合祀(ごうし)と分祀(ぶんし)

 

合祀とは、2柱以上の神や霊を一神社に合わせ祀(まつ)ること。また、ある神社の祭神を他の神社に合わせ祀ることで、合祭ともいう。

 

靖国神社の合祀の方法は、真っ暗闇の夜に人霊を「霊璽簿」(れいじぼ)に筆書きで移し、更に靖国神社の「御神体」とされる鏡に写し合祀され「神霊」となる。その上で秋の例大祭の初日に「魂をお招きし」、霊璽簿を前に宮司が祝詞(のりと)を上げ、国学院大学吹奏楽部が「水清く屍(かばね)」を演奏する中、本殿正面の扉を開き、奥の奉安殿に納める。

 

靖国神社の戦没者合祀は、戦前は陸・海軍省から天皇に名簿が「上奏(じょうそう=天皇に意見・事情などを申し上げること。奏上)」され「裁可(さいか=裁決し、許可すること。特に、君主が臣下の奏上する案を自ら裁決し許可すること)」を受けてからおこなわれていた。

 

敗戦後、同神社は陸・海軍省の共管から一宗教法人になったが、戦後の厚生省援護局(当時)が名簿を靖国神社に渡し、神社側が「祭神名票(さいしんめいひょう)」をつくって合祀している。

 

A級戦犯も、66年に厚生省から太平洋戦争開戦時の東条英機元首相ら12人(のちに日独伊3国同盟を推進した松岡洋右白鳥敏夫の2人追加されて14人)の名簿が靖国神社に送られ、70年の崇敬者総代会で合祀が了承されたが、「宮司預かり」となり、当時の筑波藤麿宮司の在職中は実施しなかった。

 

実際に、A級戦犯が合祀されたのは、78年の秋季例大祭前日の10月17日で、この日神社は職員にもかん口令を敷いて、秘密裏に強行したため、翌79年4月の新聞報道まで一般に知られることはなかった。強行したのは、松平永芳宮司で、A級戦犯を「昭和殉難者」と呼んでいる。

 

なお、神社側は、厚生省から名簿が神社に送られてきたことをもって、「A級戦犯合祀は、靖国神社が勝手にやったのではない。国が関与している」と主張している。

 

 分祀とは、本社と同じ祭神を他所の新しい神社にまつること。また、その新しい神社をいう。

 

靖国神社の「A級戦犯」分祀論が問題になったのは、85年の中曽根康弘首相(当時)の靖国神社公式参拝への批判が強まったことが契機であった。当時、首相官邸からの要請で、水面下でA級戦犯の遺族や靖国神社側との折衝にあたった板垣正参院議員(当時、A級戦犯・板垣征四郎陸軍大将の長男)は著書『靖国公式参拝の総括』で、その経緯を明らかにしている。

 

それによれば、A級戦犯「取り外し」のためには、「遺族から、合祀取り下げについて靖国神社側と話し合い、決着させる以外ない」との助言をうけ、「白菊遺族会(戦犯者遺族の会)」の木村可縫会長(A級戦犯・木村兵太郎陸軍大将の妻)と協議。その同意をえて、関係遺族に「合祀取り下げ」を打診したが、東条英機元首相の長男(東条英隆氏)が反対し、「合祀取り下げ」は頓挫します。東条家が反対した理由の第1は、「『A級戦犯が合祀されているから、靖国神社に日本の首相が公式参拝することは妥当ではない』という議論は、東京裁判での戦勝国側の理論、一命を賭して反論した被告側の遺族として同調できない」というものであった。

 

靖国神社も、分祀を拒否しているが、東京裁判否定論がその根底にある。

 

なお、昭和天皇が1988年、靖国神社A級戦犯東京裁判合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦(故人)に語っていたことが06年7月19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった(06年07月20日付『日本経済新聞』)

 

昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。

 

 説明: L-L09a

 

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