本土初空襲(ドゥ〈−〉リットル空襲)

 

極秘の奇襲計画・本土初空襲から70年 爆心地の記憶 風化させぬ

                                                                  

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「空母ホーネット」から出撃するドゥリットル中佐が乗った「B−25」

 

ヨークタウン(初代)型 航空母艦「ホーネト」

 

1942年10月26日にソロモン海域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦である南太平洋海戦(アメリカ軍側の呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦)で日本海軍に撃沈された「空母ホーネット」。日本機の攻撃を受け大破、航行不能となり放棄され、同日深夜、日本駆逐艦「巻雲」と「秋雲」の魚雷攻撃で沈没。この海戦で「エンタープライズ」も大破したため、太平洋におけるアメリカ軍の稼働空母数は一時的に0となり、アメリカ軍側をして「史上最悪の海軍記念日」と言わしめた。10月27日夜、大本営海軍部は「米空母4隻、戦艦1隻、艦型不詳1隻いずれも撃沈。敵機200機以上を喪失せしむ。わが方の損害は空母2隻、巡洋艦1隻小破せるも、戦闘航海に支障なし。未帰還機40機、本海戦を「南太平洋海戦と呼称す」と大勝利を宣伝した。

 

 

1941(昭和16)年12月8日未明の日本軍による真珠湾奇襲攻撃以来、敗北続きのアメリカ軍部は、国独立以来、アメリカ本土での戦争経験がない(南北戦争は内戦)米国民の戦意高揚を目的に、早い時期における日本の首都東京空襲戦略を企画した。

 

42(昭和17)年の年明けから戦術化された東京空襲戦略は、アメリカ合衆国のノースアメリカン社North American Aviation, Inc。後年名機といわれた戦闘機P−51〈ムスタング=「駿馬」〉をイギリスから発注依頼を受けて開発〉。なお、同社は1996年にボーイング社に売却される)によって開発・製造された航続距離の長い陸軍の双発中型爆撃機である「B−25」Mitchell〈ミッチェル〉=アメリカ陸軍の将校ウィリアム・ミッチェル准将にちなむ。なお、アメリカの軍用機のうち個人名が愛称として採用されたのはこの機だけ)を空母ホーネットに搭載、日本本土の哨戒(しょうかい=敵の襲撃を警戒して、軍艦や飛行機で見張りをすること)線間際の900キロ地点から空母から発進させ、東京を夜間空襲し、約2,000キロ離れた中国大陸東部へ着陸させる計画であった。

 

攻撃指揮をとるジェームズ・ハロルド・ドゥリットルJames Harold Doolittle。1896〜1993。のちシェル石油副社長)中佐(攻撃成功後2階級特進で准将となる)をはじめ隊員たちは、わずか1カ月の猛訓練の後の42年4月2日、B−25爆撃機16機を搭載した空母ホーネットでサンフランシスコ湾を出港する。

 

  

 

そのホーネットは、4月13日に北太平洋上でハルゼー中将率いる第16機動部隊と合流、一路東京をめざした。

 

元来、4月18日夜間攻撃だった米軍の計画は、同日朝、米・機動部隊が太平洋沿岸で日本の哨戒船に発見されたため、急きょ計画を変更、攻撃時間を10時間早め、東京から1,200キロ、着陸地点中国大陸までの航続限界地点からB−25を発進させた。

 

米軍による日本本土、しかも、日本軍隊の最高指揮官天皇統帥権は天皇に属した=明治憲法第4条が住む首都初空襲が決行された18日の東京では、早朝から大規模な防空訓練が行われていた。その最中の午後0時10分、「B−25」は焼夷弾を投下した。爆弾が投下され、住宅が炎上して、高射砲が撃ちあげられても本物の空襲だと気づかない人が多かった。それもそのはず、空襲警報が出されたのは、その15分後の0時25分だったのである。

 

勝利に次ぐ勝利という戦果を上げていた日本の軍部は、空母が爆撃機を搭載して日本本土を攻撃してくるとの思考を持ち合わせていなかったため、哨戒船から、米・機動部隊発見の報を受けていたが、空襲があるとしても翌朝と判断した。完全な読み違である。まさに米軍の奇襲攻撃の成功を意味した。

 

ドゥリットル隊16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃した。この空襲で東京では死者39人(5都市で50人)、家屋損害262戸などの被害をだした。奇襲に成功したドゥリットル隊は、ほとんど日本軍の反撃を受けることなく(当然損失もなく)、予定通り中国大陸に着陸する。

 

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だが、首都防衛にあたる東部軍司令部は、空襲直後、「敵9機を撃墜、我方の損害は軽微なる模様」と発表した。真実を国民に知らせないばかりか、戦果を誇大する大本営発表(虚偽の発表)ある。

 

本土初空襲で国民の動揺を怖れた政府・軍部は、「空襲何ら恐るべきでない、」「焼夷弾恐れるに足らず」と盛んに宣伝、軍部に無批判的に追従(盲従)した新聞も、たとえば1942(昭和17)年4月19日付『朝日新聞』朝刊は、初空襲に1億沸(たぎ)る闘魂 敵機は燃え、墜ち退散 “必消”の民防空に凱歌(がいか)バケツ、火叩きの殊勲 我家をまもる女手 街々に健気(けなげ)な隣組群鬼畜の敵、校庭を掃射(そうしゃ) 避難中の学童1名は死亡の見出しで、また同日付同紙夕刊は、「きょう帝都に敵機来襲 9機を撃墜、わが損害軽微」との見出しで、以下のような報道した。

 

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【東部軍司令部発表(18日午後2時)

1、午後零時30分ごろ、敵機、数方向より京浜地方に来襲せるも、わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり。現在までに判明せる敵機撃墜数は9機にして、我が方の損害、軽微なる模様。皇室は御安泰でわたらせらる。

 

また、19日付『読売新聞』も、「国土防衛に士気極めて旺盛」「焼夷弾微力な2キロ」とか「病床蹴って隣家へ 手掴みで焼夷弾捨て」との見だしで報道した。

 

 

 

東京日日(現・毎日)新聞も同様で、19日付朝刊は「敵機来襲に国土防衛全し」「敵機が何だ・帝都は泰然」と、同日付夕刊は「京浜に敵機来襲 9機を撃墜撃退する 皇室御安泰に渡せらる」と、さらに22日付夕刊は18日の空襲激撃詳細として「陸鷲、遁走の米2機を急迫 千葉沖と大島(伊豆)附近で撃墜」と、そして28日付朝刊は「はずむ五百の爆音 我らは見たり鉄壁の帝都」と勇ましく報道した。

 

 

 

 

 

 

でっち上げの虚偽の報道は、その後も続く。

 

20日付朝日新聞は、「本土空襲米機の悪虐(あくぎゃく)非道(ひどう) 軍律に照し厳重処分 人道無視 死又は重罰」と、22日付同紙夕刊は、「かくて敵機を撃墜せり 千葉、大島沖で猛追撃」と、26日付朝刊は、「見よ残虐さらす 来襲米機」と靖国神社で公開された撃墜米機を写真入りで掲載し、国民を欺いたのである。

 

同様に読売新聞も「見よ空襲の米機残骸 靖国神社境内に醜態さらす」と報道、もとより東京日日(現・毎日)新聞も大同小異であった。

 

 

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この米機スクラップ、実は、中国の日本占領地区に不時着したものを本土に移送して展示した代物であった。

 

「うそがうそ生む」、大局を誤らせる構造である。

 

この東京初空襲成功は、アメリカ国民の戦争に対する士気を大いに鼓舞した反面、折から大政翼賛会による翼賛選挙(42年4月30日「第21回総選挙」)を推しすすめていた政府や陸・海軍当局は、いとも簡単に敵機の侵入を許してしまった日本の防衛体制の甘さに大衝撃を受けた。だがほとんどの国民には、報道規制で空襲の実情が知らせられなかったため、(爆撃を受けた人を除けば)空襲の影響は全くといってよいほどなかった(影響のしようがなかった)

 

しかし、空母からの本土攻撃を眼のあたりにした大本営は、空母を主体とする米艦隊制圧を主張していた海軍戦略のミッドウェー・アリューシャン作戦の決行を決断せざるを得なくなった。その結果のミッドウェー海戦の致命的な敗北である。

 

まさにドゥリットル空襲は、アメリカ軍による本格的な反攻の端緒として重要な戦略的意味を持つ、歴史の転換を促した戦略であったといえる。

 

そして、この年の翌々年の44(昭和19)年6月16日、北九州・八幡の初空襲、11月24日の東京空襲を皮切りに、B―29による本土無差別攻撃が開始され、広島・長崎への原爆投下に繋がるのである。

 

 

(2019年4月17日配信『南日本新聞』―「南風録」)

 

 1942年のきょう、東京は晴天だった。中学3年に進級したばかりだった作家の故吉村昭さんは、荒川区東日暮里の自宅で物干し台からたこを揚げていた。そこに突然、爆音を響かせて見慣れぬ双発機が現れる。

 たこの糸が絡みはしないかと慌てて糸を手繰るほどの低空飛行だったと「東京の戦争」(ちくま文庫)に記している。太平洋戦争で米軍が初めて日本本土を空爆した「ドゥーリトル空襲」である。

 太平洋上の空母を飛び立ったB25爆撃機16機が東京や名古屋などを急襲した。真珠湾攻撃への報復として計画され、戦果以上に米国民の士気を高める狙いが強かったとされる。

 この作戦で隊長機の副操縦士だったリチャード・コールさんが先週、103歳で死去した。攻撃隊に参加した米兵80人の最後の生存者だった。任務とはいえ、敵国の上空を飛ぶ側も決死の覚悟だったろう。

 その後も東日暮里に住んだ吉村少年は、やがて本格的な都市爆撃にさらされる。防空壕(ごう)の中に突っ伏して爆弾の迫る音におびえ、遺体を数多く目にした。悲惨さを強調せず淡々とつづられた吉村さんの体験は、戦争の不条理を浮き彫りにする。

 生き証人が消えていくのは避けられないが、残された証言から学ぶことはできる。爆弾を落とされる街にも、爆弾を落とす飛行機にも、瀬戸際に追い込まれた一人一人の命があったことを忘れてはなるまい。

 

リチャード・コールさん 太平洋戦争で米軍が日本本土を初めて空爆した「ドゥーリトル空襲」に参加した元米兵の最後の生存者(2019年4月11日配信『共同通信』)

  

 リチャード・コールさん(太平洋戦争で米軍が日本本土を初めて空爆した「ドゥーリトル空襲」に参加した元米兵の最後の生存者)AP通信などによると9日死去、103歳。

 15年、中西部オハイオ州生まれ。40年に陸軍航空部隊に入隊。41年12月、旧日本軍の真珠湾攻撃で戦端が開かれた太平洋戦争に従軍。42年4月、ドゥーリトル中佐(当時)が隊長を務めたB25爆撃機部隊による東京や名古屋、神戸などへの初めての空襲で、隊長機に副操縦士として搭乗した。 

 

葛飾の史実、詳細に 初めて本土襲う「ドーリットル空襲」 区内で特別展(2018年8月1日配信『東京新聞』)

 

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旧日本陸軍の資料やパネルで米軍本土初空襲の実態などを伝える特別展=葛飾区で

 

葛飾の「戦争の史実」を伝える特別展「葛飾と戦争」が、区郷土と天文の博物館(白鳥3)で開かれている。区内で少年1人が亡くなった米軍による初の日本本土空襲「ドーリットル空襲」を中心に、戦時下の暮らしや学童疎開の状況などを資料やパネルなど200点で紹介している。 

 「ドーリットル空襲」は太平洋戦争開戦から約半年後の1942年4月18日にあった。ドーリットル陸軍中佐が率いる爆撃機B25・16機が首都圏を中心に、名古屋、神戸などを襲った。87人が死亡し、約450人が負傷した。

 葛飾区周辺には五機が飛来。「三番機」が水元国民学校(現区立水元小学校)を機銃掃射し、金町駅などに爆弾を投下した。国民学校には機銃15発が打ち込まれ、下校途中で逃げ戻って来た高等科1年の石出巳之助さんが亡くなった。

 博物館によると、当時は旧日本陸軍がドーリットル空襲の被害を詳細に調査して防空体制を再整備したものの、正確な発表や報道はされなかった。一方で、国民の戦意高揚のために石出さんの死は大々的に取り上げられた。

 区は校舎の機銃の痕跡を「弾痕記」として保存しているが、弾痕は石出さんの命を奪った銃弾によるものとするなど、地元で「葛飾での戦争」について誤解して伝わっているケースもある。

 終戦から間もなく73年。戦争体験者も少なくなる中、博物館は「正確な戦争の歴史を知ってもらうことが大切」と特別展を企画した。ドーリットル空襲の実態や葛飾で10回を超える空襲があったことなどを、陸軍や区の資料などで詳細に伝えている。

 19日に記念講演会があり、防衛研究所戦史研究センター史料室の柴田武彦主任研究官が共著のあるドーリットル空襲について語る。受講料200円で定員100人。事前に往復はがきか、博物館ホームページから申し込む。七日必着。応募多数抽選。

 特別展は9月2日まで。入館は大人100円、小中学生50円。休館は月曜と第2、4火曜。問い合わせは同博物館=電03(3838)1101=へ。

 

 

本土初空襲を紙芝居で継ぐ 最初の爆弾落下 荒川の女性制作(2017年4月14日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

 

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紙芝居を見ながら尾久初空襲について話す(右から)三橋とらさん、堀川喜四雄さん、田村正彦さんら=12日、東京都荒川区で

 

太平洋戦争中の1942年4月18日、米軍機が初めて本土を襲った「ドーリットル空襲」の最初の爆弾は、東京都荒川区東尾久(おぐ)に落ちた。地元でも最近まで語られることがなかった「尾久初空襲」から75年の今年、荒川の30代の女性が数少なくなった体験者から話を聞き集め、紙芝居にした。 

 「東京大空襲のことは学校でさんざん勉強したのに、尾久初空襲は習った覚えがない。地元なのにどうして、と違和感があった」

 荒川で生まれ育った、紙芝居師の三橋とら(本名・優子)さん(33)が話す。きっかけは約二年前。87歳の祖父から「米軍機が飛ぶのを家のベランダから見た」と聞き、関心を持った。

 被害が公然と語られるようになったのは、ほんの10年ほど前。国民学校1年生で空襲を体験した元教員、田村正彦さん(81)が語り部の活動を始めた。軍部が空襲の事実を秘匿し、被災者は警察や学校から口をつぐむことを強制され、戦後も沈黙を続けていた。

 「苦しかったと思う。元気なうちに話を聞きたい」。三橋さんは田村さんを訪ね、警察官が残していた記録なども調べ、1年かけて紙芝居「尾久初空襲の記録〜語ることを禁じられた四・一八〜」を作り上げた。「事実を多くの人と共有したい」との思いがこもる。

 紙芝居では、同じ時間帯に起きた出来事を、複数の体験者がそれぞれの視点で語る。三橋さんの祖父は、家で昼食中にプロペラの音を聞いた。ベランダに出ると低空に飛行機が見えた。「演習かな?」。米軍機とは思いも寄らなかった。

 田村さんは突然「ドドーン」という大きな音とともに体を吹き飛ばされた。何が起きたのか分からずにいると、母親が「空襲だ」と頭にアルミ鍋をかぶらせた。後に大人たちから「このことは誰にも言ってはいけない。それが国を愛する人間の節度だ」と言われた。

 国民学校四年生だった堀川喜四雄さん(84)は、大きな音を聞いた直後、すさまじい炎で家が燃えだした。貯金箱と母親のハンドバッグを持って窓から飛び降りて逃げた。

 「…本土空襲を知って日本軍はたいへん慌てました。アメリカ空母を誘い出しミッドウェー海戦を決行。しかし失敗に終わり日本は戦争の主導権を失います…」。紙芝居は尾久初空襲が戦況の転換点となったことを説明した後、「戦争は二度とごめんだ。当時は言えなかった言葉をたくさんの人に聞いてもらいたい」との言葉で終わる。

 空襲があった18日を前に、田村さんや堀川さんは15日午後1時半から、荒川区立第七中学校で体験者の話を聞く公開授業を開く。問い合わせは、尾久初空襲を語り継ぐ会=電090(1853)2420=へ。

 

 <尾久初空襲> 1942年4月18日の米陸軍ドーリットル中佐率いるB25爆撃機16機による空襲では、首都圏のほか名古屋、大阪、神戸など全国で87人が死亡した。最初に爆弾が落とされた現在の荒川区の尾久橋付近では午後0時20分ごろ、爆弾3発と焼夷(しょうい)弾1発が住宅街を襲った。死亡10人、重軽傷48人、家屋の全焼全壊52戸とされる。

 

本土初空襲から70年 爆心地の記憶 風化させぬ(2012年4月16日配信『東京新聞』)

 

設置された本土初空襲の史跡説明板と田村さん(左から3人目)=東京都荒川区で

 

 「『恥ずべき事実』として口止めされました」。真珠湾攻撃と米国への宣戦布告から、わずか4カ月後の1942(昭和17)年4月にあった首都東京への初空襲。国民が勝利を疑わずに突き進む中、被害は伏せられた。東京都荒川区の田村正彦さん(76)も長く、胸にしまい込んでいた。爆心地の同区東尾久で生まれ育ち、今もそこに暮らす空襲体験者はたった一人。「日本人の歴史にとって大きな意味のある事件。忘れないでほしい」と訴える。 

 「よく晴れた土曜日の昼だった。学校から帰り、台所で水を飲もうとした瞬間、ごう音とともに爆風で3メートル吹っ飛ばされた」

 42年4月18日午後零時20分、小学1年になったばかりの田村さんは自宅にいた。「空襲だ!」と叫ぶ母に頭にアルミ鍋をかぶせられ、土煙の中でうずくまるしかなかった。空襲警報が鳴ったのは爆撃から8分ほどたってからだった。

 旧陸軍の記録などによると、東尾久に投下された爆弾は3発。1発目は田村さん宅北側の道路に落ちて地下の上下水道を破壊、直径10メートル、深さ5メートルの穴が開いた。2発目は田村さんの向かいの家を直撃、昼食中の一家6人が即死した。3発目は20メートル離れたたばこ屋の近くに落ち、直径10センチ、深さ5センチの穴ができた。

 民家が燃え盛る中、目と鼻の先を流れる隅田川は運悪く干潮で消火用水として使えず、水道も破壊されていた。近くの千葉製作所の貯水槽から住民がバケツリレーし、午後1時50分に鎮火した。

 「造言飛語を言う者は厳罰に処す」という当時の法律が子ども心に怖くて、初空襲の体験を60年余り、家族以外の誰にも話せなかった。友人の中には「爆弾跡を見に行く」と言って父親に叱られたり、教員に「見たことは誰にも話すな」と脅されたりした者もいた。「首都が爆撃され、初弾がこの尾久に落ちた。忘れたふりをするのが、節度ある地元民の態度だった」と田村さん。

 日本軍が攻撃した真珠湾はアメリカの離島だが、ほどなく米軍は日本の首都を空爆した。日本の劣勢は明らかだったが、「誰も冷静な判断ができず、振り上げた拳をおろせぬまま、東京大空襲、原爆投下までいってしまった」と振り返る。

 体験は死ぬまで口外しないつもりだった。心境が変わるきっかけは、2000年に爆心地で開かれた追悼集会。「よそから来た人があれほど一生懸命なのに、地元民が黙り続けてていいのか」。自問の末の決断だった。「いま自分が話さねば、事実は永遠に残らない」。その思いに突き動かされ、10年前から体験を語り続けている。

 太平洋戦争開戦からわずか4カ月後にあった「日本本土初空襲」の1弾目が投下された東京都荒川区内の爆心地に今月、区教育委員会が初めて説明板を設置した。初空襲から70年を迎えるのを機に重要な戦争の歴史を多くの人に知ってもらいたい、としている。

 戦時中、初空襲の事実は公表されたが、犠牲者が出たことは伏せられ、新聞でも「敵敗戦糊塗の政略空襲」「猛爆怖るゝに足らず」(都新聞)などと報道されていた。被災者は戦後も多くを語らず、初空襲の実態は広く知られていなかった。

 荒川区立荒川ふるさと文化館の野尻かおる館長は「これを機に情報が集まり、新たな事実が明らかになれば」と期待する。

 

<日本本土初空襲> 1942年4月18日、太平洋上の空母を出撃した米軍「ドーリットル戦隊」の16機の双発爆撃機B25が飛来し、初弾が現在の東京都荒川区西尾久8、9丁目に投下された。旧陸軍や警視庁の資料によると、午後0時20分ごろ、爆弾3発と焼夷(しょうい)弾70発以上が住宅街を直撃、10人が死亡、重軽傷者48人、全焼全壊家屋52戸、半壊半焼家屋14戸の被害を出した。本来の目標は、対岸の足立区にあった東京電力千住火力発電所と北区赤羽の陸軍造兵廠(しょう)だったとされる。

 

12年4月19日配信『東京新聞』−「筆洗」

 

爆音とともに迷彩を施した大型の双発機が超低空で近づいてきた。東京・日暮里の自宅の物干し台で、たこを揚げていた少年は慌てて糸を手繰った。胴体に星のマーク。風防の中にはオレンジ色のマフラーを巻いた2人の飛行士が見える。やがて空襲警報が鳴り響いた

▼米軍のドーリットル中佐率いるB25爆撃機16機のうちの1機だった。目撃した作家の故吉村昭さんは「ハワイ奇襲以来、日本軍は優勢に戦いを進め、連戦連勝が報じられていたので、私はそれが敵である米軍機などとは思いもしなかった」と著書『東京の戦争』で振り返っている

▼この本土初空襲があったのは、ちょうど70年前の4月18日。荒川区の尾久周辺には爆弾3発と焼夷弾(しょういだん)70発以上が落とされ、10人が死亡し、住宅52戸が全焼全壊した

▼日米開戦から約4カ月で、太平洋の米空母から、爆撃機が飛来したことに軍首脳は顔色を失った。米空母部隊を攻撃するために海軍はミッドウェー作戦を決断、その惨敗を機に戦況は悪化の一途をたどる

▼最初の爆弾が落とされた住宅街の保育園の前に今月、初めて説明板が設置された。その前に立っても被害を想像するのは難しい

▼本土初空襲は太平洋戦争の重大な転機となった。空襲は公表されたが、犠牲者が出たことは伏せられた。不都合な事実の隠蔽(いんぺい)は国を危うくすることは今も変わらない。

 

 

民 防 空

「軍防空」に対する言葉で、空襲に際して陸海軍以外が行う灯火官制、消防をいい(防空法)、警察・消防など民間防空従事者と隣組による訓練が主で、その基本的思想は、空襲があっても逃げないで、消火に当たることにあった。

そのため、『逃げるな!!消せ!』などのスローガンが町々に張り出せれ、以下のような精神論が盛んに宣伝された。しかし、B―29による米軍の大規模の攻撃には全く無力でしかなかった。

 

 

爆弾は炸裂した瞬間しか爆弾ではない。あとは、唯の火事ではないか。唯の火事を、君は消そうとせず逃げ出す手はあるまい。

召集を受けた勇士を、死奉公立派に働いてくれと君は励ました。

一旦風雲急となった時、この都市を、護るのは今度は君の番なのだ。英霊は君の奮闘を待ってゐる。

 

 

参考文献

l  『昭和史の事典』佐々木隆爾/編東京堂出版(1995.6

l  『昭和―2万日の記録E太平洋戦争』講談社(1990.1

l  『アメリカの日本空襲にモラルはあったか−戦略爆撃の道義的問題』 ロナルド・シェイファー/著 草思社 (1996.4)

l  『恐怖の焼夷弾−福岡空襲の証言集 [戦争を知らない世代へ]』 創価学会青年部反戦出版委員会/編 第三文明社 (1978.6)

l  『空襲!!』 保科貞次/著 千倉書房 (1931.12) 第三文明社 (1984.7)

l  『昭和史−決定版 (12) <空襲・敗戦・占領>』 毎日新聞社 (1983.9)

l  『新聞集成昭和史の証言 (16) <昭和十七年 東京初空襲・戦況下降線>』 本邦書籍 (1987.6)

l  『帝都炎上−空襲下の150 [シリ―ズ・戦争の証言]』 茂原照作/著 太平出版社 (1974.2)

l  『天皇裕仁と東京大空襲』 松浦総三/著 大月書店 (1994.3)

l  『東京大空襲−昭和20310日の記録 [岩波新書(青版)]』 早乙女勝元/著 岩波書店 (1971.1)

l  『米軍が記録した日本空襲』 平塚柾緒/編著 草思社 (1995.6)

 

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