降伏文書ひらがな文=⇒降伏文書調印に関する詔書

 

主権回復の日

                                                                  

論説・コラム

 

説明: 説明: 説明: 降伏2

 

 

東京湾上の戦艦ミズーリ号艦上(45年9月2日)

 

説明: 説明: 説明: 降伏

 

東京湾上の戦艦ミズーリ号

 

艦名はミズーリ州に因んで命名された。その名を持つ艦としては4隻目。当時のトルーマン大統領の出身州に因んで同艦が降伏文書調印席の艦に選ばれた。

1999年からは、ハワイ州パー ルハーバーで記念艦として保存されている。

 

調印式の間、東京湾上空を編隊飛行する米軍機

 

 

 

 

調印するマッカーサーと重光

 

 

 

 

1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の米・戦艦ミズーリ(真珠湾攻撃の犠牲者の象徴である「アリゾナ記念館」の横に退役した戦艦ミズーリが係留され、「戦艦ミズーリ博物館」となっている)において、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサーが「降伏文書」に署名を行い、これによって日本の降伏が法的に確定した。

 

なお、軍隊が敵との戦闘行為を停止した上で、敵の支配(権力)下に入ること、つまり、戦いに負けて(抵抗をやめて)、敵に服従することを意味する降伏は、「無条件」または「条件付き」で行われる。

 

日本の場合は、ポツダム宣言を無条件で受諾することで行われたが、これは、交戦国軍隊全体に関する全面的休戦を意味した。

 

降伏にはこのほか、降伏する軍隊と敵軍の指揮官の間で敵支配下に置かれる兵員や武器・地域などの条件を決める「降伏規約」の締結があるが、この場合は、当該指揮官の権限に属する軍事的事項に限られる。それゆえ、敵の占領する地域の主権を敵に移譲するといった政治的事項の決定はできないとされている。

 

 

(千九百四十五年九月二日東京湾上ニ於テ署名)

 

 下名ハ茲ニ合衆国、中華民国及「グレート、ブリテン」国ノ政府ノ首班ガ千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ発シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ガ参加シタル宣言ノ条項ヲ日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営ノ命ニ依リ且之ニ代リ受諾ス右四国ハ以下之ヲ連合国ト称ス

 下名ハ茲ニ日本帝国大本営並ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ連合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告ス

 下名ハ茲ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国臣民ニ対シ敵対行為ヲ直ニ終止スルコト、一切ノ船舶、航空機並ニ軍用及非軍用財産ヲ保存シ之ガ毀損ヲ防止スルコト及連合国最高司令官又ハ其ノ指示ニ基キ日本国政府ノ諸機関ノ課スベキ一切ノ要求ニ応ズルコトヲ命ズ

 下名ハ茲ニ日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無条件ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ発スルコトヲ命ズ

 下名ハ茲ニ一切ノ官庁、陸軍及海軍ノ職員ニ対シ連合国最高司令官ガ本降伏実施ノ為適当ナリト認メテ自ラ発シ又ハ其ノ委任ニ基キ発セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スルコトヲ命ジ並ニ右職員ガ連合国最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任ニ基キ特ニ任務ヲ解カレザル限リ各自ノ地位ニ留リ且引続キ各自ノ非戦闘的任務ヲ行フコトヲ命ズ

 下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スル為連合国最高司令官又ハ其ノ他特定ノ連合国代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本国政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス

 下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ連合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ

 天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル連合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス

 千九百四十五年九月二日「アイ、タイム」午前九時四分日本国東京湾上ニ於テ署名ス

    大日本帝国天皇陛下及日本国政府ノ命ニ依リ且其ノ名ニ於テ

                          重光葵

    日本帝国大本営ノ命ニ依リ且其ノ名ニ於テ

                          梅津美治郎

 千九百四十五年九月二日「アイ、タイム」午前九時八分日本国東京湾上ニ於テ合衆国、中華民国、連合王国及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ為ニ並ニ日本国ト戦争状態ニ在ル他ノ連合諸国家ノ利益ノ為ニ受諾ス

    連合国最高司令官              ダグラス、マツクァーサー

    合衆国代表者                シー、ダブリュー、ニミッツ

    中華民国代表者               徐永昌

    連合王国代表者               ブルース、フレーザー

    「ソヴィエト」社会主義共和国連邦代表者   カー、デレヴヤンコ

    「オーストラリア」連邦代表者        ティー、エー、ブレーミー

    「カナダ」代表者              エル、ムーア、コスグレーヴ

    「フランス」国代表者            ル、クレール

    「オランダ」国代表者            セイ、エイ、ヘルフリッチ

    「ニュー、ジーランド」代表者        エル、エム、イシット

 

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(ひらがな文)

(1945年9月2日東京湾上に於て署名)

 

 下名は茲に合衆国、中華民国及「グレート、ブリテン」国の政府の首班が1945年7月26日「ポツダム」に於て発し後に「ソヴィエト」社会主義共和国連邦が参加したる宣言の条項を日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営の命に依り且之に代り受諾す 右4国は以下之を連合国と称す

 下名は茲に日本帝国大本営並に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す

 下名は茲に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国臣民に対し敵対行為を直に終止すること、一切の船舶、航空機並に軍用及非軍用財産を保存し之が毀損を防止すること及連合国最高司令官又は其の指示に基き日本国政府の諸機関の課すべき一切の要求に応ずることを命ず

 下名は茲に日本帝国大本営が何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し自身及其の支配下に在る一切の軍隊が無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命ず

 下名は茲に一切の官庁、陸軍及海軍の職員に対し連合国最高司令官が本降伏実施の為適当なりと認めて自ら発し又は其の委任に基き発せしむる一切の布告、命令及指示を遵守し且之を施行することを命じ並に右職員が連合国最高司令官に依り又は其の委任に基き特に任務を解かれざる限り各自の地位に留り且引続き各自の非戦闘的任務を行ふことを命ず

 下名は茲に「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行すること並に右宣言を実施する為連合国最高司令官又は其の他特定の連合国代表者が要求することあるべき一切の命令を発し且斯る一切の措置を執ることを天皇、日本国政府及其の後継者の為に約す

 下名は茲に日本帝国政府及日本帝国大本営に対し現に日本国の支配下に在る一切の連合国俘虜及被抑留者を直に解放すること並に其の保護、手当、給養及指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず

 天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす

 1945年9月2日「アイ、タイム」午前9時4分日本国東京湾上に於て署名す

    大日本帝国天皇陛下及日本国政府の命に依り且其の名に於て

                          重光葵

    日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て

                          梅津美治郎

 1945年9月2日「アイ、タイム」午前9時8分日本国東京湾上に於て合衆国、中華民国、連合王国及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦の為に並に日本国と戦争状態に在る他の連合諸国家の利益の為に受諾す

    連合国最高司令官              ダグラス・マツクァーサー

    合衆国代表者                シー・ダブリュー・ニミッツ

    中華民国代表者               徐永昌

    連合王国代表者               ブルース・フレーザー

    「ソヴィエト」社会主義共和国連邦代表者   カー・デレヴヤンコ

    「オーストラリア」連邦代表者        ティー・エー・ブレーミー

    「カナダ」代表者              エル・ムーア・コスグレーヴ

    「フランス」国代表者            ル・クレール

    「オランダ」国代表者            セイ・エイ・ヘルフリッチ

    「ニュー・ジーランド」代表者        エル・エム・イシット

 

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ミズーリ号艦上の降伏調印式の日本側の参列者

重光葵(外務大臣)
梅津美治郎(陸軍大将・参謀総長)
岡崎勝男(終戦連絡中央事務局長官)
太田三郎(終戦連絡中央事務局第三部長)
加瀬俊一(内閣情報部第三部長)
宮崎周一(陸軍中将、大本営陸軍部第一部長)
富岡定俊(海軍少将、大本営海軍部第一部長)
永井八津次(陸軍少将、大本営陸軍参謀、前陸軍省軍務局軍務課長)
横山一郎(海軍少将、海軍省出仕)
杉田一次(陸軍大佐、大本営陸軍参謀、東久邇宮総理大臣秘書官)
柴勝男(海軍大佐、大本営海軍参謀(軍令部第一部)

 

 

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「終戦」はいつか(2015年9月6日配信『熊本日日新聞』−「射程」)

 

 第2次大戦が終わったのは、いつか−。そんな問い掛けをしたら、多くの人が「1945(昭和20)年8月15日」と答えるだろう。

 この日は、昭和天皇の「玉音放送」とともに記憶され、毎年全国戦没者追悼式が営まれる。お盆とも重なり、国民の間に「終戦の日」として定着している。

 ところが、国際的に見ると、米国など連合国側の終結の日は日本が降伏文書に調印した9月2日。一方、中国は翌日の9月3日を抗日戦争勝利記念日と定め、習近平指導部は70周年のことし、大規模な記念の軍事パレードを行った。

 戦勝国と敗戦国の受け止めの違いとも言えるかもしれないが、この“ずれ”が歴史認識問題や日本外交に影響を与えていないだろうか。

 戦後60年に合わせ『八月十五日の神話』を世に問うた佐藤卓己京都大教授(メディア論)は昨年12月、新たな論考を加えた増補版(ちくま学芸文庫)を出した。「終戦記念日の再検討こそ『戦争を知らない世代』が今すぐに取り組むべき未来への課題と考えたから」だという。

 同書の中で、佐藤氏は8月15日を「戦没者を追悼する日」と位置付け、別に9月2日を「平和を祈念する日」として新設するよう提唱している。

 「終戦=8月15日」の論理によって戦没者の慰霊に重心が置かれ、戦争の加害責任や植民地支配、侵略といった負の歴史に目が向かなかったのではないか。その日を境に戦前の日本がリセットされたかのように思い込んでこなかったか−。そんな問いを突き付ける。

 軍事大国化を進める中国や、歴史認識問題で中国と協調する韓国とどう向き合うか。隣国との関係改善には、自国の論理にとらわれずに国際的な視点も必要だろう。戦後70年、自戒も込めて佐藤氏の提言に耳を傾けてみたい。

 

重光の署名(2015年9月3日配信『山口新聞』−「四季風」)

 

外務省の外交史料館が約20年ぶりに「降伏文書」の原本を公開した。インクはかすれ気味だったが、全権の「重光葵(まもる)」の署名は気概があった

▼降伏文書は1945年9月2日、東京湾上の米艦ミズーリ号であった連合国との調印式の場で、政府代表の重光外相が大本営代表の梅津美治郎参謀総長と共に署名した

▼その前日、重光は部下で開戦時の在米大使館書記官の寺崎英成に手紙を送っている。全権署名という誰もが嫌がる不名誉な役割を引き受け、これからの日本の再建に資するとの強い責任感、決意を示した

▼署名に臨む際は「願わくは 御国の末の栄え行き 我が名さげすむ人の多きを」の歌を書き残した。日本が将来繁栄して、降伏文書に署名した自分をさげすむ人が多くなることを願うと、身命を賭した覚悟に感銘を覚える

▼それから70年。戦後「平和主義」を国是に再興したことを考えると、重光の署名は日本が生まれ変わる礎になったと理解できる

▼さて、翻って現代を見ると、防衛政策の転換期を迎えたと主張する政府に対し、若い世代を中心に「反対」の声が上がり不安定さが増している。国民の安泰、国の発展を願った重光の心情を、いまこそ見つめ直したい。

 

VJデー(2015年9月3日配信『しんぶん赤旗』−「潮流」)

 

東京湾を圧するかのように無数の軍艦が列をなした1945年9月2日。米戦艦ミズーリに乗り込んだ日本の全権団はポツダム宣言を受諾する降伏文書を交わしました

▼日本が正式に降伏したVJデー(対日戦勝記念日)。この日を第2次世界大戦終結の節目とする国は多い。日本に侵略された中国も翌3日を抗日戦争勝利記念とし、今年から祝日としました

▼きょう中国政府は「抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年」と題した行事を開きます。式典には国連の潘基文事務総長が出席しますが、会談した大島理森衆院議長は日本の政府や国民が懸念していると伝えました

▼国連の中立性を問題にしているようですが、それを懸念する国民がどれほどいるのか。潘事務総長は「過去の教訓を学び、どのように未来に応用できるか学ぼうとしている」と、他の戦後式典や広島に国連の幹部を派遣したことをあげ、特別ではないと強調しています

▼30カ国の首脳も参加し、米国も国連事務総長の出席について「戦争の犠牲者を敬うことは適切」だと。式典とともに開く軍事パレードは不要ですが、「先の大戦への深い悔悟の念」(安倍談話)を誓うなら、どうしてこうした催しに背を向けるのか

▼ドイツは節目の今年、改めて過去の過ちを認め、関連する式典でナチスの蛮行にたいする明確な謝罪と責任を口にしています。アジアの人びとを苦しめた反省もせず、戦後の立脚点さえ定まらない政治の無軌道ぶりは、国民や世界を不幸にするだけです。

 

 

降伏の日(2015年9月2日配信『北海道新聞』−「卓上四季」)

 

つえをつき山高帽をかぶった重光葵(まもる)外相が、米戦艦ミズーリ号の甲板にたたずむ―。子どものころ教科書で見慣れた写真だが、最近はあまりお目にかかれない。70年前のきょう、日本が降伏文書に調印した時の光景である

▼米国や英国、フランスなど世界の多くの国々は、9月2日を第2次世界大戦の終結日にしている。日本では終戦記念日の8月15日が戦争が終わった日と思っている人が多い。実際、小中学校の教科書の多くは15日と記述している

▼メディア史が専門の佐藤卓己さんの見立てはこうだ。<その日を革命日と思いたい進歩派と、降伏の現実を否認したい保守派の心理が一致した>(「八月十五日の神話」)。妥協の産物というわけである

▼記念日はあるが、終結日が確定したとも言い難い。8月14日や、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日を唱える学者もいる。何をもって戦争が終わったのか。責任問題も絡むだけに決着は難しいのだろう

▼地域にはさまざまな終戦の節目がある。米軍が初めて沖縄に上陸した北谷(ちゃたん)町は、町民が古里に戻るのを許された46年10月22日を「平和の日」にしている▼惨禍を思い起こす記憶再生装置の役割も期待しているらしい。もし、始めまで巻き戻せるとしたら、戦争に至った経緯に突き当たる。そこに何があったのか。政権が世論をよそに突き進むご時世だからこそ、気になる。

 

戦後70年に 9月2日の意味 敗戦と向き合ってこそ(2015年9月2日配信『信濃毎日新聞』−「社説」)

 

 先の大戦が終わったのは1945年8月15日と考える人が多いのではないか。

 「終戦記念日」として一般に定着し、政府主催の全国戦没者追悼式も開かれている。

 しかし、戦争がいつ終結したかについては議論がある。

 日本に降伏を勧告するポツダム宣言の受諾を決め、連合国側に通告したのは8月14日。15日は昭和天皇がラジオ放送で宣言受諾を国民に伝えた日だ。

   <今も根強い屈辱感>

 そして、東京湾の米戦艦ミズーリ号で日本が降伏文書に調印したのが70年前の今日である。

 日本では玉音放送が流れた日は大切にされても、敗戦を正式に受け入れた9月2日は重くみられてこなかった。

 なぜか。政治学者で京都精華大専任講師の白井聡さんは「敗戦を終戦と置き換えたように、日本の指導層の中に敗戦の屈辱を否認する意識がある」とする。

 2年前に出した著書「永続敗戦論」で「米国に対しては敗戦によって成立した従属構造を際限なく認めることによりそれを永続化させる一方で、その代償行為として中国をはじめとするアジアに対しては敗北の事実を絶対に認めようとしない」と記した。

 「敗戦の否認」と「対米従属」が戦後日本を語る上で重い意味を持つというのだ。

 安倍晋三首相はこの二つに関してよく当てはまる。

 先月14日の戦後70年談話は「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「心からのおわび」の四つのキーワードを全て入れた。

 が、主語を曖昧にし、侵略や植民地支配は二度としてはならないものなどとした。日本が繰り返し反省とおわびを表明してきたことを説明し、「歴代内閣の立場は今後も揺るぎない」と訴えた。

 日本がアジアの国々に侵略と植民地支配を行ったことを明確にした上で、反省とおわびを率直に語った戦後50年の村山首相談話などとは形式も中身も異なる。

 首相自身の歴史との向き合い方をぼやかしたのだ。談話の冒頭で「歴史の教訓の中から未来への知恵を学ばなければならない」と強調したのは首相である。

 国会で以前、「侵略の定義は定まっていない」などとも述べている。戦争の教訓を本気で学ぶ気があるのか、疑問がわく。

   <際立つ対米追従>

 安倍首相は対米追従姿勢でも際立っている。

 自衛隊が地球規模で米軍に協力できるようになる安全保障関連法案は典型的だ。首相は今年春、法案が国会に出ていない段階で米議会で演説し、夏までに成立させると約束した。日本の民意よりも対米公約を優先している。

 沖縄の基地問題も同じだ。米軍普天間飛行場の辺野古移設は地元が強く反対しているのに、米の意向に沿う格好で進む。

 敗戦後、日本を占領した米国は非軍事化を推し進めた。ところが東西冷戦の激化で政策を転換。日本の再軍備を急ぎ、自衛隊が創設された経緯がある。

 戦後70年にわたる日米関係を振り返ると、自国の利益を最優先にする米国の要求の前で日本の指導者は右往左往してきた。一方で憲法9条を意識し、軍事路線に走りすぎぬよう抑制的に努めてきたのも事実である。

 この点で安倍首相は異なる。かねて「戦後レジーム(体制)からの脱却」を悲願としてきた。素直に考えるなら対米追従姿勢の見直しに向かうのが自然なはずだ。けれど、現実はそうではない。安全保障面を中心に対等な関係を志向しながら米の要求を次々にのむ悪循環が生まれている。

 日本政府は敗戦直後、戦争責任などを総括するために「戦争調査会」を設けた。戦勝国の意向で結果的に廃止を余儀なくされている。その後の東京裁判で戦争指導者が裁かれ、侵略行為が認定された。サンフランシスコ平和条約で日本は裁判結果を受け入れ、1952年に主権を回復した。

 安倍首相は2年前、国会で戦争の総括を求められた際、東京裁判について「勝者の断罪」と否定的な考えを示した。戦後、日本は先の戦争の原因や経緯を総括する機会があったはずなのに、怠ってきた。そうした政治の無責任さが、首相の独り善がりを許す結果を招いているのではないか。

   <歴史を問い直す>

 白井さんは、安倍首相がこだわる政治課題が民意と関係なくまかり通っていくことに危機感を抱く。「先の戦争の反省から日本は生まれ変わったというのは間違いで、日本はもう一度生まれ変わらねばならない」と訴える。

 政治家も国民も9月2日に向き合うことが欠かせない。先の戦争をきちんと総括し、よって立つべき歴史観をつくる必要がある。遅きに失した感はあるが、避けては通れない課題である。

 

「日本は東西の架け橋となる」(2015年9月2日配信『信濃毎日新聞』−「斜面」)

 

この時季には珍しく波は穏やかで朝日もさしてきた。米戦艦ミズーリ号甲板に立った時、夏の名残の富士山が東京湾上にそびえて見えた。重光葵(まもる)は降伏文書に調印した1945年9月2日をそう記している

   ◆

当時の外相で全権を務めた。著書「昭和の動乱」によれば、日本の指導層は戦争終結と降伏の責任を負うこと、仕事に関わることを極力避けていたという。かねて終戦を待ち望み、尽力してきた重光は「降伏が日本の将来を生かす道」と祈りつつ調印した

   ◆

調印後の波は穏やかではなかった。重光は占領の冷厳な現実を認めない政府の空気にいら立った。降伏を「休戦」に置き換えよと主張する軍出身の閣僚もいた。敗戦の自覚と反省こそ復興への道。そう繰り返し訴えざるを得なかった。無責任、無自覚の政治体質は後々まで尾を引く

   ◆

逸話に富んだ外交官人生だ。中国特命全権公使だった32年、上海事変の停戦に奔走。成立間近に爆弾事件に遭い重傷を負った。病床で協定に調印し、同席した中国関係者に「これが親善の出発点とならんことを」と伝えた。間もなく手術で右足を切断する

   ◆

56年12月、加盟が承認された国連総会。受諾演説に立った重光は憲法前文の平和主義を掲げて核軍縮を訴え「日本は東西の架け橋となる」と結んだ。会場は拍手で包まれた。狭心症で69歳の人生を閉じるのは、その1カ月後のことである。

 

「降伏文書」原本を公開 外交史料館、20年ぶり(2015年8月31日配信『共同通信』)

 

外交史料館で9月12日まで公開される「降伏文書」の原本

  

外務省は31日、1945年9月2日に日本と連合国が米戦艦ミズーリ上で調印した「降伏文書」の原本を東京・麻布台の外交史料館で公開した。複製は常設展示しているが原本の一般公開は約20年ぶり。

 同時に、連合国から日本政府に出された「指令第一号」の原本も初めて公開された。日本軍の戦闘停止や武装解除の手続きなど、軍事関連の規定が記載されている。いずれも9月12日まで。

 降伏文書は英文で「日本軍の連合国に対する無条件降伏を布告する」「天皇および日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれる」などと記されている。

 

降伏文書原本を公開 外交史料館、20年ぶり(2015年8月31日配信『産経新聞』)

 

降伏文書調印とともに連合国から日本政府に手交された最初の指令には、日本の陸海軍に対する命令の第

一号(一般命令第一号)を遵守させるべしとの主旨が示された。

添付された一般命令第一号では、対日占領の前提となる日本軍の戦闘停止と武装解除の手続き、軍事施設、捕虜・抑留者に関する情報提供、外地日本軍の降伏相手先など、軍事「指令第一号」の項の細目が規定されていた。

本史料が一般公開されるのは初めてのこと

 

 外務省は31日、1945年9月2日に日本と連合国が米戦艦ミズーリ上で調印した「降伏文書」の原本を東京・麻布台の外交史料館で公開した。複製は常設展示しているが原本の一般公開は約20年ぶり。

 同時に、連合国から日本政府に出された「指令第一号」の原本も初めて公開された。日本軍の戦闘停止や武装解除の手続きなど、軍事関連の規定が記載されている。いずれも9月12日まで。

 降伏文書は英文で「日本軍の連合国に対する無条件降伏を布告する」「天皇および日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれる」などと記されている。この文書調印により、日本のポツダム宣言受諾と連合国による日本占領が正式決定した。

 日本全権代表の重光葵外相らと、連合国側のマッカーサー最高司令官と9カ国代表の署名があり、カナダ代表が署名する欄を間違えたため、1カ所が空欄となっている。

 

重光葵(2015年8月31日配信『下野新聞』−「雷鳴抄」)

 

 誰でも晴れがましい席はうれしいものだが、その逆は抵抗がある。まして近代以降、初の負け戦で降伏文書に調印するとなるとことさらだ

▼それを潔く承諾したのが戦争終結に奔走した外交官で政治家の重光葵(しげみつまもる)である。ポツダム宣言を受諾した日本は1945年9月2日、東京湾の米戦艦ミズーリ号上で連合国側と降伏文書に調印。東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の外相、重光は政府代表として署名した

▼東京への空襲で家を失った重光は日光の諸戸別荘に家族と疎開していた。日本コロムビアの前身、日本蓄音器商会を創設した米国人ホーンが明治後期に建てた別荘で、77年から日光総業がレストラン「明治の館」として営業している

▼メーンダイニングには日光を去る時に残した二つの書が大切に飾ってある。李白(りはく)の詩の一節「三杯通大道一斗合自然」(酒を3杯飲めば大道に通じ1斗飲めば自然と一体になる)と「山は雪里は錦紅葉かな 向陽(雅号)」の句だ

▼「戦争に負けても自然は変わらないことと秋の日光の美しさを詠んだ」と総支配人の和智士朗(わちしろう)さん(53)。戦後の歩みに大きな役割を果たした人物が滞在したことは誇りだという

56年の国連加盟で重光は「武力以外の力で世界に貢献していく意志がある」と演説した。戦後一貫して実践してきた日本。今こそ重光の言葉をかみしめたい。

 

降伏調印(13年9月3日配信『北国新聞』―「時鐘」)

 太平洋戦争が終わったのは1945(昭和20)年8月15日でなく、9月2日だった。正式な降伏調印が行われた日である。その間も旧満州では戦争が続いた

「あの戦争は何だったのか」(保阪正康著・新潮新書)の中に、ソ連側の見解(けんかい)が紹介されている。「日本が降伏文書に署名(しょめい)した日が戦争の終わりであり、それまでは戦争状態(じょうたい)だった」

しかし、2日以降も「シベリア抑留」という名の戦争が続いた。北國文華(ほっこくぶんか)・秋号(あきごう)「わがソビエト抑留回想」を読んだ。仲間より先に帰国できた荒川義清(あらかわよしきよ)さんが、帰還の遅れた戦友の実家を訪ねていく場面がある

「どうしてあんたさんだけ先に還(かえ)ったんよ?」「そんなダラなことあってええですかね」。母親は息子の消息を伝えてくれた仲間を責(せ)める。戦死者も抑留者も家族もみな戦争犠牲者だが、最も憎むべき「権力」ではなく、目の前にいる自分より犠牲が少なく見える者を憎むのである

これは伝聞でも創作)でもない。地方史と世界史を結ぶ「戦争」の実録だ。その著者と戦後世代が今、同じ時代に生きている。読んでほしい、残したいと心底)思う文学だ。

 

降伏調印の日(13年9月2日配信『北海総新聞』―「卓上四季」)

 

先月中旬、あるテレビ番組が街角の人々に「終戦記念日は何日?」と聞いていた。何と、3割程度の人が「8月15日」を答えられなかった。中学生向けの別の番組でもほぼ同じ結果。これには正直、驚いた

▼だったら、きょう9月2日が「降伏文書調印の日」と知っている人はもっと少ないのだろう。東京湾の米国戦艦「ミズーリ号」上が舞台だった。連合国の多くは「VJ(ビクトリー・オーバー・ジャパン)デー」と呼んで祝っている

▼降伏調印の日はほかにもある。この日以降、海外駐屯の日本軍が連合国現地軍と次々に調印したからだ。沖縄は9月7日に嘉手納で行われた。6月23日の「慰霊の日」ほどには知られていないが、県は「市民平和の日」に定めている

▼1980年版の「沖縄県の歴史」(山川出版社)は書いている。<沖縄県民には、8月15日がない。県民にあるのは、各人各様の敗戦の日…>。県民を襲った市街戦の激烈さは、気安く想像できるものではない

▼今年4月28日の「主権回復の日」式典を思い出そう。沖縄県民が示した反発は、こうした苦難の先に、さらに切り捨てられた怒りだった。あらためて思いをはせたい

▼無条件降伏とはどういうことか。調印直後のGHQの布告案には当初<公用語は英語、通貨は米軍票>というものまであったそうだ。戦後68年の平和を一人一人かみしめなければ。

 

玉音放送(13年9月2日配信『デイリー東北』―「天鐘」)

 

 例えばジョン・レノンの命日を問われれば、誰もが12月8日と答えるだろう。ただ、日本時間では12月9日の出来事だった。同様に、真珠湾攻撃の日は日本では12月8日だが、現地米国では12月7日だ。時差が生み出す、微妙な常識のずれである

▼では、太平洋戦争が終わった日はどうか。日本では玉音放送が流れた8月15日と言う人が多いはず。しかし世界的には日本が「降伏文書」に調印した日とする国が少なくない。1945年のきょう9月2日である

▼この日、東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号の甲板において、日本と戦勝9カ国との間で調印式が行われた。日本政府の全権は重光葵が、日本軍の全権は梅津美治郎が務めている

▼それから68年がすぎている。だが、さまざまな歴史的認識が関係諸国と食い違い、外交問題に発展することも。戦争の総括の難しさを思う

▼ロックスターの命日でも、物理的距離が遠いだけで複数の日付が残る。まして戦争という複雑で世界規模の悲劇では、立場や慣習の違いも影響するはずだ。常識のずれが拡大するのは避けられないのかもしれない

▼戦争の常識は各国で異なる。無理やり一つに修正しようとすればこじれるばかりなのだろう。互いの認識の「ずれ」を事実として見つめることから始められないか。日本人にとって8月15日は特別な日だ。一方、9月2日に調印式があった事実も記憶にとどめたい。終戦を考えるもう一つの日として。

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