☆第五福龍(竜)丸☆

 

「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が世界のどこかで現われてくるかもしれない」=1954年に公開された「ゴジラ」での最後のシーンのセリフ

 

<ビキニ事件>

1954年3月1日未明、米国は施政権下にあったマーシャル諸島ビキニ環礁で、広島に投下された原爆の約1000倍の威力の水爆「ブラボー」を使った実験を実施。

公海上にいた静岡県焼津市の遠洋マグロはえ縄漁船「第五福竜丸」の乗組員や島民らが「死の灰」と言われる放射性物質を強く帯びた砂を浴びた。

その後も実験は続き、54年末時点で太平洋で操業中だった日本漁船が少なくとも856隻被ばく、全国で水揚げされた魚が破棄された。

 

都立第5福龍丸展示館(東京都江東区夢の島)

 

 / エンジン / マグロ塚 / 3.1ビキニデー / 放射線を浴びた『X年後』

 

 

 

 

 第五福龍丸が被曝した核爆発(ブラボー)

 

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サンフランシスコ講和(平和)条約調印3年後、朝鮮戦争休戦1年後、戦後復興まっただ中の1954(昭和29)年3月1日午前3時42分、中部太平洋、ミクロネシア東部にある珊瑚礁(さんごしよう)の島々のマーシャル諸島(当時、米国の統治下にあり、独立したのは1986〔昭和61〕年)ビキニ環礁東方160キロの米・政府想定の危険海域外の海上で操業中の静岡県・焼津(やいづ)港の遠洋マグロ“延(はえ)(なわ)”(つり針をつけた多くの枝縄〔えだなわ〕を結び、えさをつけて魚のかかるのを待つ「つり漁法」の「代表的」なもので、幹縄は、アナゴはえ縄の100メートル前後のものから、140キロメートルのものまである)漁船「第五福龍丸」(和歌山で建造された長さ28.6メートル、高さ15メートル、深さ3メートル、総トン数140・9トンの木造漁船)乗組員たちは、夜明け前の暗やみの中に白黄色の大きな火の柱(せん光)が天に向って立ちのぼるのを目撃、空は黄色みがかった白から赤に、そしてオレンジに染まり、船員のひとりは、「太陽が西からでた」と叫んだ。その6、7分の後、大爆音があたりをゆるがせ、やがてキノコ雲が‥‥。

 

広島に投下された原爆の約1,000倍、第2次世界大戦の爆弾総量の約5倍の威力があるアメリカの「キャッスル作戦」の1発目として「ブラボー」と名付けられた15メガトン(予定では6メガトンであったが、核融合反応の計算ミスなどから15メガトンとなった)の水爆実験であった(当時は大気圏内で実験が重ねられており、この水爆は中でも最大級のものだった)。実験で島が3つ吹っ飛び、直径1.8キロ、深さ70メートルの巨大な「ブラボークレーター」と呼ばれるすり鉢状の穴ができた。

 

  「船の位置を観測し終えたとき、光が天に昇ってきたんですよ。白い光が一斉に前からも後ろからも上がってくる。あまりにも突然で、天空を圧倒しました。最後は炎となって大空を焦がした」(夜明け前、水平線上で輝くさそり座を見ていた漁労長・見崎吉男さん談) 

 

実験の事前通告が日本の海上保安庁や水産庁になかった。また、他の多くの船舶に加えて実験場に近いマーシャル諸島の島民も放射能に汚染された(当時マーシャル海域には、900隻に及ぶマグロ漁船が漁をしていて、2万人近くが被爆したといわれている。)

 

実験3〜4時間後には空全体を覆った雲から白いが降下、「第五福龍丸」の甲板に積もり始めた。白い灰は乗組員の顔、手、足、頭髪に付着し、鼻腔から体内にも入り吸った(放射性降下物「死の灰」は、500キロ以上離れた島まで襲った)

 

乗組員23人は死の灰(核兵器の空中爆発によって大気中にばらまかれたのち地表に降下してくる放射性降下物〔フォール・アウト〕。現在では、原子核が分裂して生ずる放射性の生成物の俗称と理解され、原子力発電に伴って発生する核分裂生成物なども含まれる。なお、1945年から1995年までの50年間に総計2,043回の核実験が行われ、うち528回が大気圏内実験であった。それは「20世紀化学生んだ『最も恐ろしい悪魔』」「20世紀最大の『地球環境汚染』」である)を浴びたのである。また、ビキニ、エニウェトクの両環礁では1946年から1958年までに計67回(広島型に換算して約7,000発分)の核実験が繰り返され、死の灰や残存放射能の影響で甲状腺障害やがんなど健康被害が多発、マーシャル政府に認定された島民は2003年末で約1,870人に上り、うち約840人が死亡した。

 

 

死の灰=27種類の核分裂生成物

 

同船は同年3月14日、母港・焼津に帰港、翌々日の3月16日付『読売新聞』は、一面トップ記事で「邦人漁夫 ビキニ原爆事件に遭遇」「23名が原子病」との見出しで、スクープ記事を掲載した。

  

 

やがて乗組員23人には、放射線による火傷が生じ、顔はどす黒くなり、歯くきからは血が滲み出す症状が現れ、「急性放射能症」と診断されて、東大病院と国立第一病院に入院、治療を受けることになった。また、5月には日本各地に放射能雨が降り始め、同船が積んできたマグロからは強い放射能が検出された。放射能が検出されたマグロはほかの漁船でもみられ、それらは、「原爆マグロ」と呼ばれ廃棄され、漁業関係者は深刻な打撃を蒙った。

 

 

 

「第五福龍丸」から採取した灰を分析、水爆であることを突き止めて発表したしたのは、原爆投下直後の広島にも入っていた京都大化学研究所教授の物理学者清水栄さんであったが、原子力の平和利用に関する研究を続け、自らもがんに侵されながら核兵器廃絶を訴え続け、03年12月に88歳で死去した清水さんは、2度の経験から「核兵器は想像を絶する恐ろしさだ」「(核開発競争をする)各国指導者の理性はマヒしている」と常々語っていた。

 

被爆から半年後の1954(昭和29)年9月23日、乗組員の1人の無線長久保山愛吉(くぼやまあいきち)さん(当時40歳)が、国立第一病院で「身体の下に高圧線が通っている……」「原爆被害者は私が最後にしてほしい」と絶叫しつつ死んだ(死因は、肝臓障害による黄疸症状を呈した「放射能症」)。久保山さんの死因は、(被曝問題研究者の医師、聞間元氏によると)放射線を大量に浴びたことによる肝不全をはじめとする多臓器不全だった(当時、米国側は「血清肝炎が死因」で、放射線の被曝は決定的なものではないとしたが、事態の矮小化を図った政治的結論だった)

 

 

 

亡くなった久保山無線長は、静岡県漁民葬において、静岡大生らが歌う「原爆許すまじ」の歌で送られた。

 

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     久保山愛吉さんらの遺族 

 

墓所は、静岡市焼津の弘徳院。

 

1993年9月12日久保山愛吉さんの妻で、核兵器廃絶運動に貢献した久保山すずさんが大腸がんのため死去。享年72歳。

 

 

 

1993年に死去した久保山愛吉さんの妻すずさんは、「私は、これからさきのことを考えると、何から何をどうしてよいのやらサッパリわかりません。けれども水爆の実験を、金輪際やめて頂きたいということだけは、ハッキリと申上げることが出来ます」(「夫の死をむだにしないで下さい」− 『婦人公論』)と、原水爆禁止運動に力を尽くし、「平和の語り部」ともよばれた。

 

死の灰を越えて―久保山すずさんの道(かもがわ出版)

 

世界初の水爆犠牲者となった第五福竜丸無線長・久保山愛吉氏未亡人として、第1回日本母親大会で訴えたすずさんのひたむきな人生を感動的に綴る。すずさんの歩んできた道は、まさに核兵器廃絶への道である。

なお、1957年12月26日、久保山すずさんは、カイロで開かれたアジア・アフリカ諸国民会議に母親代表として出席した。

 

久保山愛吉さんの長女・みや子(当時小学校3年)さんの手記

 

死の灰にまけてならない、一しょうけんめいにこの灰とたたたかって、かならずよくなるといいつづけていたお父ちゃん。

家へかえられるようになったら、私たちをどうぶつえんにつれていってあげるよとやくそくして下さったおとうちゃんなのに、いまは私がおとうちゃん、みやこ子よ、と耳元でよんでもなんとも返事をしてくれません。

きのうも今日も重体のままです、ほんとうにかなしくておとうちゃんのまくらもとで泣いてしまいました。

小さい安子やさよ子は上京していませんが、遠くはなれている家できっと泣きながら小さい手を合わせてかみさまにお祈りしていることでしょう。

毎日私はおかあさんといっしょうけんめいかんびょうしています。おかあさんは泣かないでと言いますが、そのおかあさんもなみだをいっぱいためているのです。みや子はなおかなしくて泣きます。

大ぜいの先生がたやかんごふさんがよるもねないで、おとうちゃんのちりょうに一しょうけんめいにつくしてくださっています。先生おとうちゃんをたすけてください。

私たちがめんかいにいくと、にこにこしながら、みんなごくろうさん、よくきてくれたね、とよろこんで私たち三人のあたまをなぜてくれたり、一ばん小さいさよ子をだいたりしてくれたのに、こんな事になるとは、みんなあのすいばくじっけんの ためなのです。あのじっけんさえなかったら、こんな事にならなかったのに、こんなおそろしいすいばくはもう使わないことにきめてください。

 

1954年9月3日  久保山みや子

 

米国からスパイ呼ばわりされた22名の乗組員は体力を回復し、約1年後に退院するが、完治したわけではなかった。否、C型肝炎ウイルが混入した(汚染された)血液の大量輸血に起因する肝硬変や肝がんの恐怖が30年経過した頃から彼らを襲ったのである。第五福龍丸の乗組員たちの悲劇は、“死の灰”と“汚れた血液”という二重の「被爆」を蒙ったといわなければならない。

 

しかし、この被爆に対するアメリカ側の法的責任は不問され、補償金は全く支払われず、200万ドル(約7億2,000万円)の慰謝料で政治決着したが、乗組員1人当りに配分された金額は、僅か200万円に過ぎなかった。

 

政治決着を図った鳩山一郎内閣

 

時は、米国とソ連(現・ロシア)との冷戦(cold war=冷たい戦争=武力を用いず、経済・外交・情報などを手段として行う国際的対立抗争。特に第2次大戦後、アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営との激しい対立をいう)状態が顕在化し、米国のみならず旧ソ連、英、仏が地上と地下で実験を続けたといった核兵器の開発競争激化時代に突入していた(その後、中国が加わり、インドとパキスタンが追随する)そうした中での、この事件は世界唯一の被爆国日本の国民に強い衝撃を与えた。

 

核兵器とそれがまき散らす放射能の恐ろしさを目のあたりにしたその衝撃は、広島と長崎の核の惨禍の記憶がまだまだ生々しい時代であったこととも相俟って、「第3の核被害」とよばれ、核実験反対運動となって核兵器禁止の世論を急速に作り上げ、たちまち3,200万人の署名が集められ、その成果は、翌1955(昭和30)年8月、被爆地広島での第1回原水爆禁止世界大会開催で結実する。

 

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第1回日本母親大会東京・豊島公会堂でのあいさつ

 

 みなさん!人間が人間を殺してよいものでしょうか。人間が人間を殺す兵器をゆるしておいてよいものでしょうか。死の床に横たわりながら、死の直前まで、夫はこのような恐ろしいものを許しておくことはできない、どうしてもなくしてしまわなければならないと叫びつづけました。このような恐ろしい兵器があるかぎり、わたしたち日本人は生きていくことができません。

 先日わたしは、一人のアメリカ婦人から、心のこもったお手紙をいただきました。その方は、ほしいものはなんでも送るといってくださいました。けれどもわたしたち親子には、ほしいものはなにもございません。ほしいものは夫の命だけです。子どもたちに父親を返してください。けれど、それは到底できないことです。いまわたしたちが一番ほしいのは、原水爆をやめてもらうことです。犠牲者は一人でたくさんです。これはわたし一人のねがいではございません。ほんとうの母の愛情は、こどもを守ることだけではなく、戦争をやめさせることです。

 戦争による不幸、原子兵器による不幸を、わたしたちは世界のどこの国よりも早く体験いたしました。この戦争をやめさせることが、子どもたちを幸福にする道です。戦争をやめてください。これが夫の最後の声でございました。 

みなさん!戦争をなくしてください。平和を守ってください。                 

1955年6月7日 久保山すず

 

 「第五福龍丸」は政府が買い上げ、焼津から東京に曳船(えいせん=船を引いていくこと)された後、船名を「はやぶさ丸」と変え、さらに甲板も別の木材を張り替えて東京水産大学の練習船になった。

 

その「はやぶさ丸」(「第五福龍丸」)は、1967(昭和42)年、廃船処分となって解体業者に売り渡され、東京・江東区の「夢の島(東京湾の埋め立て地の通称で、1957〔昭和32〕年から1967〔昭和42〕年まで廃棄物で埋め立てられた「14号地」をさす。その後引き続いて埋め立てられている「15号地」は「新夢の島」と呼ばれている。なお、14号地の目と鼻の先の「13号地」には海底から引き揚げられた北朝鮮の工作船の残がいが展示されてに捨てられていたが、朝日新聞に掲載された「沈めてよいか、第五福龍丸」という投書や、「最も第五福龍丸を愛し、最も船のもとにかよったジャーナリスト」白井千尋氏(当時『赤旗』記者〔1993年65歳で死去〕)が赤旗で報道したのが契機となり、広範囲にして粘り強い保存運動が起こり、その結果、ロッキード事件(三木武夫内閣)が起きた1976(昭和51)年6月、夢の島に都立(当時は美濃部亮吉革新都政の時代)の展示館(「都立第五福龍丸展示館」)が創設され(2000年に模様替えが施された。同館の年間見学者は平均12万人)、保存されることとなった。

 

『沈めてよいか、第五福竜丸』  武藤 宏一 会社員(26才)

 1968年3月10日付『朝日新聞』−「声」

 

 

 

第五福竜丸。

 

それは私たち日本人にとって忘れることのできない船。

決して忘れてはいけないあかし。

知らない人には、心から告げよう。

忘れかけている人には、そっと思い起こさせよう。

今から14年前の3月1日。太平洋のビキニ環礁。

そこで何が起きたのかを。

 

そして沈痛な気持ちで告げよう。

いま、このあかしがどこにあるかを。

東京湾にあるゴミ捨場。人呼んで「夢の島」に、このあかしはある。

それは白一色に塗りつぶされ、船名も変えられ、

廃船としての運命にたえている。

しかも、それは夢の島に隣接した15号埋立地に

やがて沈められようとしている。

だれもがこのあかしを忘れかけている間に。

 

第五福竜丸。

もう一度、私たちはこの船の名を告げあおう。

そして忘れかけている私たちのあかしを取りもどそう。

原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう。

いま、すぐに私たちは語り合おう。

このあかしを保存する方法について。

平和を願う私たちの心を一つにするきっかけとして。       

 

夢の島に捨てられていた第五福竜丸

 

第五福龍丸の心臓部であるエンジン部分は船体から切り離されて、貨物船「第三千代川丸」に搭載されていたが、その貨物船は1968(昭和43)年、航海途上、三重県熊野灘沖座礁、沈没した。その28年後の1996(平成8)年12月、平和を願う人々によって海底から引き揚げら、第五福龍丸に戻された。

  
 
エンジン

 

ビキニ被災50周年にあたる2004年3月1日を前に、第五福龍丸展示館のリニューアル・特別展がオープンし、2月14日、記念式典と見学会が行われ、マーシャル諸島共和国初代大統領の娘で駐日大使のアマットライン・カブアさんがあいさつ、秋葉忠利・広島市長や伊藤一長・長崎市長、戸本隆雄・焼津市長、俳優の吉永小百合さんらからメッセージが寄せられた。

 

メッセージの中で吉永さんは「子どものころ ニュースで知った第五福龍丸のこと、久保山愛吉さんの死は 私の心に深く残りました。そのことが原爆詩の朗読を始めたきっかけの一つになっています。これからも核兵器のない地球を取り戻すためねばり強く頑張りたいと思います」とのべている。

 

2004年2月末現在、第五福龍丸の元乗組員の生存者は11人(12人死亡)、今、半世紀の沈黙を破り、元冷凍士の大石又七さん(70)をはじめ乗組員が体験を語り継ごうとしている。

 

被爆50周年にあたる2004(平成16)年3月1日(月)、静岡県焼津市では、80人の被ばく者を出したマーシャル諸島・ロンゲラップ島の元村長、ジョン・アンジャインさんも加わった「3・1ビキニデー静岡県実行委」などの主催の「核兵器をなくし、平和を守ろう」などと書いたのぼりを掲げた約2,000人の一団が、久保山愛吉さんが眠る墓前まで平和行進し、核廃絶の願いを込めて献花、ロンゲラップ島のジェームズ・マタヨシ地方行政府首長は「マーシャルにとって54年3月1日は、米同時テロのあった2001年9月11日と等しく重たい日であることをわかってもらいたい」と訴えた。

 

この集会で、第五福龍丸の元漁労長、見崎吉男さん(78)は、水爆実験を「地球の生物に対する最大の犯罪」と表現したうえで、「(核兵器という)怪物は21世紀に残してはならない」、さらに(被災後の市民の支援活動について)「夢破れて目的を失った(自分たち)若者を大きく包んでくれた」と感謝(見崎さんは04年7月の集会で、「一部始終を見ていたのは私だけ。事実は私が話さないと分からない」「事件は哀れな漁師の物語じゃない。今年が真実をしっかり伝える最後の機会」とかたり「歴史の語り部」としての役割を果たしていくと語っている)、大石又七さんは、被災者への補償を放棄した日米政府の政治決着を厳しく批判し、「外務省は私たちの人権を無視した。この時点から、私たちはヒバクシャでありながらヒバクシャでなくなった。ビキニ事件はまだ終わっていない」と語った。 

 

また同日、被曝後遺症のがんなどに苦しんでいるロンゲラップ島の旧島民は残留放射能の影響で帰島でずきに避難先の島々に散在しているが、この日避難先のマーシャル諸島各地から集まった人々らが「水爆実験50周年」、「(被ばく地の)家に帰りたい」などと書いた横断幕などを掲げ、首都マジュロ市内をパレードした。 

 

「第五福龍丸」乗組員の生殖機能が一時的に低下し、放射能との関連が強く疑われるとの情報を日米両国の関係機関が共有しながら「機密扱い」とし、患者の乗組員にも知らせていなかったことが05年2月27日までに、米公文書(日米大使館から、事件の医学調査を進めていた米原子力委員会【AEC、後のエネルギー省】のビューワー生物医学部長に送られた54年12月27日付の書簡や同年8月31日付の別のAEC文書)や当事者の証言から明らかになった。当時は第五福龍丸事件を機に原水爆禁止運動が全国的な盛り上がりを見せていたことから、こうした情報が明るみに出れば、日本人の反米・反核感情に火を付け、東西冷戦の真っただ中で核軍拡を進める米国の軍事政策や日米の補償交渉に影響を与える可能性があったとみられる。また、日本側の関係機関が広島、長崎の被爆者に配慮したとの指摘もある(05年2月27日配信『共同通信』)

 

1959(昭和34)年、新藤兼人監督、宇野重吉乙羽信子らの主演で映画化(松竹)されている。

 

そして、「第五福龍丸」被爆から8カ月後の1954(昭和29)年11月、水爆実験によって休眠状態から目覚めた太古の怪獣ゴジラが、東京を火の海にする怪獣映画の名作「ゴジラ」が封切られヒットした。多くの人々が「ゴジラの襲撃」を、原水爆の脅威や、東京大空襲の生々しい記憶と重ねて見たのである。「ゴジラ」は、以後50年間、次々と続編が製作されたが、04年12月4日に公開される28番目の作品、謎の宇宙人の侵略に対して地球防衛軍が立ち向かうというストーリーの展開で構成された「ゴジラ ファイナル ウォーズ」を最後に製作が休止され、シリーズの歴史に区切りがつけられた。

 

なお、第五福龍丸の元乗組員のうち、被災後に重い肝臓病を患って死亡した4人の遺族が、船員保険の遺族年金の支給を国に求め、元乗組員の遺族への支給が初めて認められていたことがわかった。元乗組員23人のうち、C型肝炎ウイルスに感染し、重い肝臓疾患で50〜70歳代で亡くなった4人の遺族。2004(平成16)年12月に1人、05年6月に3人が申請し、それぞれ1〜2か月後に認められ、2005(平成17)年10月までに支給が始まっている。

元乗組員を巡っては、それまでは被ばく治療のための輸血によるC型肝炎から肝硬変や肝臓がんの発症との因果関係が認められていなかったが、国の社会保険審査会が2000(平成12)年7月、「乗船中の被ばく治療のための輸血と肝臓の病気との因果関係が認められる」として、一般の労災にあたる船員保険の療養給付の再適用を認める裁決を出したことから、この裁決に基づき、船員保険の遺族年金に関しても適用の道が開け、遺族らが申請していた。

船員保険の遺族年金の支給条件は「職務上で死亡したとき」であるが、遺族側は「C型肝炎に感染していた」などと被ばく後の輸血治療で肝臓障害になったことを裏付ける死亡診断書を提出していた(06年02月27日付『読売新聞』)

 

販売元:アスミック・エース エンタテインメント/4,700円

 

 

原爆マグロ:「築地解体後もプレートを」第五福竜丸元乗員(2018年9月23日配信『毎日新聞』)

 

 

築地市場正門から向かって左側のプレート

”1954年3月1日、米国が南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被ばくした第五福竜丸から水揚げされた魚の一部(約2トン)が同月16日築地市場に入荷しました。

国と東京都の検査が行われ、放射能汚染が判明した魚(サメ、マグロ)などは消費者の手にわたる前に市場ないのこの一角に埋められ廃棄されました。

 全国では850隻余りの漁船から460トン近くの汚染した魚が見つかり、日本中がパニックとなって魚の消費が落ち込みました。

築地市場でも「せり」が成立しなくなるなど、市場関係者、漁業関係者も大きな打撃を受けました。

 このような核の被害がふたたび起きないことを願って、全国から10円募金で参加した大勢の子供たちと共に、この歴史的事実を記録するため、ここにプレートを作りました。

 

マグロ塚を作る会

1999年3月1日”

 

「原爆マグロ」が市場の一角に埋められたことを伝えるプレート=東京都中央区の築地市場で2018年9月6日

 

 10月6日に閉場する東京都の築地市場(中央区)には、64年前に米国の水爆実験で被ばくした「第五福竜丸」が漁獲したマグロが埋められた。汚染された「原爆マグロ」が持ち込まれて日本の台所が大打撃を受けた歴史は、正門脇に掲げられたプレートに刻まれているが、市場解体後はその扱いが決まっていない。元乗組員らは22日、都内で集会を開き、「平和の道しるべに」と保存を訴えた。

◇64年前の事件、伝えたい

 市場正門脇の白い壁には、マグロのイラストが入ったプレートがひっそりと掲げられている。「放射能汚染が判明した魚などは消費者の手に渡る前に市場内のこの一角に埋められ廃棄されました」

 第五福竜丸の魚は1954年3月16日、トラックで築地市場に持ち込まれた。検査で複数のマグロやサメが放射性物質に汚染されていると分かり、市場内の一角に埋められた。量は2トンともされる。

 「原爆マグロ」のあおりで、他の鮮魚の値段も暴落。都は放射線の検査を通過した魚に「合格印」を押し、卸や仲卸業者とともに宣伝カーやビラで安全性をアピールした。それでもパニックは収まらず、市場近くにある飲食店の売れ行きまで下がった。

 都は96年、地下鉄大江戸線の建設工事に併せ、マグロが埋められたとみられる正門付近を発掘。だが、マグロの骨などは見つからなかった。元乗組員の大石又七さん(84)が第五福竜丸事件を伝える講演活動を始めたのはこのころだ。差別や偏見を恐れたが、核廃絶への願いから沈黙を破った。有志と全国の講演先で子供たちから1人10円を募り、99年にプレートをつくった。

 本当は「マグロ塚」と名付けた石碑を市場内に置きたかった。だが、市場は当時、再整備問題に揺れており、都は都立夢の島公園(江東区)で保存・展示している第五福竜丸のそばに碑を仮置きし、プレートだけ市場に掲げるのを認めた。

 10月11日に開場する豊洲市場(江東区)への移転に伴い築地市場は解体され、跡地は2020年東京五輪・パラリンピック用の駐車場になる。都は解体工事の仮囲いなどにプレートを設置する方針だが、五輪後の再開発計画は未定でプレートの長期的な扱いは決まっていない。原爆マグロも所在不明のままだ。

 第五福竜丸の乗組員で最初に亡くなった無線長・久保山愛吉さん(当時40歳)の命日前日の22日、大石さんたちはマグロ塚の近くで慰霊の集会を開いた。約50人を前に大石さんは語気を強めた。「人間はいずれ言葉を失うが、石は何年先でも残り、平和の道しるべになる」。市場を襲った記録の保存と記憶の継承を求めた。

 【ことば】第五福竜丸事件

 1954年3月1日未明、米国が太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で実施した水爆実験により、約160キロ先で操業中だった静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が放射性物質を含んだ「死の灰」を浴びて被ばくした。米国が日本に200万ドルの見舞金を支払うことで政治決着したが、原水爆禁止運動が広がるきっかけとなった。

 

 

築地の「原爆マグロ」どこに 跡地再開発のリスクにも(2016年8月5日配信『日経新聞』)

 

 

 1954年、ビキニ環礁で漁船、第五福竜丸が米国の水爆実験で被曝(ひばく)した。築地市場には第五福竜丸が漁獲した約2トンのマグロなどが届いたが、セリにかけられることなく埋められた。南洋で「死の灰」を浴びた魚は、なぜか「原爆マグロ」の名がついた。

 築地市場跡地には多くの不動産開発会社が関心を寄せる。しかし大手不動産会社の担当者は「一種の『埋文リスク』ですね」とこぼす。埋蔵物文化財リスクの略で、発掘調査のために工事が滞る可能性のことだ。原爆マグロが工事中に見つかれば大きなリスクを抱え込む。

 元乗組員の大石又七さん(82)は「今の駅の入り口付近に埋めたはず」と記憶をたどる。96年、都営地下鉄大江戸線の築地市場駅建設のために東京都が調べたが、放射線量に異常はなかった。行方は今も分からない。

 大石さんは当時20歳だった。「水気のある白い灰を6時間も浴びた。その後、乗組員であったことを隠しながら東京のクリーニング店で働いた」。苦しんだ半生をかみしめ、悲劇を伝えるため99年に有志で「マグロ塚」と刻んだ石碑をプレートとは別に作った。

 都は跡地の扱いについて「白紙。調査も決まったことはない」(都市づくり政策部)と説明する。今、石碑は都立第五福竜丸展示館(江東区)にある。「移転後は何とか跡地に置いてほしい。そのための交渉が私に残された仕事です」と大石さんは話す。

 

悲劇を忘れ去ることこそ、本当の悲劇だ(2014年3月4日配信『中日新聞』−「中日春秋」)

 

「背中に、高圧線が走っている。焼かれる」。久保山愛吉さんが苦しみ抜いた末、40年の生涯を閉じたのは、60年前のことだ。マグロ漁船「第五福竜丸」の無線長だった久保山さんを「焼いた」のは、米国がビキニ環礁で行った水爆実験だった

▼最後は意識障害まで起こし、夜通し叫び続けた久保山さんの声は、病院の隣室で治療を受けていた大石又七さんらの頭に響いた。自分たちも同じ運命をたどるのか。福竜丸の乗組員たちにとり、久保山さんの死は悪夢の始まりだった

▼5年後、大石さんは病院から呼び出された。臨月を迎えた妻の入院先だ。おめでたかと駆けつけたが、待っていたのは、むごいひと言。「死産です」。赤ん坊は先天性異常だった

▼乳を求めてしゃぶりつくはずの赤ん坊は死んだのに、張り続ける妻の乳房。痛さと悔しさを見せないようにしている妻の姿。大石さんは著書『ビキニ事件の表と裏』に、思いを綴(つづ)っている

▼<「被爆とは関係ない」という者たちに俺は言いたい。何がどれだけ分かっているというのだ。悩みは俺だけにとどまらず、家族にもつながっていく。外からの差別や偏見より、もっと怖い身体の中の見えない悪魔におびえているのだ>

▼広島、長崎。第五福竜丸。そして、福島原発事故。これだけ、核の悲劇を目にし続けてきた国はない。悲劇を忘れ去ることこそ、本当の悲劇だ。

 

ビキニ被ばく60年 核廃絶への決意新たに(2014年3月1日配信『毎日新聞』−「社説」)

 

 米国が太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で行った核実験で、付近で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被ばくした事件から1日で60年になる。日本にとっては広島、長崎への原爆投下に続く核被害となり、原水爆禁止運動が高まる契機になった。事件を風化させず、核廃絶への取り組みを進める決意を新たにしたい。

 1954年3月1日、第五福竜丸の乗組員は、水爆実験による大量の放射性物質「死の灰」を浴び、無線長の久保山愛吉さんが半年後に死亡した。米政府が「見舞金」として日本側に200万ドルを支払うことで政治決着したが、乗組員への十分な補償や調査は行われていない。米国はこの海域で4658年に計67回の核実験を行い、延べ1000隻の日本漁船が被災したと言われるが、実態は今も解明されていない。

 54年の核実験では、風下にあったロンゲラップ環礁の島民も被ばくした。強制移住後、いったん帰還したが健康被害が続出し、再び避難したままになっている。マーシャル諸島の首都マジュロでは1日、こうした被ばく者の追悼式典が開かれ、第五福竜丸の元乗組員らも参加する。原発事故があった福島県からの参加者も予定されているという。

 ストックホルム国際平和研究所によると、減少傾向にあるとはいえ今なお世界には1万7000発を超える核兵器がある。オバマ米大統領は5年前に「核なき世界」を目指すと演説したが、その実現への道のりはなお遠い。

 現在、核兵器に関する国際条約は保有国を米国、英国、フランス、ロシア、中国の5カ国に限定した核拡散防止条約(NPT)だけだ。5カ国の核保有独占に反発するインド、パキスタンやイスラエルは加盟しておらず、北朝鮮は2003年に脱退宣言した。地下核実験も含む核実験全面禁止条約(CTBT)は96年に国連総会で採択されたが、米国、中国などが批准せず条約は発効していない。インド、パキスタン、北朝鮮はこの条約の採択後も核実験を行い、調印さえも拒否している。

 だが、非核保有国による核廃絶への粘り強い取り組みは続いている。2月にはメキシコで、日本など146カ国が参加して核兵器の人道的影響に関する国際会議が開かれた。4月には広島で、段階的な核軍縮を目指す「軍縮・不拡散イニシアチブ」の第8回外相会合が開かれる。

 日本は一方で米国の「核の傘」に依存するというジレンマを抱えているが、核廃絶を目指す国際的な取り組みと積極的に連携し、少しでも「核なき世界」へ前進できるよう、核保有国への訴えを重ねたい。

 

ビキニ60年 「死の灰」は今も、の怖さ(2014年3月1日配信『東京新聞』−「社説」)

 

 米国が太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で日本の漁船が「死の灰」を浴びた惨禍から60年。被ばくした元乗組員や周辺の島民らの苦悩は今も続く。核は許されない、その思いを新たにしたい。

 東京・井の頭線渋谷駅の連絡通路に巨大壁画がある。岡本太郎さんの「明日の神話」。水爆さく裂の瞬間がマグロ漁船「第五福竜丸」とともに描かれた代表作だ。

 「福竜丸」は1945年3月1日、中部太平洋のマーシャル諸島で行われた米国の水爆実験で、放射能を含む「死の灰」を浴びた。威力は広島に投下された原爆の約1000倍。23人の乗組員は全員急性放射線障害を発症し、四十歳だった無線長の久保山愛吉さんが半年後、入院先の東大病院で亡くなった。生き残った多くの人もその後肝臓がんなどで亡くなり、生存する七人も病魔と闘っている。

 水爆実験で被災した日本漁船は福竜丸だけではない。米ソ冷戦下、48年から58年まで行われた実験は67回に及び、日本政府の調査では少なくとも856隻の被ばくが判明している。福竜丸の被ばく後も実験を知らない漁船が海域で操業していた。

 しかし、福竜丸が強調される一方で、他の被災漁船の乗組員の被ばくは軽視され、事件は矮小(わいしょう)化された。55年に米政府が日本政府に支払った慰謝料は、汚染魚の買いとりや廃船費などに充てられたが、乗組員の健康について追跡調査などは行われなかった。

 ビキニ事件は広島、長崎の原爆投下に続く核被害として、核廃絶運動の原点となりながら実態は明らかにされず、95年に施行された被爆者援護法の対象にもならなかった。一部の被災漁船の乗組員の調査ではがんによる死亡が多発し、内部被ばくによる晩発性の障害に苦しんでいた。

 何の補償も、救済もない。差別や偏見を恐れ、被ばくの事実を語れずに生きてきた。仲間を失い、高齢になって健康調査に協力を申し出た人も出ている。時間との闘いだ。ビキニの被害は今も続く。忘却してはならない。

 死の灰で苦しむのは実験地にされた太平洋の島民も同じだ。米国の進める帰還政策に従う間に甲状腺異常や白血病などが広がった。福島原発事故の被害も過小評価し、同じ轍(てつ)を踏んではならない。

 大切なふるさとを奪い、健康や生活を壊す。生きる権利を蝕(むしば)む核−。この問題とどう向き合うのか。静かに考えてみたい。

 

福竜丸の風化防ぎ、核廃絶訴え 静岡で集会、3月1日で60年(2014年2月28日配信『共同通信』)

 

 米国が太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を行い、静岡県の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」や付近住民が被ばくしてから3月1日で60年を迎える。事件の風化を防ぎ、核廃絶を訴えようと、静岡市の会議場では28日、「3・1ビキニデー日本原水協全国集会」(原水爆禁止日本協議会主催)が開かれた。

 集会には広島、長崎の被ばく者を含め約千人(主催者発表)が参加。平和教育のアニメをつくり普及活動を続けるフランス平和首長会議顧問の美帆シボさん(64)は「フランスで、広島、長崎の原爆被害を伝えてきた。核兵器禁止の国際法を実現するために多くの国々と連帯したい」と呼び掛けた。

 

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「3・1ビキニデー日本原水協全国集会」でステージに上がった参加者=28日午後、静岡市

 

鮪に鰯(2014年2月28日配信『北海道新聞』−「卓上四季」)

 

詩人の暮らしは、貧しかった。「鮪(まぐろ)の刺身が食べたくなった」と妻がいう。詩人は「死んでもよければ勝手に食え」と腹立ちまぎれに言い返す

▼ぷいと横に向いてしまった妻。それを見やりながら詩人は気づく。<亭主も女房も互(たがい)に鮪なのであって/地球の上はみんな鮪なのだ/鮪は原爆を憎み/水爆にはまた脅(おび)やかされて/腹立ちまぎれに現代を生きているのだ>

▼沖縄出身の山之口貘(やまのくちばく)(1903〜63年)が、代表作の一つである詩「鮪に鰯(いわし)」を発表したのは1954年の秋。その年の3月1日、米国による太平洋ビキニ環礁での水爆実験によって、マグロ漁船「第五福竜丸」に「死の灰」が降り注いでいる

▼国内外の世論が騒然とする中で生まれた詩は、何げない食卓の風景から「核の時代」を描き出した。地球のどこで暮らしていようが、人間もまた放射能を帯びて廃棄されたマグロと同じなのだ、と

▼驚くのは被ばくの翌年には日米間で原子力協定が結ばれ、3年後には東海村で米国製原子炉が日本初の「臨界」に達していることだ。「政府は事件を原発導入の取引材料にし、被災者は人柱にされた」―。第五福竜丸の元乗組員大石又七さん(80)は、著書「ビキニ事件の真実」(みすず書房)に、そう書いた

▼あす「ビキニの惨事」から60年。私たちは、未曽有の原発事故から3年足らずで原発回帰を急ぐ国に住んでいる。

 

第五福竜丸事件60年(2014年2月28日配信『京都新聞』−「凡語」)

 

 あすで60年になる。太平洋のビキニ環礁で米国の水爆実験に第五福竜丸が遭遇、乗組員23人が被ばくした事件。大きく報道されたのは2週間余りたってからだ

▼本紙に証言が残っている。「突然西の空がパッと明るくなった」。日の出と同じ光の強さ、時間は7、8秒。光が消えると灰が激しく降り、4、5日たつと顔や足など露出部分がやけどのようになった

▼多くの漁船が被ばくし、全国の港で放射能汚染のマグロが廃棄されたとの記事が連日続く。その同じ紙面に「原子炉予算を追及」「熱源に原子力を活用」の見出し。折しも「原子力の平和利用」が政治の舞台に上る時期と重なった

▼地球化学の故三宅泰雄博士は、一体であるべき放射線の影響と原子力の研究が別々になってしまう、その発端と指摘した(「死の灰と闘う科学者」岩波新書)。政治が入り込んだからだ

▼三宅氏ら科学者は調査船「俊鶻丸(しゅんこつまる)」に乗り込み、米側が否定する海洋の放射能汚染を明らかにした。いかに水爆を使うかの研究が進む中で、俊鶻丸のみが人類を水爆の危険から守る「ヒューマニズムに立脚した研究」だったと三宅氏は書いている

▼福島第1原発で汚染水漏出が続く。沖の海で俊鶻丸に乗り込んだ老研究者が調査する姿をNHK特集で見た。60年たち何が変わったろう。

 

伝えないといけない(2014年2月28日配信『徳島新聞』−「鳴潮」)

 

中に入ると、いきなり大きな木造の遠洋マグロ漁船が目に飛び込んでくる。東京・夢の島にある都立第五福竜丸展示館は、全長約30メートルの船がちょうど入るように造られた建物だ

 老朽化して廃船になり、近くに捨てられていたのを保存運動で救出され、1976年に展示館に収められた。以来、来館者は500万人を超えるが、東京電力福島第1原発の事故で存在意義があらためて見直されているという

 この船が太平洋のビキニ環礁近くで米国の水爆実験に遭遇したのは54年のことだ。元乗組員の大石又七さん(80)は空が突然明るくなり、西から日が昇ったと大騒ぎになった様子を著書「ビキニ事件の真実」(みすず書房)に記している

 巨大な雲が空を覆い、やがて白い粉が降ってきた。放射能を含む「死の灰」と知ったのは帰国した後だ。半年後に無線長の久保山愛吉さんが死亡。他の乗組員22人も被ばくし、反核運動が高まるきっかけになった

 ビキニ事件からあすで60年。多くの島民が死の灰を浴び、移住を余儀なくされたマーシャル諸島での式典に、大石さんや原発事故で故郷を追われた福島大生らが出席する

 700回以上の講演をしてきた大石さんは「核の被害はまだまだ起こり得る。権力者は隠そうとするが、伝えないといけない」と気力を振り絞る。その声に耳を澄ませたい。

 

米ビキニ水爆実験60年 三崎港の元船員苦悩語る

 

 一九五四年、太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で米国が行った水爆実験で、マグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくした事件から三月一日で六十年となる。放射能で汚染された魚を水揚げした日本の漁船は延べ約千隻に達し、マグロ漁の一大基地である三崎港(神奈川県)の漁船も魚の廃棄などの損害を受けた。遠く離れた海域まで及んだ汚染に直面した元船員たちは「体験を若い人たちに伝えなければ」と語る。

 「放射能は怖いと思った。風に乗り、落ちた灰も海流に乗っていくんだから」

 「第11福生丸」の船長だった今津敏治さん(84)=神奈川県三浦市=が当時を振り返る。

 実験があったその日、今津さんらはビキニから数千キロ離れたフィジー周辺で操業中だった。焼津港(静岡県)に帰った第五福竜丸の被ばくが十六日に報道された後、船主からの無線で実験を知る。帰路はビキニに近づかないよう遠回りし、船体をせっけんで洗って四月に帰港した。

 上陸すると、検査官が船員や魚に測定器を当てた。汚染はないと思っていたが、船体やカジキ、サメから国の廃棄基準を超える放射能が検出され、驚いた。約百六十トンの魚のうち十〜二十トンが廃棄され、魚の価格低迷にも苦しんだ。「漁師にとって、魚は生活の資源なのに」。米国への憤りが収まらなかった。

 「灰かぶりは来るな」。「第13丸高丸」の甲板員だった鈴木若雄さん(82)=三浦市=は五四年春、静岡県の漁港で飲食店の女性から入店を拒まれた。操業していたのはビキニの数千キロ東のミッドウェー島付近。方向が違うと説明したが、いわれのない偏見に「一番こたえた。こんなところまでうわさが来ているのかと」。

 港には報道陣が押し寄せていた。白衣の検査官が選別した魚は、廃棄のため岸壁の方へ運ばれていったのを覚えている。

 長い間体験を話す機会がなかったが、今月二十日、原水爆禁止神奈川県協議会のビデオメッセージ撮影に応じた。二十八日午後、静岡市で開かれる「被災六十年三・一ビキニデー集会」で上映される。

 鈴木さんは、とつとつと繰り返した。「百年も二百年もたったら人間は忘れてしまうが、水爆を使うばか者が出たら困る。経験したことを見ていただき、皆さんが覚えていてくれれば」(2014年2月27日配信『東京新聞』)。

 

 

核廃絶 現場から訴え 「福竜丸」元乗組員マーシャルへ

 

 太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で、漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験に遭い、乗組員が被ばくした「ビキニ事件」から3月1日で60年になる。この節目に元乗組員、大石又七さん(80)=東京都大田区=は、十年ぶりにマーシャル諸島を訪ねる。「船の仲間は次々と亡くなっている。私が体験を伝えていかないと、立つ瀬が無い」。悲痛な覚悟で現場から核廃絶を訴える。 

 「たぶん、私にとって最後の訪問になるだろう」。マーシャル諸島を訪れるのは、2002、04年に続き3回目。現地にたどり着くまで、1泊2日掛かる長旅は、高齢の身には厳しい。

 一昨年、脳出血で倒れ、四十年近くにわたり続けていた体験を語り継ぐ活動を約一年間休んだ。再び体調を崩せば、周囲に迷惑が掛かるとも思った。

 それでも渡航しようと決めた。日本はもちろん、現地でも水爆実験の体験者はもう少なく、若い世代には実験を知らない人もいる。「当事者の自分が語り継ぐことには意味がある」と考えた。

 水爆実験に遭ったのは20歳の時。まだ暗い早朝、赤い光が第五福竜丸を包んだ。遅れて地鳴りのような音が響き、真っ白な死の灰が降ってきた。乗組員23人は毛が抜けたり、頭が痛んだりといった症状に苦しみ、半年後に久保山愛吉さん=当時(40)=が亡くなった。

 「それなのに、米国は放射能の影響を否定し、政府はうのみにした。政府が危険性を知らせなかったから、福島第一原発の事故に至った」と大石さんは憤る。「原発を再稼働すれば、悲劇はまた起きる。政治には期待できない。一般の人が核兵器や原発について考え、反対する大きな流れをつくらないといけない」と警告する。

 大石さんは25日に出発し、3月9日に帰国する。核実験があった3月1日にマーシャル諸島共和国の首都・マジュロで開かれる集会に参加するほか、実験地に近く、放射能汚染が深刻なロンゲラップ島を訪ね、除染作業に当たる元島民らから話を聞く(2014年2月23日配信『東京新聞』)。

 

大石さん、核兵器の怖さと廃絶を訴え

 

元乗組員大石又七さん(75)が09年11月15日、宮古市で約50人を前につらい体験を語り、核兵器の怖さと廃絶を訴えた。

当時20歳だった大石さんが被曝したのは水爆実験場から約160キロの地点で、「夕焼けのような光が走り、地鳴りのような大きな重い音が下から突き上げてきた」。「白い灰」が舞い降りてきて、夕方から、めまいや吐き気の症状が出て、灰があたった所がふくれた。東京の病院で治療を受けたが、政府がわずか9カ月で米国と政治決着を付けたため、1年2カ月で退院させられたという。

23人の乗組員のうち、これまでに14人が急性放射能症などで亡くなった。大石さんらは、被曝者として認められなくても被曝で苦しみ、世間から偏見や差別を受けたという。自身も静岡県焼津市に住めなくなり、東京に引っ越した。

また、長女の縁談話も被曝が原因で3度壊れたという。被曝から14年間はビキニ事件について話さなかったという。だが、「被曝者として認められず亡くなった同僚の悔しさと、核兵器の怖さを子どもたちに伝えないといけない」と語るようになった。「この事件は、軍事、核兵器、米国との政治のことがよくわかり、平和運動の原点」といい、「核兵器をなくし戦争をなくさないといけない」と訴えた(09年11月16日付『朝日新聞』)。

 

「第五福竜丸」乗組員16人のカルテ写し発見

 

太平洋・ビキニ環礁で米国が1954年3月に行った水爆実験で被曝したマグロ漁船「第五福竜丸」(静岡・焼津港所属)の元乗組員23人のうち、16人のカルテの写しが独立行政法人・放射線医学総合研究所(千葉市稲毛区)に保管されていることが20日、わかった。

放医研は「被曝診療にとって貴重な資料。有効に活用したい」と話している。

第五福竜丸の乗組員23人は操業中、「死の灰」を浴び被曝した。16人は帰港後に国立東京第一病院(現国立国際医療研究センター、東京都新宿区)に、7人は東大付属病院に入院。1人は半年後に死亡したが、放医研は22人の診療を引き継いだ。放医研が1990年代半ばに被曝直後のカルテを捜したところ、東京第一病院に入院した16人分のカルテを国際医療研究センターで見つけて複写した。

 カルテの記載内容は入院当初のもので、いずれも診断名は「放射能症」。白血球や血圧などのデータなどが記入されている。B5判で厚さはそれぞれ5センチほどだという。元乗組員は今も年1回、放医研で定期検診を受けており、データ比較などに使われている。

第五福竜丸の乗組員では、被曝の半年後に死亡した無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)の組織標本とカルテが、同センターで保管されていることが昨年明らかになったが、カルテがまとまって保管されているのがわかったのは初めて(10年7月20日付『読売新聞』)。

 

福竜丸被ばく57年で訴え 「核の怖さ忘れないで」

 

 

 

太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で米国が水爆実験を行い、静岡県焼津市の漁船「第五福竜丸」が被ばくした事件から2011年3月1日で57年。元乗組員の大石又七さん(77)が11年2月26日、第五福竜丸展示館がある東京・夢の島公園での集会で「事件と核兵器の怖さを忘れないで」と訴えた。

大石さんは「乗組員23人のうち14人が亡くなった。私もがんで1日30数種類の薬で命をつないでいる」と今の体調を説明。「私が証言するのは平和運動ではなく、理不尽なことへの恨みから。インターネットで地球の裏側と瞬時に話せる時代。子どもたちには、どうしたら核兵器がなくせるかを世界の人々と話し合ってほしい」と述べた。

世界の核被害を追い続けているフォトジャーナリスト豊崎博光さん(63)は、米国の核実験で「死の灰」が日本にも降り注いでいたとして「世界中の人が被ばくしたのは間違いない事実だが、人体への影響は調査されていない」と指摘した(11年2月26日配信『東京新聞』)。

 

2011年2月28日付『しんぶん赤旗』=3・1ビキニデー始まる 核なき世界へ国際交流会議


「ビキニ事件」の犠牲者を追悼し、核兵器廃絶の誓いを新たにする「3・1ビキニデー」の諸集会が27日、静岡市内で始まりました。

この日は、日本原水協(原水爆禁止日本協議会)全国集会の国際交流会議が開かれ、160人が参加。「核兵器のない世界への次のステップ」をテーマに、「核抑止力」論の克服と核兵器全面禁止に向けた世論づくりについて討論しました。会場から「世論をつくるうえで、小・中学校から被爆の実相を伝えることが大事だ」などの意見が出されました。

アメリカフレンズ奉仕委員会のジョセフ・ガーソン氏は、昨年5月の核不拡散条約(NPT)再検討会議が「核兵器のない平和で安全な世界」を実現するための「枠組み」をつくるよう呼びかけたとのべ、「実行に移すときです」と強調。日本原水協が提唱した新しい国際署名「核兵器全面禁止のアピール」への支持をアメリカで広げたいと表明しました。

日本原水協の土田弥生事務局次長は、新しい国際署名に内外から大きな反響が寄せられていると紹介し、「『次のステップ』の核心は核兵器全面禁止を求める諸国民の要求と行動にある」と指摘。「米ロをはじめとする核保有国のリーダーに、ただちに禁止条約の交渉開始に踏み切るよう要求するため、新署名を積極的にすすめましょう」と呼びかけました。

核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のティム・ライト氏(オーストラリア担当理事)は、「ビキニデーは核兵器がもたらした計り知れない苦しみを思い出す機会です」とのべ、オーストラリアの先住民も英国の核実験で土地を汚染されたと告発。「世界中に核兵器禁止条約を支持する大きな世論の波をつくり出しましょう」と語りました。

韓国・進歩新党政策委員の金秀R(キムスヒョン)氏は、日韓は米国との軍事同盟への依存を強めるのではなく、平和的手段による平和の達成を原則にすべきだとのべました。

マーシャル諸島共和国ビキニ環礁自治体のアルソン・ケレン首長が特別報告。米国の核実験から57年たっても移住先の島から帰れず、苦しみ続けていると訴えました。


「3・1ビキニデー」 1954年3月1日、米国が太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁でおこなった水爆実験で、静岡県焼津市の「第五福竜丸」をはじめ多数の日本漁船の船員、マーシャル諸島の島民らが被ばくする「ビキニ事件」が起きました。これを契機に、日本国内で原水爆禁止運動が高まり、運動が世界に広がる出発点となりました。毎年3月1日を中心に、事件の犠牲者を追悼し、核兵器廃絶の誓いを新たにする諸行事が続けられています。

 

 

被ばくしてから57年を迎えた「ビキニデー」の11年3月1日、被ばく半年後に亡くなった同船の無線長久保山愛吉さん=当時(40)=の遺影を掲げ、核廃絶を訴える平和行進が焼津市で行われた。午前9時半すぎ、全国から集まった1,000人以上の参加者が、久保山さんの遺影を携えてJR焼津駅を出発。ビキニ環礁自治体のアルソン・ケレン首長も参加した。「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」との久保山さんの願いが書かれた横断幕を掲げ、久保山さんの墓がある弘徳院まで約2キロを行進した。午後は焼津文化センターで「3・1ビキニデー集会」を開催。ケレン首長も水爆によるビキニ島民の被害を訴えた。

 

 

 

 

第五福竜丸に元漁労長対面 「残してくれて幸せ」=1954年に米国の水爆実験で被ばくした静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」を率いていた元漁労長、見崎吉男さん(85)が11年5月22日、東京・夢の島の第五福竜丸展示館を初めて訪問した。保存されている船体と対面し「(被ばく当時)そのままだ。たくさんの人が応援してくれた。立派に残してくれて幸せだ」と語った。

 見崎さんは、焼津市の市民グループら約30人とともに訪れた。安田和也学芸員の説明を受けた後、船体に触れながら見学。「最後の機会と思っていた。いろいろな思いが交錯する」と感慨深げだった。

 一方で、核をめぐる現状について「40年、50年たっても放射能被害はなくならず(世界は)危険な方向で右往左往している」と懸念を示した(11年5月22日配信『共同通信』)

 

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 ビキニ環礁核実験60年 第五福竜丸以外の473隻 放射能検査 厚労省、初めて文書公開=1954年3月、アメリカが太平洋・ビキニ環礁で強行した水爆実験に第五福竜丸が遭遇したビキニ被災から60年。当時、太平洋で操業していた第五福竜丸以外の漁船の船体と乗組員にたいする放射能汚染検査の厚生省(当時)の文書が19日、「資料がない」としてきた厚労省から初めて公開されました。核実験被害者の掘り起こし活動を30年間続けてきた高知の山下正寿さん(太平洋核被災支援センター事務局長)と山本浩一さん(21世紀の水産を考える会代表幹事)が強く公開を求めていたものです。

被害掘り起こし活動実る

共産党も国会で追及

 公開されたのは、厚労省が「省内や倉庫などから2カ月かけて探し出した」という文書、資料。304点、分厚いファイル3冊分、B4で1900枚です。第五福竜丸(乗組員23人)以外に、のべ556隻、実数473隻について、航路図、人体と水揚げした魚の放射線量などが記載されています。

 資料には「白血病とビキニ被災との関連」「魚の放射能汚染に関する研究」などのほか、補償措置に関する打ち合わせや漁船ごとの検査状況などが含まれています。

 当時、ビキニ環礁での水爆実験で被災した漁船はのべ1000隻とされます。厚生省は、第五福竜丸が焼津港に帰港した直後から、五つの漁港で放射能検査を実施しましたが、資料は公開していませんでした。昨年11月に、外務省の開示文書で一部が米国に提供されていたことが判明していました。

 公開を求めてきた山下さんは、「資料があったら、なぜ公表しなかったのか。掘り起こし活動で知り合い、若くしてがんなどで亡くなった船員を思うと悔しい。国民の命と暮らしを守るべき省庁の責任放棄だ。ビキニ被災の全容解明と、被害者救済にいまからでも取り組むべきだ」と話します。

 国会では、日本共産党の山原健二郎衆院議員(故人)が、1986年にビキニ被災漁民の全国調査を要請したのにたいし、厚労省は「資料はない」「第五福竜丸以外の漁船の実態はつかんでいない」と答弁していました。

被害者救済へ道筋

 資料の公開に協力してきた日本共産党の紙智子参院議員の話 山原元衆院議員が国会で初めて取り上げたものの、闇に葬られようとしていた資料が、山下さんたちの粘り強い追及で60年ぶりに公表されました。長年、苦しんできた船員たちに解決の道筋を示す大事な資料です。福島が苦しむ原発事故による海洋汚染、放射線被ばく問題を解明し、その教訓を生かしていくうえでも、今回の資料公開は大きな意味があります(2014年9月20日配信『しんぶん赤旗』―「主張」)

 

 ビキニ水爆:漁船員被ばくは最大414ミリシーベルト=1954年35月の米国の太平洋ビキニ環礁水爆実験で被ばくした元漁船乗組員の被ばく線量が、最大で414ミリシーベルトだったことが2014ン年8月7日、岡山理科大の豊田新教授(放射線線量計測)の研究調査で分かった。実験現場から東に約1300キロ離れた海域で遭遇したが、医療被ばくや生活で浴びる放射線量を除いても、広島原爆の被爆者が爆心地から1.6キロで浴びた被ばく線量に匹敵するという。

 豊田教授が同日、広島市内で開かれた放射線被ばくなどの専門家グループの研究会で報告した。被ばく当時、2隻の漁船に乗船していた男性2人から臼歯2本と犬歯1本の計3本の提供を受け、歯のエナメル中に放射線でできた不対電子の量を測る電子スピン共鳴(ESR)という方法で被ばく線量を計測した。歯のエナメル質は結晶で、細胞と違って代謝がないため、放射線による影響が減少せずそのまま残ることを利用したという。

 この結果、2人のうち「第5明賀丸」に乗っていた高知県西部に住む80代の男性は、最大414ミリシーベルトの被ばくをしていることが判明。もう一人は最大で252ミリシーベルトの被ばく線量だった。

 研究グループは、星正治・広島大名誉教授(放射線生物・物理学)の呼び掛けで集まった放射線被ばくの専門家や、ビキニ環礁での被ばくを約30年間調査している太平洋核被災支援センター事務局長の山下正寿さん(69)=高知県宿毛市=らで構成。日米の公文書や、元船員の歯や染色体異常などからビキニ水爆実験の被ばくの実態解明を目指している。研究グループはより多くのデータを集めるため高知県歯科医師会にも協力を打診し、今後、元船員らに歯の提供を呼びかける(2014年8月7日配信『毎日新聞』)

 

 第五福竜丸元乗組員 核兵器廃絶を訴え=60年前、アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被爆した日本の漁船「第五福竜丸」の元乗組員が都内で講演し、今も現地では健康への不安を抱える住民がおり、問題は解決していないとして、改めて核兵器の廃絶を訴えました。

 東京・大田区の大石又七さん(80)は、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員だった60年前の昭和29年3月、アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被爆しました。

大石さんは29日に東京・豊島区で講演し、集まったおよそ40人を前に「『死の灰』を頭から浴びたが、当時は体の中に放射性物質が入り込む内部被爆の危険性が認識されていなかった」と語りました。

大石さんは、ことし10年ぶりにビキニ環礁があるマーシャル諸島を訪れていて「今も現地では放射能の影響からふるさとの島に戻れない住民が多くいて、中には健康への不安を抱える人もおり、問題は解決していない」と述べ改めて核兵器の廃絶を(2014年6月29日配信『NHKニュース』)

 

 第五福竜丸の航跡 講談に 墨田の田辺一乃さん 横浜で「ネタ卸し」=「小さなボロ船の私(わたくし)は、とんだことで、日本一有名な船になりました」。1954年3月、太平洋・マーシャル諸島で行われた水爆実験で被ばくした第五福竜丸を題材にした講談を、講談師の田辺一乃(かずの)さん=東京都墨田区=が作った。遠洋マグロ漁で被災した後、廃船として捨てられ、今は都立第五福竜丸展示館(江東区)で保存されている数奇な航跡を、分かりやすく伝えている。被ばくから60年余の5日、横浜市内の講演会で「ネタ卸し」する。   

「私、船でございます。元は漁船でした」

 講談は、夢の島公園の展示館にある第五福竜丸の「回想」から始まる。実験に巻き込まれたいきさつや、被災時の状況を歯切れ良く語っていく。

 「突然、まだ暗い空が、左の水平線から右の水平線まで、サアーッと夕焼け色に染まった」

 「ぱらぱら、ぱらぱら。空から白いものが降ってきたんです」

 「(焼津港に戻った後)大学の先生たちがやってきて、私の船体にガイガーカウンターという計測機械を向けました」

 「死の灰」を浴び、急性放射能症に苦しむ乗組員の様子も説明。東京水産大(現・東京海洋大)の練習船になった第五福竜丸が、ごみの埋め立て地だった夢の島に捨てられ、市民の呼び掛けで永久保存に至るまでを30分に凝縮して語る。

 田辺さんは東京生まれ。人事院に20年以上勤めた後、講談師の田辺一鶴さん(故人)に弟子入りし、転職した。「勝海舟」「二宮金次郎」など歴史的人物を題材にしたネタを得意とする一方、奥尻島の津波などを盛り込んだ防災講談にも取り組んできた。

 昨年9月、地元ネタを作ろうと、第五福竜丸展示館を訪問。他にも多くの漁船が被害を受けていたことをあらためて知った。「大切なことは伝えた方がいい」と関連書を調べ、学芸員にも話を聞いて台本を仕上げた。

 気を付けたのは、「そのお話はいずれまた…」と観客が自分で判断する部分を残すこと。人事院時代の95年、地下鉄サリン事件が起きた霞が関で「爆弾」という誤った情報が飛び交い、周囲の人が不安を募らせたのを覚えているからだ。歩道に倒れた人たちに衝撃を受けつつ「当たり前と思っていたことが当たり前じゃないときは、自分で考えるしかない」と感じたという。

 「講談を聞いて、マグロや乗組員はどうなったか考えてほしい。中学生にも分かるように作ったので、自分で調べて展示館に行ってくれたらうれしいですね」

 講演会は5日午後5時45分から、横浜市神奈川区のかながわ県民センター402号室で。問い合わせは早川芳夫さん=電03(3308)7044=へ。資料代500円(高校生以下無料)(2014年4月3日配信『東京新聞』)

 

「第五福竜丸」の講談を作った田辺一乃さん=東京都墨田区で

 

 ビキニ事件59年で講演=「魚の汚染、調査広げて」=1954年3月1日のビキニ事件から59年を迎えるのを前に「3・1ビキニ記念のつどい」が13年2月423日、東京都内で開かれ、水口憲哉東京海洋大名誉教授が、東京電力福島第1原発事故による水産物の汚染について「魚を食べるためには、一人一人が事実に基づいて考えるしかない。そのために調査の範囲をもっと広げるべきだ」と講演した。

 ビキニ事件では、全国で水揚げされたマグロから放射性物質が検出されたが、日米の政治決着で同年末に検査が打ち切られた。水口氏は原発事故に関し「回遊など魚類の行動によって汚染の度合いは違い、後に出てくるものもある。調査を止めさせてはならない」と訴えた(13年2月23日配信『共同通信』)

 

☆  来館500万人の第五福竜丸  「ビキニと福島  つながっている」=太平洋のビキニ環礁で米国の水爆実験により被ばくした漁船「第五福竜丸」=写真=元乗組員、大石又七さん(79)=東京都大田区=が25日、都内の中学校で講演した。40年にわたり800回近く体験を語ってきたが、12年4月に脳出血で倒れ、この日は約1年ぶりの講演。福島第一原発事故後の日本を生きる若者たちに「原発も核兵器と同じ。なくさなければ安心して暮らせない。一人一人が考えて答えを出して」と訴えた。 

 「怖いとも思わなかった。何も知らなかったから」。三輪田学園(千代田区)の講堂。中学2年生172人を前に大石さんは、久しぶりの講演だからか、やや緊張気味に話した。

 福竜丸の冷凍士だった大石さんは当時、20歳。早朝の暗がりに突然、光と赤みがかった色が船を覆った。数分後、ドドドドーというごう音。しばらくすると、白い粉が落ちてきた。放射性物質を大量に含んだ「死の灰」。髪にも手にも付いた。

 23人の乗組員に頭痛や頭髪が抜けるなどの急性症状が現れ、半年後には久保山愛吉さん=当時(40)=が亡くなった。

 「あの時、放射能の怖さ、内部被ばくの怖さ、平和の大事さを、ちゃんと説明できたはずだ」。元乗組員の半数以上が亡くなった今、大石さんは、自分たちの体験や警告が顧みられず、今なお世界中に核兵器が存在することを憂える。原発事故後は、より精力的に全国を回り、放射能や原発の危険性を訴えた。

 講演で大石さんは、A4判5枚の文章を生徒たちに手渡した。題は『ビキニの水爆と福島の原発はつながっている』。脳出血でリハビリ中、講演に行けなくても思いを伝えられるようベッドで書いた。

 この日、福竜丸を展示する都立第五福竜丸展示館(江東区)が来館者500万人を突破。「それだけの重みを一般の人も感じているからだろう。大事なことを忘れない人は何%かいて、そういう人たちが世の中を守ってるのかな、という喜びがある」

 もう一つ、大石さんがうれしかったのは、展示館の学芸員市田真理さん(45)が共に舞台に立ち、対談形式で大石さんの言葉を引き出してくれたことだ。市田さんは大石さんの療養中、すでに予約が入っていた講演会で代理を務めてくれた。

 「史料に基づいた語りをしてくれる人がビキニ事件を伝えてくれていること、うれしく思っています」と大石さん。

 市田さんも「語り部・大石又七の、私は『語り継ぎ部』でありたい」と生徒たちに語った(13年1月26日配信『東京新聞』)

 

 

中学生を前に第五福竜丸について話す元乗組員の大石又七さん=25日、東京都千代田区九段北で

 

 ビキニ事件の教訓伝える責任 元乗組員が病床から復帰=1954年3月のビキニ事件から間もなく59年。米国の核実験で被曝(ひばく)した静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員、大石又七さん(79)=東京都大田区=が病床から復帰、約9カ月ぶりに中学生の前で体験を語った。地道に積み重ねてきた証言活動は約800回。「教訓を広める責任がある」。大石さんは決意を新たにしている。

 「当時は被曝の恐怖よりも、迷惑で隠れたくて口にしたくなかった。仲間が次々に命を落とし、誰かが話さなければとの考えに変わった。放射能は妥協してくれない」

 1月25日、都内の中学校講堂。つえをついて現れた大石さんは、少したどたどしい口調で約170人の2年生に壇上から語り掛けた。東京・夢の島で船を保存する「第五福竜丸展示館」の市田真理学芸員との質疑応答を生徒全員が静かに聞き入った。

 事件で乗組員23人が被曝し、無線長、久保山愛吉さん(当時40)が半年後に死去。大石さんもさまざまな病気を抱え、昨年4月に脳出血で倒れた。7カ月後に退院、リハビリを続けてきた。

 今回、自らの思いをA4判の紙5枚にまとめ、生徒に配った。内部被曝の怖さ、ビキニ事件の年に生まれた安倍晋三首相らが平和憲法を変えようとしていることへの危機感……。「途中でしゃべれなくなるかもしれない。文字にすればみんなが読んでくれる」。不自由な手でつづり、市田さんがパソコンで清書してくれた。

 「福島の原発事故と核兵器から出る放射性物質が同じと分かった以上、ビキニ事件を黙って消すわけにはいかない。平和、核、放射能について、自分の命とこれからのために考えてほしい」。最後に力を込めて「余命がどれくらいか分からないが、今後も(活動を)続けたい」と締めくくった。

 証言活動の半数近くは、第五福竜丸展示館が会場。くしくも大石さんの復帰の日に来館者が500万人を超えた。「大事なことを忘れない人が何パーセントかいて、世の中を守ってくれているのかなあ。第五福竜丸の一員として誇りに思う」と顔をほころばせた。

 一方、北朝鮮の核実験強行で国際情勢は緊迫化。大石さんは「互いに武器を向け合う威嚇の連鎖に日本は巻き込まれてはならない」と憂慮する。3月1日に静岡県で開かれる「ビキニデー」にも参加するつもりだ(13年2月23日配信『共同通信』)

 

☆ ビキニ水爆実験 調査続ける元教諭 死の灰1000隻に 恐怖今も=1954年の米軍のビキニ水爆実験では、第五福竜丸だけではなく、約1000隻ものマグロ漁船が死の灰を浴びた。高知県宿毛(すくも)市の元高校教諭山下正寿さん(67)は30年近く調査を続け、船員たちが長く健康被害に苦しみ、がんなどで亡くなった実態を明らかにした。「核の恐怖は30年後、40年後でないと分からない」。福島という核の体験を重ねたこの国で命の重みを問い続ける。 

 12年8月21日の東京・築地市場の正門近く。被ばくマグロが大量廃棄されたことを伝える金属板に、足を止める観光客はいない。「寂しいですね」と山下さんがつぶやいた。

 終戦40年に当たる85年夏。社会科教諭だった山下さんは高校生らと地元の原爆被爆者への聞き取りをした。年老いた女性から「長崎で被爆した息子はビキニでも被ばくし、最後は自殺しました」と聞いた。

 爆心地から1・8キロの長崎市の自宅で被爆。宿毛に移り住み、母子家庭を支えるためマグロ漁船に乗り始めたという。戦後復興のため「沖合へ遠洋へ」と国が旗を振った時代。貧しい港町でほとんど唯一の高収入を得る手段だった。航海を重ねるうち、のどの痛みなどを訴えるようになり、入院先の神奈川県で海へ身を投げた。27歳だった。

 「第五福竜丸の他に死の灰を浴びた人がいた。それも身近に」。当時の新聞記事や公文書を調べると、計6回の水爆実験の際、付近で操業していたマグロ漁船は帰国後、被ばく検査を受けた。マグロの廃棄を求められたのは992隻。3分の1に迫る約270隻は高知県船籍だった。日米両政府は200万ドル(当時のレートで7億2000万円)の慰謝料で決着。その後、船員の健康調査は行われていない。

 山下さんたちは突き動かされるように、県内の漁村を訪ね歩く。偏見や風評被害を恐れ沈黙していた船員たちも口を開き始めた。航海中、汚染された雨水を飲み、被ばくマグロを食べていた。「きのこ雲を見た」「白い粉が降ってきて口に含んだ仲間が、血を吐いて死んだ」という証言をいくつも得た。

 身元が判明した187人中、40人は死亡していた。大半は60代前後。うち13人ががんだった。「マグロ漁師は早死にする」とうわさされる地域もあった。

 元船員らの団体をつくるなどして補償を国や県に求めた。「因果関係が不明」と相手にされない中、元船員らは相次いで亡くなった。今も調査は続ける。

 東京電力福島第一原発の事故後も「放射能の直接的な影響で亡くなった人はいない」という論で再稼働を求める動きがあることに、市民の被害を過小評価する姿勢は変わっていないと危惧する。

 今夏、自身の前立腺がんが分かった。この日、東京を訪れたのも治療のためだ。「核実験でがん患者の数が増えていると警鐘を鳴らしてきた。その私ががんにかかるとは『もっと頑張れ』と誰かに言われているような気がする」(12年8月24日配信『東京新聞』)

 

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 50年代米公文書:「日本は核に無知 原子力協力で治療」=1954年3月1日に太平洋ビキニ環礁で米国が行った水爆実験で静岡の漁船「第五福竜丸」が被ばくし、原水爆禁止が国民運動となる中、危機感を深めた当時のアイゼンハワー米政権が日本の西側陣営からの離反を憂慮、日本人の反核・嫌米感情を封じ込めようと、原子力技術協力を加速させた経緯が23日、米公文書から明らかになった。

共同通信が米国立公文書館で収集した各種解禁文書は、核に「無知」な日本人への科学技術協力が「最善の治療法」になるとして、原子力協力の枠組みや日本人科学者の米施設への視察受け入れを打ち出す過程を明記。米側が「原子力の平和利用」をテコに日本世論の懐柔を図り、被爆国が原発導入を進めるに至った源流が浮かび上がった。

アイゼンハワー大統領は54年5月26日にダレス国務長官に覚書を送り、被ばく事件後の「日本の状況を懸念している」と表明。「日本での米国の利益」を増進する方策を提示するよう求めた。

これを受け、国務省極東局は大統領あて極秘覚書で「日本人は病的なまでに核兵器に敏感で、自分たちが選ばれた犠牲者だと思っている」と分析。打開策として(1)被ばく乗組員への賠償(2)米側からの「放射能に関する情報提供」(3)吉田茂首相への遺憾表明−−を挙げ、「放射能」に関する日米交流が「日本人の(核への)感情や無知に対する最善の治療法」になると指摘した。

同年10月19日の国務省の秘密メモ「ビキニ事件と核問題」は、事件を「戦後最大の日米間の緊張要因」と表現し「米国への憤りと核兵器への恐怖心が高まった」と解説。「原子力・核エネルギーが根本から破壊的だとする日本人の根強い観念」を取り除く狙いで「原子力の平和利用を進展させる2国間、多国間の取り組みに日本を早期に参画させるよう努めるべきだ」と将来の原子炉提供の可能性を論じている(11年7月24日配信『共同通信』)

 

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☆ 今年で誕生60年になる怪獣映画「ゴジラ」のハリウッド版新作「GODZILLA」が好調だ。13日に封切りされた中国でも初日の売り上げが歴代1位を記録したという

▼1954年初公開第1作は、ビキニ環礁の水爆実験で漁船乗組員が被ばくした第五福竜丸事件が土台。これを修復したデジタルリマスター版が県内でも上映されている

▼幼いころ見た作品では、静岡県・田子の浦港のヘドロ公害を題材にした第11作「ゴジラ対ヘドラ」が記憶に残る。公害問題の深刻さが子供だった自分にも刷り込まれた

▼新作には東日本大震災を念頭に置いたとみられる原発事故などの場面があるというが、「反核」のメッセージはどう描かれているのだろう。日本での公開は7月25日

▼パリ郊外で開かれた兵器などの国際展示会に初めて日本企業が出品した。地雷探知機や夜間用レンズなどが展示され、今後の防衛装備品の輸出拡大につながるだろう。憲法を「骨抜き」にしようと議論を進める政府、与党。国産兵器で日本人が殺される時代がやってくるかもしれない

▼東京を火の海にした60年前のゴジラ。今上陸したなら、やはり国会議事堂を踏みつぶすのだろうか(2014年6月22日配信『茨城新聞』−「いばらぎ春秋」)

 

 悪い怪獣をこらしめる正義の味方。子どものころ映画で見たゴジラはこんな印象だった。しかし、日本人が初めて映画館で接したゴジラは東京の街を火の海にする凶暴な怪獣だった

   ◆

公開されたのは60年前の1954年。先日初めて第1作を見た。核実験で太古の恐竜が目覚めたとの設定で、無敵のゴジラも最後は強力な“化学兵器”で倒される。開発した科学者は軍事利用されることを恐れてゴジラと運命を共にし、悲劇的な結末を迎える

   ◆

当時の反響は大きかったようだ。その年の3月、原爆の記憶が生々しく残る中、太平洋のビキニ環礁で米国が行った水爆実験で第五福竜丸が被ばくしたからだ。環礁付近の住民も深刻な被害を受けた。米国は安全宣言を出したけれど、汚染の不安から故郷の島を離れた人が多い

   ◆

ビキニのあるマーシャル諸島共和国の大統領が今月、広島を初訪問した。「核兵器や放射能の影響を受けた点で似ている。長崎や福島の人とも連帯していきたい」と語った。ビキニの記憶を風化させないことが、重い課題となっている

   ◆

水爆実験が続けて行われるとしたら、ゴジラの同類が現れてくるかもしれない―。映画の最後に出てくるせりふである。福島第1原発事故も含め、各地で起きている被害を予見したかのような言葉だ。核の“落とし子”として生まれたゴジラのメッセージを日本人は忘れてはなるまい(2014年2月24日配信『信濃毎日新聞』−「斜面」)

 

 米国は1954年、太平洋のビキニ環礁などで、六回もの水爆実験を繰り返した。無線長だった久保山愛吉さんが亡くなった「第五福竜丸」以外にも、多くの日本の漁船が「死の灰」を浴びたことはほとんど知られていない

▼同じ海域で数多くのマグロ漁船が操業していた。270隻は高知県の船だった。闇に葬られそうだった事実を発掘しようと、高校の教員だった山下正寿さんは30年かけて、生徒とともに漁村を訪ね歩き、聞き取りを続けた

▼調査の過程で200人以上の元船員の消息が分かった。健在なら50代から60代のこの時期に、3分の1の人はすでにがんなどで亡くなっていたという

▼山下さんの調査の足跡を丹念にたどり、生存している元船員や遺族への取材を重ねた南海放送(松山市)のドキュメンタリーが映画になった。「放射線を浴びた『X年後』」。15日から東京都内で上映が始まる

▼なぜ、被曝(ひばく)の記憶が消えたのか。船員には米国からの補償金は届いたのか。歴史の底に沈む闇を照らそうとするジャーナリズムの熱意が伝わる。山下さんの執念が、地方のテレビ局に乗り移ったかのようだ

▼南海放送が独自に入手した米国の原子力委員会の機密文書からは、日本全土が核実験の死の灰で覆われていた実態も明らかになる。福島第一原発の事故を経験した今、映像は重い問い掛けを発している(12年9月13日配信『東京新聞』―「筆洗」)

 

NNNドキュメント‘ 2012年1月29日(日)/55分枠  24:50〜

3・11大震災 シリーズ27 放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして・・・制作=南海放送

 

1954年。18ヶ所の漁港に鳴り響くガイガーカウンターの音。水揚げされる被ばくマグロ。南太平洋から戻るマグロ漁船の船体や乗組員の衣服、頭髪、そして魚からも、強い放射能が検知された。アメリカが太平洋で行った水爆実験は、広大な範囲で大気と海水と魚などを汚染。「放射性物質」は、日本やアメリカ本土にまで届いていた。しかし事件から7ヶ月後。被ばくマグロが続々と水揚げされる中、日本政府は突如、放射能検査を打ち切った。数日後、両国政府が文書を交わし、事件に幕を引いたのだ。人々の記憶から消え、歴史から消し去られた被ばく事件。なぜ、これまで明るみに出なかったのか。そこには、両政府の思惑と人々の切実な思いがあった。8年にわたる取材から事件の全容を浮かび上がらせる。 ナレーター:鈴木省吾

 

 

 

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