宮森小学校米軍機墜落事故

 

米軍飛行士は故障したZ機を空中に放したまま落下傘で逃げ生き延びた。無人飛行機は、舵手を失って空を乱舞した揚句、学園につっこんでいった!

 

 

youtube(宮森小学校米軍機墜落事故)youtube(忘れたい 忘れてほしくない〜宮森小 米軍機墜落事故)

 

 

  

 

 

沖縄の返還前の米軍統治下の1959(昭和34)年6月30日午前10時30分(40分とも)過ぎ、米軍・嘉手納基地アメリカ空軍・第313空軍師団所属のノースアメリカンF100Dジェット戦闘機がテスト(訓練)飛行中、時速436Km、高度約300Mに達した地点でエンジン火災を起こしたため、急きょ嘉手納基地や沖縄本島中部のコザ市街地(現・沖縄市)・石川市(現・うるま市)内を避け、石川市南西部約2キロの人家の少ない丘に機首を向け着陸態勢に入ったが、制御(操縦)不能に陥る(原因は、整備不良によるエンジントラブル)

 

注;ノースアメリカンF100Dジェット戦闘機=1954年から1971年まで使用された世界初の実用超音速戦闘機。愛称はスーパーセイバー(Super Sabre)。アメリカの戦闘機として初めて水平飛行で音速を超えることのできる戦闘機であった。しかし実際には、戦闘爆撃機としての運用が多かったといわれている。試作初号機は初飛行で超音速を突破し、間もなく世界最速記録も更新した。爆弾搭載能力等の改良が加わり、実戦では、戦闘爆撃機としてベトナム戦争に投入された。

 

 

パイロットのジョン・シュミッツトはパラシュートで脱出(無事)、無人になった機体は、民家35棟をなぎ倒した後、石川市(現うるま市)立宮森(みやもり)小学校のトタン屋根校舎に墜落、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上した。

 

事故のよる死者は児童11名(2年生6名、3年生1名、4年生1名、6年生3名)を含む17名、負傷者は児童156名を含む212名(職員2名、地域住民54名)、全焼した建物は、住居17棟と公民館1棟、小学校の3教室が全焼し、住居8棟、小学校2教室を半焼するなどの大惨事となった。

 

事故当時、学校には児童・教職員ら約1000人がおり、ちょうどそのとき2時間目終了後のミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいた。墜落の直撃を受けた2年生の教室の被害が最も大きく、火だるまになった子供達は水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えた児童もいた。また、石川市上空を黒煙が覆い、市全体への火災の広がりを心配した住民の避難騒ぎも起こり、被災者の治療のために沖縄本島中部在住医師のほとんどが駆けつけた。

 

米軍は墜落翌日の7月1日、「嘉手納基地所属のジェット機が訓練飛行中に突然爆発、パイロットは無事脱出したが、機体は目標をそれ、市内に落ちた」と発表。翌2日は正式発表として、「不可抗力の事故」であることを言明、沖縄県民の心情を逆なでした。

 

立法院では本会議開会中に休憩し、緊急各派交渉会を開き、米軍に対する厳重な抗議を全会一致で決議したほか、石川事件対策特別委員会を設置した。

 

注;琉球列島立法院Legislature of the Government of the Ryukyu Islandsはアメリカ統治下の琉球政府の立法機関。米国民政府布令第68号「琉球政府章典」により設置されたもので、その権限は、沖縄に適用されるすべての立法事項について立法権を行使することができるが、米国民政府の制約下にあり、法令の無効を命じられることもあった。復帰後、日本国の地方議会にあたる沖縄県議会となり、議席の配列が一部変更になった。沖縄県庁舎の建設にともない建物も解体された

 

 

 

 

 

 

 

 

同年7月27日、石川市主催の合同慰霊祭に出席したブース高等弁務官が「アメリカを代表して最高の償いをする」といった内容の弔辞を述べたが、補償問題は遅々として進展しなかった(それまでも度重なる米軍の事故が起こるたびに、「すみやかな補償」と何回となく繰り返しされた)

 

このころは、米軍が「銃剣とブルドーザー」による土地接収が強行されていた時期と相まって、沖縄全域で反米感情が高揚、激しい抗議行動が展開されるが、3年にわたる交渉の結果、米軍が補償したのは被害者側の要求のわずか1割程度の総額11万9066ドルに過ぎなかった(死亡者4500ドル、重傷者は障害に応じて2300〜5900ドル)。当時の市長は賠償交渉を円滑に進める意図から、事故の復旧に貢献したとして米軍に感謝状を贈った。

 

注;銃剣とブルドーザー

1952年のサンフランシスコ講和条約発効後、琉球列島米国民政府は布令91号によって「契約権」を公布し、賃貸借契約による土地の継続使用を確保しようとしたが、賃貸借期間が20年と長く、1坪の年間賃料は2セント程度とただ同然であったため、地主とが契約は難航した。このため米国民政府は、1953年に布令109によって「土地収用令」を公布し、真和志村(現那覇市)銘刈(めかる)・具志、宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜、伊江村真謝(ましゃ)など、各地で強制的な土地接収(強奪)を開始した。武器を持たず必死に反対を訴える住民に対し、米軍兵士は銃剣で武装し、ブルドーザーを使って家屋を押しつぶし、耕作地を敷きならしていった。

 

7月6日には、PTAや沖社協、遺族連合会、婦人連盟、沖青協などの団体が「石川市ジェット機事件対策協議会」を結成し、米軍へ救援・事故防止対策の要求や救援運動を展開、教職員会では20万の児童・生徒にひとり3セント、教職員にひとり20セントずつ見舞金を集め、本土の関係団体の協力を得て負傷した児童の治療費にあてる活動を行った。本土でも義捐金活動が起こり、8月13日には日教組などの14団体が全国的な運動として取り組むことを決め、多くの見舞金を寄せた。

 

そしてこの事件とその後の反基地運動は、沖縄の日本復帰運動に繋がっていったのである。

 

また、1999年になって、墜落直前に50Kg爆弾を海上投棄していたことが判明した。

 

米軍嘉手納基地が国防総省等に提出した年次報告では事故原因として以下のように記している。
1.エンジンの整備不良
2.機体の問題が解決されていない状態で飛行させた整備管理者の判断
3.離陸後、急上昇させたパイロットの操作
4.定められた過程を尽くさなかった整備
 なお、事故機は同年5月に台湾の民間会社で整備を行ったが、整備過程の一部が抜けるミスがあり、計器不調も判明したため、嘉手納に戻った後に再整備され、そのテスト飛行中に墜落した。

 

 

 

宮森小学校の中庭には、犠牲となった児童らを慰霊する「仲良し地蔵」が設置されており、毎年6月30日に児童らによる追悼式が行われている。

また、事故から50年の2009年6月30日、同校の平和資料室「命と平和の語り部『宮森630館』」が開館した。

 

 

「命の尊さ」風化させず 米軍機墜落事故50年、宮森小で追悼式

児童11人、住民6人が犠牲となった1959年の宮森小学校米軍機墜落事故から50年を迎えた09年6月30日、うるま市立宮森小学校で追悼式が開かれた。基地の集中ゆえに起きた事故から半世紀。沖縄の抱える現状は変わらぬままで、全校児童や遺族、事故関係者らは「事故を風化させてはいけない」という決意を胸に、追悼式に臨んだ。

追悼式では犠牲となった児童が刻銘された「仲よし地蔵」に千羽鶴が奉納され、「平和の鐘」が鳴る中で参加者は黙とうをささげ、犠牲者のみ霊を慰めた。

当時、同校の2年生で事故を体験した平良嘉男校長は「事故は関係者にとっては忘れられない。命の尊さを訴え、平和をつくり出す宮森っ子になってほしい」と児童らを激励した。式には仲井真弘多知事らも出席した。この日開館した同校の平和資料室「命と平和の語り部『宮森630館』」は当分の間は毎週土、日曜日の午前10時〜午後2時まで開館する(09年6月1日付『琉球新報』)

 

 

宮森小学校米軍機墜落事故から50年 −表現すらできない悲しい事件−

テルヤ寛徳社会民主党衆議院議員(沖縄2区)ブログ

 50年前の1959年6月30日午前10時40分頃、米軍嘉手納基地所属のF100Dジェット戦闘機が石川(現うるま)市立宮森小学校に爆発炎上、墜落した。この米軍機墜落事故による死者は17人(児童11人、一般6人)、負傷者は210人(児童156人、一般54人)を数える大惨事となった。墜落直後の宮森小学校は文字通り地獄絵図と化した。50年目の今日この日に、犠牲になった方々のご冥福を祈り、ご遺族や関係各位に哀悼の念を捧げます。
 当時、私は具志川中学校2年に在学中であった。教室の窓からはるか遠くに墜落する米軍ジェット機を目撃した。去年から今年にかけて、犠牲者の遺族や当時の在学生、亡くなった級友を偲ぶ方々を中心に、事故の惨劇を語り、記憶を継承し、当時の資料を収集・保存・展示するための運動が起こった。50年の節目を迎え、“事故”のつらい体験を初めて語る人も現れた。
 沖縄の現実は、宮森小ジェット機墜落事故当時から何も変わっていない。今なお日常的に米軍機墜落の恐怖にさいなまれ、爆音に苦しめられている。基地機能は強化される一方だ。米軍基地の存在は、子どもらが安心して学習する環境を奪っている。
 6月29日の沖縄タイムスに、事故で同じクラスの6人の級友を失った名嘉百合子さんの語ることばが載っている。「思いを言葉にすると、薄っぺらになってしまう。表現すらできないほど悲しい事件なんです」と。

2009年6月30日

 

 

04年8月13日には沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落炎上したが、それは、本土復帰後の現在の沖縄において、米軍基地から発生する危険にいつも隣り合わせで生活している状況が何ら変わっていないことを端的に証明する出来事を意味した。

 

なお、沖縄県によると1972年の本土復帰から2008年末までに、墜落事故だけで43件、不時着や部品落下なども含めると487件に上る。

 

 

犠牲者の願い(2014年7月2日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 55年前のあの日は、1週間前からセミの鳴き声が街に響き渡っていたという。1959年6月30日、セミの鳴き声に触発されて、当時小学2年生だった玉城欣也さん(63)=うるま市=は登校前、自宅近くの売店で母親に虫取り網を買ってもらった

 ▼当時、虫取り網は高価だった。何度もねだってようやく手に入れた。放課後に虫取り網を振るう姿を思い描き、はやる気持ちを抑えての登校だったに違いない

 ▼それが暗転したのは2校時目を終えた午前10時35分ごろ。戦闘機が墜落し、18人が命を奪われ、200人余が重軽傷を負った。校舎を直撃し、民家も巻き込んだ石川市(現うるま市)宮森小米軍ジェット戦闘機墜落事故である

 ▼玉城さんは避難する途中、虫取り網を教室に忘れたことに気付いて学校に戻り、校長室前で黒焦げになった遺体と対面することになる。その出来事が「人生の分水嶺」となった。その悲痛な体験を機に生と死を問い続け、今は牧師として命の重みを説く日々を送る

 ▼今年、当時の児童・園児が一堂に会する同窓会が初めて開かれた。その場で玉城さんはこう切り出した。「忘れたくても、亡くなった人たちは『忘れてほしくない。忘れないでほしい』ということだと思う」

 ▼セミの鳴き声に犠牲者の願いを込めた声が重なり、今年も街を、そして人々を包む。その声に耳を澄ませたい。

 

[戦後「ゼロ」年]宮森は終わっていない(2014年7月1日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 心の奥にしまい込んだ幼い日の悲惨な記憶。封印を解いて語るには、半世紀余の歳月が必要だったのだろう。

 1959年6月30日、旧石川市の住宅地に米軍ジェット機が墜落し、近隣の宮森小学校に激突。児童や一般住民18人が亡くなった事故から55年が過ぎた。

 30日の追悼集会と慰霊祭の前日、宮森小で「大同窓会」が開かれた。事故を語り継ぐ活動を行っているNPO石川・宮森630会の呼び掛けで初めて実現したものだ。当時の幼稚園児から6年生までの在校生のほか、教員や遺族らが集まった。

 証言集「命の叫び」には、当日の様子が記されている。

 1校時、2校時が終わり、ミルク給食の時間になった。コップを持ち上げて飲もうとした時、校庭にコンクリートと鉄の破片が飛び散った。窓ガラスが割れ、子どもの頭や顔に飛び散る。校庭は黒煙で覆われ、叫び泣いて逃げまどう子どもたちで手のつけようもないありさまだった。

 事故現場は凄惨(せいさん)をきわめた。生き残った人も深刻な心の傷(トラウマ)を抱えた。

 同窓会に出席した女性(65)は、当時の記憶を語り「同期生と事故のことを語り合ったのは初めて」と話した。

 当事者や遺族の抱えるトラウマの深刻さを思う。加えて今も米軍機が頭上を飛び交い「事故がまた起きるかもしれない」という恐怖にさらされている。こんな異常な訓練を容認している日米両政府は、道義的にも許されない。基地がある限り、事故は決して過去のものではないのである。

    ■    ■

 米軍占領下の沖縄では航空機事故が繰り返し起こり、多くの悲劇を招いた。

 51年10月20日、米軍F80戦闘機が那覇市牧志の民家に燃料タンクを落下させ、一瞬にして家は炎に包まれ6人が死亡した。62年12月20日、米軍のKB50型給油機が嘉手納村屋良(当時)に墜落、炎上。近くの民家が全焼し、2人死亡、8人が重軽傷を負った。

 復帰後も沖縄国際大学へのCH53ヘリ墜落事故をはじめF15戦闘機の墜落事故などが相次いでいることは、これから先も起こり得るとの警鐘を鳴らしているものだ。

 作家の目取真俊氏は著書「沖縄『戦後』ゼロ年」で次のように指摘している。

 「沖縄戦の戦闘は終わっても、(中略)ずっとアメリカが行う戦争の渦中にあり、実質的な占領下に置かれてきたのではないか。(中略)沖縄にとって、戦争が終わった後という意味での『戦後』は本当にあったのか、と考えずにおられません」

    ■    ■

 尖閣問題など中国の海洋進出に対し安倍政権は軍事的な対抗路線を加速させている。中国や北朝鮮の脅威が持ち出され、戦争への備えを肯定するような風潮もある。

 だが、紛争に発展すれば被害を受けるのは住民である。県民は歴史体験に根ざした皮膚感覚として、その危険性を感じているのである。

 重い負担を抱える沖縄を、将来にわたって「基地の島」にする辺野古への新基地建設は人道上、許されない。日米両政府は目を覚ますべきだ。

 

宮森小墜落55年 戦後史の理不尽忘れまい(2014年7月1日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 どこよりも安全であるべき小学校が突然、炎に包まれ、ミルク給食を待つ児童たちを「火の玉」が襲った。このような理不尽が許されていいはずがない。まして繰り返されるなどあってはならない。

 18人が犠牲になり、200人以上が負傷した石川市(現うるま市)の宮森小学校米軍機墜落から55年がたった。慰霊祭で関係者が述べた通り、沖縄戦を生き延びた人の子どもたちが犠牲になった事故は、まさに「二重の犠牲」だ。そんな理不尽な沖縄の戦後史を胸に深く刻みたい。

 慰霊祭前日には当時の在籍者による初の同窓会が開かれた。55年経過してようやく開催できたということ自体、心の傷の深さを物語る。軍用機が上空に来ると目が泳ぐ。事故の話になると自然と涙が湧く。体験者のそんな話を聞くと、心的外傷が今も癒やされてなどいないことが分かる。

 娘や息子を、受け持つ児童を、同級生を、救えなかった。遺族や教員、児童は今も痛恨の思いをかみしめている。何の罪も責任もないこの方々に、これほど痛切な思いを強いているのは誰か。沖縄にこんな戦後史をもたらした日米両政府こそ、自責の念を抱くべきだ。

 事故当時、米軍は現場を封鎖し、子どもの安否を気遣う父母ですら現場に入れなかった。軍用機の情報が漏れるのを警戒したからに違いない。子を思う親の思いより軍機を優先したのだ。軍が全てに優先するその構図は、2004年の米軍ヘリ沖国大墜落事故でも繰り返された。米軍機の墜落は復帰後も45件起きている。年1回以上の頻度だ。その意味で、宮森の悲劇は確実に今につながっている。

 事故機は事故の前月にエンジンを整備したが、整備過程の一部が抜け落ちていた。整備不良のまま、試験飛行として嘉手納基地を飛び立った。沖縄の住民の生命など、実験材料であるかのようだ。

 整備不良のまま飛行させた管理者も操縦士も、責任は一切不問だった。これらは事故の数十年後に判明した事実だ。事故を風化させず、再検証することの必要性を示している。

 遺族や当時の在校生らでつくる石川・宮森630会はこれまでに記録集を4巻発行した。事故を風化させまいとする努力に敬意を表したい。長く封印してきた記憶をようやく語り始めたという人もいる。今だからこそ語れる記憶をきちんと記録し、継承したい。

 

石川・宮森米軍機墜落事故 55年目の慰霊祭(2014年6月30日配信『沖縄タイムス』)

 

 旧石川市の宮森米軍ジェット機墜落事故から55年を迎えた30日、宮森小学校で追悼集会が開かれた。全校生徒や遺族、当時の在校生など400人以上が参列し、犠牲者の冥福と平和を祈った。

 「平和の鐘」が打ち鳴らされる中、犠牲者の名前が刻まれた仲よし地蔵に児童らが千羽鶴と花を供えた。6年生全員で平和を祈る詩を群読し「二度とこのような悲しい事故を起こしてはならない。平和な沖縄をつくっていく」と誓った。

 

宮森小ジェット機墜落事故の犠牲者を泣きながら追悼する遺族=30日午前10時すぎ、うるま市・同小

 

 

墜落事故「決して忘れてはいけない」 宮森小で慰霊祭(2014年6月30日配信『琉球新報』)

 

1959年6月30日に米軍嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット戦闘機が石川市(現うるま市)の宮森小学校に墜落した事故から55年となった30日、同校で事故の犠牲者18人を追悼する慰霊祭(遺族会、NPO法人石川・宮森630会主催)が開かれた。

 遺族や当時の在校生、地域の住民ら約90人が参列し、犠牲者の冥福を祈った。NPO法人石川・宮森630会の豊濱光輝会長は戦後14年に起きた事故について「沖縄戦を生き延びた人たちの子どもたちが犠牲になった。沖縄戦を生き延びた方々が犠牲になった。二重の犠牲だ」と語った。「沖縄の戦後の歴史はこのような歴史を担いでいる。決して忘れてはいけない」と訴えた。

 事故の犠牲になった児童や住民ら18人の名前が刻まれた「仲よし地蔵」に花や千羽鶴が手向けられ、参列者は米軍機が墜落した午前10時40分ごろ、黙とうをささげた。

 

犠牲者の名前を刻んだ仲よし地蔵に花を手向ける参列者ら=30日午前8時34分、うるま市石川の宮森小学校

 

沖縄、米軍機墜落55年で慰霊祭 「児童の叫び代弁する」(2014年6月30日配信『共同通信』)

 

 米施政権下にあった沖縄県石川市(現うるま市)の宮森小に1959年、米軍ジェット戦闘機が墜落し、児童ら17人が死亡した事故から55年となった30日、同校で慰霊祭が開かれた。

 事故直後に安置所で遺体を引き渡す担当だった元教諭、豊浜光輝さん(78)は「戦争を生き抜いた親より先に死ななくてはならなかった児童たちの叫びを代弁していきたい。米軍基地はなくならず、沖縄の戦後は終わっていない」と話した。

 雨が降る中、参列者は校内の慰霊碑「仲よし地蔵」に花束を供え、事故が起きた午前10時40分ごろに黙とう、犠牲者の冥福を祈った。

 

慰霊祭で犠牲者の冥福を祈る人たち=30日午前、沖縄県うるま市

 

宮森小米軍機墜落から53年 沖縄、「子ども守れず」とおえつ(12年6月30日配信『沖縄タイムス』)

 

米軍統治下の沖縄県石川市(現うるま市)で1959年、宮森小学校に米軍嘉手納基地所属のF100戦闘機が墜落、炎上し、児童11人、周辺住民6人が死亡した事故から53年となった30日、NPO法人「石川・宮森630会」は同小で慰霊祭が開かれ、遺族や在校生ら約200人が参列した。墜落した午前10時39分に黙とう。「二度と悲劇を繰り返さない」と誓い合った。同会としての開催は2011に続き2回目。

豊濱光輝会長は「私たちは、あの出来事を忘れようとした。でも心の中では忘れてほしくないと思っていた。今は無念の死を決して忘れないという活動をしている。誓いを新たに、会として語り継いでいきたい」と力を込めた。

当時、遺体安置所で遺体を引き渡す担当だった元教師豊浜光輝さん(76)は「子どもたちを守れなかった、本当に悲しい」と話し、犠牲者の名前を一人一人読み上げながら、おえつを漏らした。 

 

 

米軍の戦闘機が墜落し児童らが死亡した事故の慰霊祭で、黙とうする遺族ら=30日午前、沖縄県うるま市の宮森小学校

 

 

あゝこの悲惨 − あなたたちの冥福を祈ります−

                 宮森小学校校長 作 仲嶺盛文

 

あゝこの悪惨事

 ゆきて帰らぬ子どもたち

 あなたたちをなくして私はとても悲しいです

 試練の負荷にたえかねて いくたびか

 くずれさろうとするのを人々の情けとはげましにささえられてやっとたええています

 もう児童は あなたたちはもう永久に帰らない

 私は悲しくてたまらないのです

 これは一体どうしたということでしょう

 これでよいのか 戦争がすんで十五年もなるというのに

 基地の島に住むわれわれ民俗の大きな悲劇と思うのです

 三十日火曜日の二時間目までこの美しい学園で先生とたのしくまなんだあなたたちは

 Z機の爆音と共に 全身火だるまになり先生に助けてと一声のこして

 一瞬にしてこの世から消えさっていった

 あまりにも悲惨な事ではないか

 私はどうしてよいかわからない

 けれど、もうどんなにないたってわめいたってあなたたちは帰らない あゝ私は勇気を出しておちつきをとりもどし あなたたちのめいふくをいのります

 どうかあなたたちも安心していって下さい

 天国では神様が愛の心をもってあたたかく迎えて下さいます

 どうか いつまでも 学校の守り神となって下さい

 そして 世界の平和のもと力になって下さい

 私はいつまでもあなたたちのめいふくをいのりつづけます

1959年7月2日付『琉球新報』夕刊

 

 

☆ 映画「ひまわり〜沖縄は忘れない、あの日の空を〜」 2013年1月より全国公開!

 

ストーリ

 

ジェット戦闘機は炎上しながら校舎へ激突した。 繰り返される沖縄の悲劇。

 

激しい爆音とともに米軍のヘリが沖縄国際大学へ墜落した。事故現場を見た山城良太は、52年前の石川市の空を思い出していた。良太は宮森小学生6年生で仲良しの茂と豊と2年生の一平達と元気に遊び回っていた、良太のクラスに宮城広子が転校してきた、良太の心は華やいだ。青い空の下で沖縄の人々は一生懸命に生きていた。

1959年6月30日、突然、米軍のジェット戦闘機が、炎上しながら民家と小学校へ激突した、悲鳴を上げながら逃げまどう子ども達、良太は広子を助けようとしたが既に息絶えていた。校庭には一平の変わり果てた姿があった。それから53年目の2012年、年老いた良太は妻を失い娘の家で暮らしていた。

孫である大学生の琉一はゼミ仲間と共に宮森小ジェット戦闘機墜落事件のレポート活動を始めるが、宮森事件の傷跡は今も深く遺族の心を苦しめている。琉一達は基地と平和を考えるピース・スカイコンサートを決意するが、琉一達の前に様々な問題が起きはじめる…。

 

☆ 米軍普天間飛行場へのオスプレイ強行配備計画に抗議する緊急写真展

 

「石川・宮森小ジェット機事故を語り継ぐ」(主催、石川・宮森630会)が2012年9月24日から28日まで、宜野湾市役所1階ロビーで開かれた。

 オープニングセレモニーで同会の豊濱光輝会長は「軍用機がいつどこに落ちてもおかしくないのが沖縄の現実。遺族の悲劇に終わりはない。これ以上、犠牲を出さないよう、この宜野湾から9・9(県民大会)の決意を新たにしたい」とあいさつ。

 松川正則副市長は「市は沖国大の米軍ヘリ墜落を最後の警告と受け止め、普天間の早期閉鎖返還や、オスプレイの配備撤回に取り組んでいる。配備反対を発信する場を設けていただいたことに感謝したい」と述べた。同会は1959年6月30日に旧石川市で宮森小学校と付近住民ら計17人が犠牲になった米軍機墜落事故を後世へ伝えようと活動している。

 

 

豊濱会長(左)の説明を聞きながら、惨事を伝える写真などに目を通す宜野湾市の松川副市長(中央)=宜野湾市役所

 

☆ 忘れさせない「630」(13年6月28日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 「じぇじぇ!」の方言が話題のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」。主役の能年玲奈さんが起用の連絡を受けたのは、関係者によると、昨年7月の沖縄だった

 ▼撮影していたのは映画「ひまわり」。宮森小の米軍機墜落事故を描いた作品だ。基地従業員の娘として苦悩する大学生を沖縄のアクセントで好演した

 ▼公開から半年。観客は県内だけで2万人を超えた。最近は若い人の姿が目立つという。生まれた時から基地がある世代だが、不条理な沖縄の実態を知り、「歴史を学びたい」「何か行動したい」との感想が寄せられている

 ▼1959年6月30日に起きた惨事は18人の命を奪った。当事者や遺族の心の傷はあまりに深く、長い間口をつぐんできた。事故50年を機に発足した「宮森630会」が聴き取りを進め、証言集3冊にまとめた。半世紀たって重い口を開いた人もいる

 ▼若者たちは演劇や絵本を創作した。映画化もあり、風化させまいというバトンは着実に引き継がれている。能年さんもブログで「沖縄の悲しいもう一つの顔を皆さんと共に考えていけたら」とファンに呼び掛ける

 ▼当時遺体を家族に引き渡した元教員・豊浜光輝さんは、昨年の慰霊祭で「忘れたい。でも忘れてはいけない。忘れさせない」と声を詰まらせた。痛みの歴史をまず知ること、そして伝えていくことが、この島の未来を変える力になる。

 

☆ 沖縄 米軍機墜落事故54年で慰霊祭(13年6月30日配信『NHKニュース』)

 

アメリカ統治下の沖縄で、小学校にアメリカ軍の戦闘機が墜落して児童を含む18人が死亡した事故から54年となる30日、現場となったうるま市の小学校で、遺族などが参列して慰霊祭が行われました。

54年前の昭和34年6月30日、アメリカ軍嘉手納基地を飛び立った戦闘機が今のうるま市の宮森小学校に墜落し、児童を含む18人が犠牲になりました。

この事故から54年となる30日、宮森小学校で、遺族などおよそ350人が参列して慰霊祭が行われ、全員で黙とうをささげました。

そして、亡くなった一人一人の名前が刻まれたお地蔵様、「仲よし地蔵」に対して、献花と焼香が行われました。

このあと、事故の記憶を伝える活動を続けている団体の豊濱光輝会長が「事故は、沖縄戦の延長線上で起きたのではないか。子どもを犠牲にするような世の中であってはならない」とあいさつしました。

また、遺族を代表して、事故で母親を失った金城秀康さんは「整備不良の戦闘機をなぜ飛ばしたのか、今も怒りを覚えている。同じような事故が起きないように恒久平和を祈りたい」と述べました。

事故で、小学2年生の息子を失った喜納秀子さん(90)は「あのときのことは、きのう、きょうのことのように思い起こしてしまいます。2度と同じようなことは起きてほしくないし、体が動く限り、慰霊祭に参加します」と話していました。

 

☆ 息子の遺書「最後まで読めない」 宮森小事故きょう54年(13年6月30日配信『琉球新報』)

 

 小学生(後遺症を含む)や住民ら18人が死亡した、1959年6月30日の宮森小米軍ジェット機墜落事故から30日で54年。この事故で負った大やけどの後遺症で亡くなった新垣晃さん=享年22=は母ハルさん(84)に「お母さんが心配」と書いた遺書を残していた。ハルさんは「全部読むと生きていけない」と燃やしてしまうほど、一人息子を失った母の悲しみは深かったことを27日に明かした。その悲しみは「米軍機が住宅地上空を飛行し続ける限り癒やされない」と語った。

 同じ苦しみを誰にも受けさせたくないと、日々、晃さんの遺影に手を合わせ「オスプレイも落ちるかもしれない。晃、事故が起きないように見守ってちょうだい」と祈っている。晃さんの死を思い出すことはつらく、遺書のことは触れられずにいたが、晃さんの「生きた軌跡を残したい」との思いが強まっているという。

 晃さんが母への思いを9枚の便せんに託した遺書は、晃さんの机の引き出しの中にあった。「母上様へ」と題し「お母さんが心配。他に兄弟がいたら心配しないが、お母さんがどうなるか分からない、ごめん」と記されていた。自身が死んだ後の母の身を案じる気持ちが何枚もつづられていたという。

 晃さんは、大学2年生の時、事故で負ったやけどの後遺症で汗腺が機能せず、内臓をむしばまれていた。

 わらにもすがる気持ちのハルさんは、拝みで病を治す人がいると聞き、那覇に依頼へ出掛けた。帰宅すると、晃さんは静かに息を引き取っていた。

 みとることができなかったハルさんにとって、遺書は晃さんが残した最後の言葉だったが、全て読めなかった。「最後まで読んだら、晃のいないこの世で生きていく自信がない」。息子がいない現実に押しつぶされないために、便せんを香炉の灰にしてしまった。時が過ぎ「今なら読めたかもしれない」と後悔をにじませた。

 事故から54年がたっても晃さんを思い出す度に涙を抑えきれない。「母親が子どもに先立たれるのは生きた心地ではないよ。思い出したくないけど、私が元気でいるうちは話すことが使命だと思っているから」。事故を風化させないため、亡き息子のことを語る意を強くしている。

 

 

これ考えた人「天才…!」 小学校のコロナ看板が面白いと反響(2020年5月19日配信『沖縄タイムス』)

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宮森小が設置した看板=12日、うるま市石川

 

 沖縄県のうるま市立宮森小学校(新垣桂校長)が児童向けに設置した看板が話題だ。「5+6+7=18」の計算式に「コロナはイヤ」と振り仮名が振られ、新型コロナウイルス対策を呼び掛けている。奇抜な発想にツイッターでは「天才…!」とのコメントと共に写真をアップする人も。同校は「子どもたちには楽しく感染防止対策をしてほしい」と話す。

 同校は、休校期間中の子どもたちに新型コロナへの注意喚起をしようと、4月下旬から教員らが製作した看板を学校周辺に設置している。内容は「世界を救おうわが家から」など6種類あり、健康で前向きに休校期間を過ごしてほしいとの願いを込めた。

 「5+6+7」の語呂合わせは地域住民や保護者からも「面白い」と反響が大きいという。市内では21日に小中学校が再開する予定だ。新垣校長は「元気な子どもたちに、また会えるのを楽しみにしている」と話した。

 

 

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