動員されていた。そのうえ、日本はすでに米軍に、制空権ばかりか、制海権も握られており、沖縄は文字通り孤立無援の状態に置かれていた。

 

さて、米統合参謀本部が、太平洋地域総司令部に対して南西諸島を占領を命じた10月3日から1週間後の1944年10月10日未明、米空母機動部隊の艦載機は、南西諸島の島々への空襲を敢行した。

 

すなわち同日午前6時40分から午後3時45頃にかけて、アメリカ第3艦隊の航空母艦9隻・戦艦6隻・軽航空母艦8隻・巡洋艦17隻・駆逐艦64隻からなるウイリアム・ハルゼーWilliam Frederick Halsey提督率いる第38高速空母機動部隊の空母艦載機は、延べ1396機をもって、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島から構成される南西諸島と沖縄本島に大規模な空襲を敢行した。

 

そのターゲットは、北飛行場(読谷【よみたん】)、中飛行場(嘉手納【かでな】)、那覇飛行場、港湾施設、都市等、沖縄本島全域及び大東島、石垣島等の島々であった。

 

攻撃は、第1次、第2次、第3次、第4次、第5次みわたり、焼夷弾や250キロ爆弾が投下された。

 

第1次は、6時40分から8時20分にかけて延約240機で完成したばかりの飛行場が集中的に攻撃され、第2次の空襲では9時20分から10時15分にかけて、延約220機で港湾に停泊中の船舶及び飛行場を攻撃、第3次は、11時45分から12時30分にかけて延約140機で、那覇・渡久地・名護・運天港・与那原・ 泡瀬などの各港湾施設や市街地をターゲットにして行われた。

 

また、第4次では、12時40分から13時40分にかけて延約130機で、そして第5次では、延約170機と第5次の空襲は、14時45分から15時45分にかけて、飛行場や公安施設が集積していた那覇市へ集中的に行われ、米・戦闘機グラマンなどが541トンの爆弾を投下、同市は、全家屋の内の90%にあたる11,010(全体で11,451戸)が全焼あるいは全壊、那覇は焦土と化し、那覇市民約5万人が焼け出され、軍人・軍属・民間人668人が死亡那覇市民600余人が死傷)したほか、被害は飛行機や艦船だけでなく、一般県民の家屋や港湾に陸揚げされたばかりの食糧にまで及んだ。

 

また、この空襲で那覇市・安里(あさと)の養蚕試験場にあった司令部も焼け、首里城に司令部壕が掘られることとなる。

 

このほか、沖縄本島のほか、大東島・宮古島・石垣島・奄美大島・徳之島にも来襲した。

 

そして、この大空襲の翌年には、20万人を超す犠牲を出した最悪の沖縄(先の大戦の日本での唯一の地上戦戦が始まったことから、10.10那覇大空襲は沖縄戦の悲劇を前哨戦を意味した。

 

10.10空襲による死者は、日本軍の戦死者218人(第32軍136人名、海軍82名)、民間の死者330人(内那覇255人)、戦傷者243人(第32軍277人海軍16人)であった(戦史叢書「沖縄方面陸 軍作戦」)

 

これに対して日本政府は1944年12月9日、中立国のスペイン政府を通じて、「米軍機は、学校や病院、寺院、住居などのような那覇市街の非軍事的目標にやみくもに攻撃を加え、灰燼(はいじん)に帰せしめた。同時に無差別爆撃と低空からの機銃掃射により多数の民間人を殺害した。日本政府は、非軍事的目標や罪のない民間人に対するこのような意図的な攻撃が、今日、諸国家間で承認されている人道の原則と国際法に対するきわめて重大な違反」である認め、抗議する。」と、国際法違反の無差別爆撃を非難した(林博史;反省する者の連帯と反省しない者の同盟―戦争責任問題と日米軍事同盟)

 

ただ、多くの市民を殺戮した日本自らが中国・重慶などに敢行した無差別絨毯爆撃を無視して上でのそれであった。それはまさに、重慶の遺産であった。

 

そして、東京大空襲横浜大空襲をはじめとする日本の都市に対する米軍による無差別攻撃で、日本の都市住民50万人が焼き殺されるが、それは、日本国民の追体験(他人が体験した事柄を、解釈作業などを通して自分の体験として再現すること)を意味した。

 

しかしてその極致が、広島長崎に対する原爆の投下であった。

 

なお、沖縄空襲から日本軍・住民の投降に至るまでの少女の生きざまを描いたのが、アメリカ軍の沖縄戦記録フィルムの中で、白旗を掲げて投稿する1人の少女が主人公の絵本「りゅう子の白い旗」(文・新川明、版画・儀間比呂志)を素材にした共同映画全国系列会議製作のカラーアニメ「白旗の少女−琉子」(出崎哲監督)である。激しさを増す戦場での飢え、恐怖、さらには、日本軍によるごう追い出しや食糧の強奪、スパイ呼ばわり、虐殺など。少女の心はすっかりすさんでしまうが、鉄血勤皇隊の少年兵との交流によって、平和の尊さ、人間が生きることの大切さと喜びに目覚めていくといったストーリー。

 

 

 

10・10空襲から77年 民間被害者の補償を急げ(2021年10月10日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 南西諸島に甚大な被害をもたらし、激しい地上戦につながる口火となったから77年となった。

 米艦載機延べ1400機が早朝から夕刻まで9時間、5次にわたって爆撃し、少なくとも軍人・軍属、住民ら668人が死亡、768人が負傷した。那覇は2日間燃え続け、9割の家屋が焼失した。被災した市民約5万人が本島中南部に避難するという大きな被害をもたらした。

 1010空襲はその後、日本全国で76万人が犠牲となった無差別攻撃の始まりでもあった。これらの惨事は決して単なる過去の話ではない。今も傷に苦しみ、補償や謝罪を国に求めている民間人被害者がいるが実現していないからだ。旧軍人・軍属には恩給や年金が支給されてきたが、民間人被害者は放置されたまま、高齢化が進んでいる。国は補償を急ぐべきだ。

 国にはその責任がある。空襲による被害が拡大した要因の一つに「空襲から逃げるな、火を消せ」と国が犠牲を強いた防空法がある。海外に目を向けても、ドイツやフィンランドなどは軍人と区別なく民間被害者を補償している。

 無差別爆弾を落とした米国の責任も重大だ。1010空襲当時、日本政府の抗議を受けた米政府は検討した結果、無差別攻撃だったと認めた。しかし国際法違反であるため日本には回答しなかったことが米公文書で明らかになっている。あまりにも無責任だ。

 戦時中の日本では、軍人への恩給などのほかに、民間の空襲被害者にも戦時災害保護法による補償があった。戦後はいずれも廃止されたが、1951年締結のサンフランシスコ平和条約で主権回復後、旧軍人への補償だけを復活した一方、同条約で米国などへの請求権を放棄した。

 民間の空襲被害者は東京や名古屋で訴訟や立法運動を起こしたが、政府は「国との雇用関係がない」などとして拒み続けている。大阪空襲訴訟の一審と控訴審判決は政府の政策によって国民が危険な状態に置かれたことを認めたが、「軍人と比べて著しく重大な不平等とまでは言えない」として訴えを退けた。

 沖縄1010大空襲・砲弾等被害者の会によると、沖縄では、一般住民戦死者を県推計の9万4千人とすると、援護法が適用された約5万5千人を除き、空襲や艦砲射撃で犠牲となった一般住民4万人近くが補償されていない。

 民間被害者らを救済する議員立法を目指す超党派の国会議員連盟は今年1回限りで50万円を支給する法案をまとめたが、現段階で国会提出を見送っている。自民党内の調整で「戦後処理問題に関する措置は全て確定・完了した」とする2005年の政府・与党合意が障害となっている。

 ずさんな戦後処理と言うほかない。被害者を放置してはいけない。実態を調査し、補償に向けた国会議論を早急に始めるべきだ。

 

[10・10空襲から76年]記憶継承へ多くの課題(2020年10月11日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 沖縄本島や宮古、石垣、奄美大島など広範囲にわたって米軍の猛烈な攻撃を受けた「10・10空襲」からきょうで76年となる。

 激しい空襲は早朝から午後まで波状的に続いた。

 出撃した米軍機は延べ1396機。「晴天の空が曇るくらいの米軍機が空を覆った」と生存者は振り返る。

 総量540トン超の爆弾が日本軍の飛行場や港湾施設にとどまらず民家や学校、病院にまで降り注ぎ、多くの住民の命が奪われた。国内で初めての大規模な無差別爆撃だった。

 那覇の街は、焼夷弾(しょういだん)攻撃で9割が灰じんに帰した。当時の航空写真には、焼け野原が広がる。

 復興を遂げ発展した今の街並みは、激しい空襲を「遠い過去の歴史」のように感じさせる。だが、明らかに今と地続きなのだと私たちに突き付ける出来事が4月にあった。

 沖縄の玄関口、那覇空港内の工事現場で不発弾が3発、相次いで見つかった。いずれも米国製の250キロ爆弾だった。

 那覇空港の元となったのは1933年に造られた旧日本海軍の小禄飛行場だ。沖縄戦では米軍の標的となった。見つかった3発の不発弾は10・10空襲で投下された可能性が高い、と識者はみる。

 発見された場所は第1滑走路の近くだったため、処理されるまでの間、空港の運用に影響が出た。

 76年たっても「戦後処理」は終わっていない。だからこそ当時何があったかを知ることは重要だ。

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 コロナ禍の今年は、沖縄戦を振り返り平和の尊さを考える機会がことごとく奪われている。

 慰霊祭は中止や規模縮小が相次いだ。体験者から直接話を聞くイベントなども多くが見送られた。

 10・10空襲からの復興と平和への願いを込め、万余の力で繰り広げられる那覇大綱挽(ひき)も中止になった。

 沖縄戦の体験者が減り続けただでさえ継承が難しくなる中で、毎年続いてきた行事が例年通りできなくなったことは残念だ。

 ただ、県平和祈念資料館やひめゆり平和祈念資料館などは、コロナ対策を講じながら開館している。ネットでは体験者の証言などさまざまな情報が発信されている。激しい砲撃の弾痕が残る建物跡をはじめ沖縄戦の記憶をとどめる戦争遺跡も各地に残る。

 大勢が一堂に集まるのは厳しいが、コロナ禍でも可能な平和学習の在り方を探りたい。

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 沖縄歴史教育研究会と県高教組が県内の高校生を対象にしたアンケートで、沖縄戦の学びを「とても大切」「大切」と回答した高校生は計95・5%に上った。

 若い世代は学ぶ大切さを理解している。周囲の大人たちは、きっかけづくりやヒントを与えるなどして適切に支えてほしい。

 凄惨(せいさん)な沖縄戦の記憶を学ぶことで、戦争を二度と繰り返さないために今をどう生きるか、その先にどのような未来をつくるかを共に考えたい。

 

[10・10空襲75年]無差別爆撃を忘れまい(2019年10月10日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 「バラ色に染まる暁の沖縄東南海上を低く機種不明の編隊機群が現われ、金属性の爆音をとどろかせた。初秋の空は、高く晴れ、千切れ雲が淡く流したようにたなびいていた。(略)前夜の防空演習の疲れで、那覇市民の、眠りは深かった」。住民視点に立って沖縄戦を記録し、1950年に出版した『鉄の暴風』(沖縄タイムス社編)は、44年10月10日をこう記述する。

 10・10空襲である。

 米軍は空母から発進した艦載機延べ1396機で、午前7時からの第1次空襲、午後2時45分からの第5次空襲まで約9時間にわたって540トン以上の爆弾を投下した。奄美大島から沖縄本島、周辺離島、宮古島、石垣島に至るまでの無差別爆撃だった。

 軍民の死者668人を含む約1500人が死傷した。飛行場や港湾、船舶などの軍事施設だけでなく、学校や病院なども爆撃した。民間犠牲者は那覇の255人を含め330人に上る。那覇の約9割が焼(しょう)夷(い)弾などで焼失した。

 当初、日本軍の演習と思った人が少なくなかった。

 学童疎開船「対馬丸」が撃沈され、6日間の漂流の末に救助された上原清さん(85)は当時10歳。那覇に戻って1週間余りたったころ、夜明けに渡り鳥が飛ぶように何機も頭上を飛んでいった。「友軍だ!」と兄たちと喜んで手を振った。だが警報音で敵機だと知り、壕に逃げ込んだ。

 那覇市山下町の日本軍高射砲陣地の日本兵も「バンザイ!」「バンザイ!」と歓呼の声を上げたとの証言もある。

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 米軍の狙いは、日本への物資輸送拠点だったフィリピン・レイテ島奪回のため日本軍の後方支援基地を絶つこと、日本本土侵攻の足掛かりとなる沖縄攻略に向け地形や軍事施設などを上空から撮影することなどといわれる。

 当日の空襲は日本軍さえ予測できない奇襲攻撃だった。それだけに衝撃は大きかった。迎撃機はほぼ見当たらず、生命や財産を失い、住民には日本軍への不信感と失望感が広がったといわれる。

 その後の沖縄に重大な影響を与えるのが「米軍の奇襲攻撃が成功したのは沖縄人スパイが手引きしたからだ」とのうわさが流されたことである。沖縄戦研究の大城将保さんは『沖縄秘密戦に関する資料』の解説で、うわさは本土の報道機関や政府、議会筋にまで伝わり、県民総スパイ説はこの時期からすでに表面化しつつあったと指摘する。

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 10・10空襲は翌年の東京、名古屋、大阪、横浜など本土の主要都市の無差別爆撃の始まりでもあった。沖縄では米軍の上陸が必至で戦場になることを告げるものだった。

 沖縄戦で、日本兵が住民を壕から追い出して食糧を奪うなど軍隊は住民を守らず、住民をスパイ視して殺害する事件が各地で相次いだ。

 民間人を巻き込み地上戦への岐路となった10・10空襲から75年。「ありったけの地獄」を集めたといわれる沖縄戦を予兆させ、事実上沖縄戦始まりの日とみることもできよう。体験者の証言から不断に学び直し、平和を希求する思いを引き継いでいきたい。

 

きょうの空を見て考える平和(2019年10月19日配信『沖縄タイムス』−「大弦小弦」)

 

 1964年の10月10日は、平和の祭典、東京五輪の開会式が行われた日だ。なぜ、この日なのかについては諸説あるようだが、「晴れる確率の高い日」だからと関係者は証言している

▼気象情報会社ウェザーニューズが、81年から30年間の10月10日の天気を調べた結果、晴れの出現率は東京で70%、那覇でも63・3%と高かった

▼75年前の沖縄も秋晴れだった。米軍の大規模な無差別爆撃「10・10空襲」は、本島や周辺離島などを襲い、軍民合わせて死者668人を含む約1500人の死傷者を出した。旧那覇市の9割が焼失。日本の軍事拠点の破壊と沖縄の地形空撮が目的で、翌年の地上戦の「序章」だった

▼名護市山田区で私設の戦争博物館を開く眞嘉比朝政さん(82)も、あの日の空を鮮明に覚えている。小学生になったばかりで、名護の空にアリの群れのように現れた米軍艦載機グラマンを見た。空襲警報の中、無我夢中で逃げた恐怖は忘れられないという

▼沖縄戦で、父は召集されて南部で戦死。自身も栄養失調で死線をさまよった。戦後も母と兄、2人の妹と苦しい日々だった

▼「戦争はみじめ」と語る眞嘉比さんの博物館には、空襲を伝える当時の新聞や戦争遺品が並ぶ。博物館の看板は、「戦争」の文字を逆さにして戦争反対の思いを込める。きょうの沖縄地方も晴れの予報だ。

 

10・10空襲から75年 軍備増強が惨劇を招いた(2019年10月10日配信『琉球新報』−「社説」)

 

南西諸島の島々を延べ1400機の米艦載機が攻撃した「1010空襲」から75年になる。668人が死亡し、768人が負傷した。那覇市の約9割が壊滅し、被災した市民約5万人が本島中南部に避難するという大惨事となった。空襲の被害は周辺離島、宮古・八重山、奄美にも及んだ。

 米軍上陸による激しい地上戦の前哨戦となった1010空襲は、日本全国で76万人が犠牲となった無差別攻撃の始まりでもあった。

 早朝に始まった5次にわたる空襲は主に飛行場や港湾の軍事施設を標的としたが、攻撃対象は民間地域にも広がった。那覇市では大量の爆弾や焼夷(しょうい)弾を投下し、学校など公共施設や民家を焼き払った。

 それだけではない。商業、交易の街として栄えた那覇の歴史や文化が一日にして壊滅した。復興のために市民の多大な労力と長い年月を要した。戦争のすさまじい破壊力はこの街の歴史と将来を奪った。

 なぜ沖縄が米軍の標的となり、壊滅的な空襲被害を受けたのかを考えたい。

 1944年3月に創設された第32軍は米軍の侵攻に備え、沖縄本島や周辺離島で飛行場や軍事施設の構築を推し進めた。その過程で多くの県民が動員された。米軍はこれらの飛行場や軍事施設を攻撃し、日本軍の弱体化を図った。

 日本軍は沖縄を日本本土防衛の防波堤とし、県民に対しては「軍官民共生共死」の方針を強いた。米軍は本土攻略に向けた戦略的な価値を沖縄に見いだした。太平洋を部隊とした日米両軍の戦闘が1010空襲、翌年の沖縄戦へとつながり多大な県民の犠牲を生んだ。そのことから私たちは「戦争につながるものを許してはならない」という教訓を得たのである。

 今日、沖縄では日米双方による軍備増強が進められている。これは沖縄戦の悲劇から得た教訓に反するものであり、今日の県民の意思にも背くものだ。

 宮古島では陸上自衛隊ミサイル部隊の配備計画が進んでいる。既に宮古島駐屯地に、住民への説明がないまま中距離多目的誘発弾や迫撃砲は保管されていた。石垣島でも陸自駐屯地の工事が今年3月に始まった。いずれも地域住民の理解を得たとは言い難い。

 名護市辺野古では沖縄の民意に反し普天間飛行場の返還に伴う新基地建設が強行されている。さらに今月、核弾頭が搭載可能な中距離ミサイルを、沖縄をはじめとする日本に配備するという米計画が明らかになった

 1010空襲や沖縄戦体験に照らせば、日米による沖縄の軍備増強は住民を守るものではない。むしろ危機に陥れる可能性が大きい。これらの動きに異議を申し立てるためにも1010空襲を語り継がなければならない。

 75年前の悲惨な体験を踏まえ、平和を築くことが沖縄の未来に対する私たちの使命だと自覚したい。

 

69歳から49歳へ…(2019年4月22日配信『沖縄タイムス』−「大弦小弦」)

 

 69歳から49歳へ、公的に20歳若返ることを求めて裁判を起こした男性がオランダにいる。医師も「体年齢」は45歳だと言ってくれるのに、仕事や恋愛で実年齢を言うと差別される、と主張した

▼結果は敗訴。裁判所は「生年月日の修正を認めると誕生、死亡、結婚など、20年分の記録が消失する。法的、社会的に多くの問題が出る」と認めなかった

▼普通はそうだと思う。しかし、沖縄は普通ではなかった。戦争で本島住民の戸籍がほぼ丸ごと焼失した。戦後、一から戸籍を作り直す時も照合すべき資料がなく、生年月日は住民の申告通りに認められた

▼名護市の外間政吉さん(85)の誕生日は戸籍上、10月10日。実際は5月生まれらしい。戦後、学校に通うため生年月日が必要になったが、母は子だくさんで記憶があいまいだった

▼そこで、10・10空襲の日を届けた。母も同じ誕生日にした。本部町の市街地が炎上する様子を山中の実家から目撃し、脳裏に刻んでいた。外間さんは「空襲は沖縄戦の始まり。生涯忘れない日になった」と話す

▼沖縄戦は多数の人命を奪い、自然を破壊した。それだけではなく、人々が生きた記録を燃やし、歴史を奪った。この世に存在したことも戦没したことも、公的に証明できない人がたくさん出た。74年前の今ごろ、中部や伊江島が戦火に包まれていた。

 

1010空襲から71年 なぐやけの碑慰霊祭(2015年10月11日配信『沖縄タイムス』)

 

戦没者を悼み、「なぐやけの碑」で焼香する慰霊祭参列者=10日午後、那覇市若狭海浜公園

 

 那覇市街の9割が焼失するなど県内各地に大きな被害をもたらした10・10空襲から71年となる10日、那覇市若狭の「なぐやけの碑」で、市連合遺族会主催の慰霊祭が営まれた。小雨がぱらつく中、遺族ら約200人が参列。空襲被害者を含め、市の戦没者2万9千人余の名簿を奉納した碑の前で焼香し、平和への誓いを新たにした。

 同遺族会の大嶺正光会長は弔辞で「新たに戦争を起こしかねない世相に、緊迫した危機感を覚えている。いかなる理由があっても戦争だけは絶対にあってはならない」と強調した。

 慰霊祭には、那覇市の新里博一福祉部長のほか、県遺族連合会の宮里篤正会長や地域の小中学校の児童・生徒らも参列した。

 

愚かな戦争、語る決意 10・10空襲慰霊祭に185人参列(2015年10月11日配信『琉球新報』)

 

 

戦没者に黙とうをささげる参加者

 

 那覇市を中心に県内全域が米軍の無差別攻撃を受けた「10・10空襲」から71年。第20回「なぐやけの碑」慰霊祭(那覇市連合遺族会主催)が10日、那覇市の若狭海浜公園で行われた。参加した185人が戦争で亡くなった人々に祈りをささげた。「平和」の思いを引き継ごうと近隣にある若狭小学校と那覇中学校の児童や生徒も参加した。

 1944年10月10日、那覇市を中心に離島を含む県内全域が無差別攻撃を受けた。延べ840機の米軍機が約9時間にわたり爆撃を続け、668人が死亡し、768人が負傷した。市街地は壊滅的な損害を受けた。

 那覇市連合遺族会の大嶺正光会長は戦争が終わり、70年経た現在も沖縄に基地がある現状を踏まえ、「沖縄には他国との緊張感を高め、戦争を誘発する基地がある」と指摘。「いかなる理由だろうと、戦争はしてはいけない。戦争がいかに愚かなことなのか、戦争を知らない世代に語り継がないといけない」と語った。

 

歴史認識の溝(2015年10月11日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 ユネスコが、日本軍による南京大虐殺に関する資料を世界記憶遺産に登録した。夜中にもかかわらず、外務省はすぐさま「遺憾」の談話を出した。戦後70年たっても存在し続ける日中の歴史認識の溝だ

▼これまで日中の研究者で認識を擦り合わせようと共同研究も試みられたが、結局は日中双方の両論を併記する形に終わった。この溝は深く、なかなか埋め難い

▼安倍晋三首相は戦後70年談話で日本の「植民地支配」や「侵略」を一般論にとどめた。それを踏襲するように外務省は「歴史問題」のサイトを改訂し、以前あったこの二つのキーワードを談話発表後しばらくして削除した。この変遷を隣国はどう見るだろうか

▼沖縄の歴史認識をめぐっても溝は深い。かつて政府答弁書は、沖縄がいつから日本の一部になったのかについて、確定的には言えないとした。最近も普天間飛行場の形成で誤解を流布した作家もいた

▼翁長雄志知事は普天間飛行場移設をめぐる菅義偉官房長官との協議で、歴史認識を戦後の土地接収にさかのぼって説いたが、菅氏には響かなかったようだ。政府のかたくなさが際立つ

▼きのう10日で沖縄戦の10・10空襲から71年がたった。この間、政府は10・10空襲の戦没者数など実態を把握していないと答弁してきた。もうここまで来ると、溝どころではなく、歴史認識の欠如と言わざるを得ない。

 

10・10空襲の慰霊祭 沖縄・那覇(2015年10月10日配信『NHKニュース』)

 

10・10空襲の慰霊祭 沖縄・那覇

昭和19年の10月10日に沖縄県内の各地がアメリカ軍の空襲を受けて、1400人以上が死傷した「10・10空襲」から71年となる10日、那覇市で慰霊祭が行われました。

終戦の前の年の昭和19年10月10日、沖縄県内の各地がアメリカ軍の空襲を受けた「10・10空襲」では、当時の那覇市の市街地が9割以上焼失し、1400人以上が死傷しました。

空襲から71年となる10日、那覇市で慰霊祭が行われ、参列した遺族120人余りが黙とうをささげ、空襲や、その後の沖縄戦で亡くなった戦没者を追悼しました。

このあと、那覇市連合遺族会の大嶺正光会長が「戦後70年がたち、戦争を知らない世代が大半を占めています。再び戦争が始まると、たとえ間違っていたと気づいても誰も止められないことを歴史が物語っていて、いかなる理由があっても戦争だけは絶対にやってはいけない」と述べ、平和への思いを訴えていました。

10・10空襲から71年、沖縄戦から70年がたつ沖縄には今もアメリカ軍基地が集中していて、10日の慰霊祭の最中も、上空にアメリカ軍の軍用機が飛び交っていました。

戦争で父親を亡くした71歳の男性は「戦後も食料の配給が少なく、ひもじい思いをしました。戦争は決してやってはいけないと思います」と話していました。

 

戦災報告書に沖縄戦ない理由は「不明」 政府、空襲犠牲者数も把握せず(2015年9月16日配信『沖縄タイムス』)

 

総務省の「全国戦災史実調査報告書」に沖縄戦の被害が盛り込まれていない問題で、政府は15日、沖縄が抜け落ちている理由について「行政文書が残っておらず不明」とする答弁書を閣議決定した。また、「10・10空襲」による犠牲者数についても「政府として把握しておらず、お答えすることは困難」などと回答した。照屋寛徳衆院議員(社民)の質問主意書への答弁。

照屋氏は政府の沖縄戦などの調査・記録がなければ、沖縄県などによる被害調査結果を政府報告書に反映するよう求めたが、答弁書は「意味するところが明らかでない」とし、まともに取り合わなかった。県民(非戦闘員)の犠牲者数についても把握しておらず、住民が巻き込まれ多大な犠牲となった沖縄戦の実相も正確につかめていない。

照屋氏は沖縄タイムスの取材に対し「政府として沖縄戦の被災実態を明らかにしようとの姿勢が皆無なのが問題。戦争の記憶継承の在り方が問われる中、無責任極まりない」と国の不作為を強く批判し、実態調査と記録化を求めた。

 

10・10空襲慰霊祭 頭上にオスプレイ(13年10月11日配信『沖縄タイムス』)

 

10・10空襲の慰霊祭会場上空を通過するオスプレイ=10日、那覇市若狭

 

10・10空襲から69年目を迎えた10日、戦没者2万9千人余を悼む慰霊祭の最中、米軍の輸送機オスプレイが4度にわたって飛来。参列者の声をかき消した。遺族は「空襲の体験者も何人か来ている。静かに鎮魂している最中なのに、こんな日にも飛ぶとは」と憤りを隠せない。

オスプレイは、慰霊祭を主催する那覇市連合遺族会の大嶺正光会長のあいさつや読経、焼香の際と立て続けに飛来。参列者200人の中には、険しい表情で空を見上げる人もいた。

10・10空襲を経験した那覇市の女性(92)は「今も思い出すと嫌な気持ちになる。怖くて」と話す。空襲の日の朝、警報を聞いて父、母、おなかの中にいた長男と4人で家の裏の防空壕(ごう)に逃げた。パンパンパンッという音と地響き。怖くて、壕の中でひたすら耐えた。翌日、自宅を含め前島一帯は焼け野原になっていた。徴兵された夫は帰らぬ人となった。新婚生活はたった8カ月だった。

「何があっても、戦争だけは絶対してはいけない。今でも、テレビで外国の戦争のニュースを見ると、怖くて心臓がどきどきする」と話す女性の声を、ごう音がかき消した。

「『昭和19年5月28日、戦没』。残っている父の記録は、政府からの通知だけ」。遺族を代表してあいさつした那覇市の宇根伸子さん(70)は、言葉を詰まらせながら話した。宇根さんが1歳のころ徴兵された父は、どこで戦死したかも分からず、写真も戦火で焼けた。「戦争はこういう悲惨なもの。戦争のない世界の構築に努力する」と誓った。

大嶺会長は「戦後68年たっても、不発弾や遺骨が地中に多く眠る。さらにオスプレイの配備、戦争の爪痕は消えない。私たち遺族は、戦争の愚かさを子や孫の世代に伝える責務がある」とあいさつした。

 

10・10空襲69年 遺族らが恒久平和祈る(13年10月11日配信『琉球新報』)

 

戦没者の冥福を祈り焼香する参列者=10日、那覇市若狭海浜公園内のなぐやけの碑前

 

 「10・10空襲」から69年を迎えた10日、那覇市若狭海浜公園内のなぐやけの碑前で「第18回なぐやけの碑慰霊祭」が開かれた。碑には10・10空襲の犠牲者を含む那覇市出身の沖縄戦戦没者2万9千人余がまつられている。参列した遺族ら約120人は戦没者の冥福と恒久平和を祈り、黙とうをささげた。

 那覇市連合遺族会の大嶺正光会長は「今も地中には戦争の負の遺産である不発弾が埋まり、遺骨が山野に眠っている。私たちには戦争の愚かさや悲惨さ、命の尊厳を絶えず子や孫に伝えていく責務がある。戦争につながる全てを許してはいけない」とあいさつした。

 参列した久高唯宗さん(78)は、10・10空襲で父の唯道さん(当時40代)を亡くした。父以外の家族は当時、熊本に疎開していた。「父の遺骨も遺品も何も手元にない。私は幼かったので父の記憶も薄い。きょうは父に『こんなに大きくなりました』と伝えたい」と語った。

 10・10空襲を経験した稲福富美子さん(79)は「あの日のことは鮮明に覚えている。火の粉が舞う那覇の町で、多くの遺体を見た。慰霊祭の最中に飛んで来た米軍機の音で、当時のことをまた思い出した。戦争は二度と起こってほしくない」と力を込めた。

 慰霊祭の途中、在沖米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが重低音を響かせ上空を飛び、読経や弔辞の声をかき消す場面もあった。

 

なぐやけの碑=正称は「恒久平和のモニュメント なぐやけ」

 

「なぐやけ」=「穏やか」「和やか」という沖縄の古語で、いつまでも平和でありますようにとの祈りが込められている(同碑文より。一部要約)

 

碑は、那覇市が、沖縄戦における那覇市民の戦没者名簿を奉納し、慰霊するとともに、恒久平和への強い決意を世界の人々に伝えるため、恒久平和のモニュメント『なぐやけ』を希望ヶ丘公園波の上ビーチ広場内に1996年建立した。

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