2012・3・1ビキニデー

 

201・3・1ビキニ

2013・3・1ビキニデー

 

「No Nukes(核兵器はいらない)」「Abolish Now!(いますぐ廃絶を)」

 

 

 

焼香する遺児

 

重体から奇跡的に持直した第五福龍丸無線長久保田愛吉さんはその後容体が悪化し9月23日午後6時56分東京都新宿区戸山町の国立東京第一病院でついに死去した。久保山さんの死因は”放射能症”によるもので水爆実験による人類最初の犠牲者としてその死は全世界から注目され悲しまれている(1954年9月29日付「時事写真ニュース」)。

 

 

1954年3月1日、米国が太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁でおこなった水爆実験で、静岡県焼津市の「第五福竜丸」をはじめ多数の日本漁船の船員、マーシャル諸島の島民らが被ばくする「ビキニ事件」が起きた。これを契機に、日本国内で原水爆禁止運動が高まり、運動が世界に広がる出発点となり、毎年3月1日を中心に、事件の犠牲者を追悼し、核兵器廃絶の誓いを新たにする諸行事が続けられている。

 

2012年2月19日配信『しんぶん赤旗』−「主張」 3・1ビキニデー 世界を動かす核兵器ノーの声

    

 58年前の1954年、アメリカがビキニ環礁(マーシャル諸島)で水爆実験をおこなった3月1日は、「ビキニデー」とよばれ、広島・長崎へ原爆が投下された8月6日、9日とともに、核兵器の非人間性を思い起こし、廃絶への決意を新たにする重要な日です。

核兵器禁止条約の交渉を

 ビキニ水爆実験では1000隻以上の漁船が「死の灰」をあび、マグロ漁船・第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが半年後に亡くなりました。日本国民が三たび核兵器の犠牲となったことに多くの人々が憤りました。太平洋で水揚げされたマグロが放射能で汚染されていたことに国民の不安が高まり、核兵器反対の声が急速にひろがっていきました。原水爆禁止の署名は、有権者の半数にあたる3200万人に達し、第1回原水爆禁止世界大会(55年)の開催へとすすんだのです。

 原水爆禁止運動は、いまや国際政治にも影響をあたえるまでに発展しています。

 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)がよびかけた「核兵器全面禁止のアピール」国際署名は、全国の半数近くの自治体が賛同するなど内外で反響を呼んでいます。昨年の国連総会では、核兵器禁止条約の交渉開始を求める決議が、圧倒的多数の賛成で採択されました。国連の議論のなかで原水協の活動は高く評価され、日本から届けられた署名用紙は、国連本部のなかで積み上げられて展示されています。こうした動きに「市民の声が世界を動かす」との確信がひろがりつつあります。

 ところが、核兵器廃絶の先頭に立つべき被爆国日本の政府は、核兵器禁止条約を求める決議に棄権するなど、世界の流れに逆行する恥ずべき態度をとっています。日米軍事同盟のもと、アメリカの「核抑止力」に依存する政策はただちにあらためるべきです。

 東電福島原発事故を機に原発ノーの声が高まるいまビキニデー集会は新たな意義をもっています。

 アメリカが戦後、日本への原発売り込みをすすめた裏には、ビキニ被災で高まった国民の「核への反発」を「平和利用」の宣伝で抑えるねらいがあったことも明らかになっています。被爆国日本を核戦争の足場にするために、原発の危険をおしつける、許しがたい策略でした。

 政府は、第五福竜丸をはじめ多数の日本漁船が被災したにもかかわらず、アメリカの意にそって被害調査をたなあげにし、「政治決着」をはかるという無法な態度をとりました。被ばくの被害を覆い隠すこうした姿勢は広島・長崎の被爆者へ不十分な援護施策とともに東電福島原発事故にたいする政府の対応にも共通するものです。

被爆の実相をひろげて

 放射能の不安、原発反対の声と響きあいながら、「核兵器のない世界」を求める運動が大きく発展することがいま期待されます。

 広島・長崎、ビキニ原水爆実験被害の実相と、被爆者を先頭にした六十数年のたたかいは、人々に明日への決意と勇気、希望をひろげています。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は新たな原爆写真パネルを作成しました。久保山さんの「原水爆の被害者はわたしを最後に」との言葉をかみしめ、「核兵器のない世界」へ前進するビキニデーとすることが求められます。

 

 

 

2011年2月28日付『しんぶん赤旗』=3・1ビキニデー始まる 核なき世界へ国際交流会議


「ビキニ事件」の犠牲者を追悼し、核兵器廃絶の誓いを新たにする「3・1ビキニデー」の諸集会が27日、静岡市内で始まりました。

この日は、日本原水協(原水爆禁止日本協議会)全国集会の国際交流会議が開かれ、160人が参加。「核兵器のない世界への次のステップ」をテーマに、「核抑止力」論の克服と核兵器全面禁止に向けた世論づくりについて討論しました。会場から「世論をつくるうえで、小・中学校から被爆の実相を伝えることが大事だ」などの意見が出されました。

アメリカフレンズ奉仕委員会のジョセフ・ガーソン氏は、10年5月の核不拡散条約(NPT)再検討会議が「核兵器のない平和で安全な世界」を実現するための「枠組み」をつくるよう呼びかけたとのべ、「実行に移すときです」と強調。日本原水協が提唱した新しい国際署名「核兵器全面禁止のアピール」への支持をアメリカで広げたいと表明しました。

日本原水協の土田弥生事務局次長は、新しい国際署名に内外から大きな反響が寄せられていると紹介し、「『次のステップ』の核心は核兵器全面禁止を求める諸国民の要求と行動にある」と指摘。「米ロをはじめとする核保有国のリーダーに、ただちに禁止条約の交渉開始に踏み切るよう要求するため、新署名を積極的にすすめましょう」と呼びかけました。

核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のティム・ライト氏(オーストラリア担当理事)は、「ビキニデーは核兵器がもたらした計り知れない苦しみを思い出す機会です」とのべ、オーストラリアの先住民も英国の核実験で土地を汚染されたと告発。「世界中に核兵器禁止条約を支持する大きな世論の波をつくり出しましょう」と語りました。

韓国・進歩新党政策委員の金秀R(キムスヒョン)氏は、日韓は米国との軍事同盟への依存を強めるのではなく、平和的手段による平和の達成を原則にすべきだとのべました。

マーシャル諸島共和国ビキニ環礁自治体のアルソン・ケレン首長が特別報告。米国の核実験から57年たっても移住先の島から帰れず、苦しみ続けていると訴えました。

 

 

被ばくしてから57年を迎えた「ビキニデー」の11年3月1日、被ばく半年後に亡くなった同船の無線長久保山愛吉さん=当時(40)=の遺影を掲げ、核廃絶を訴える平和行進が焼津市で行われた。午前9時半すぎ、全国から集まった1,000人以上の参加者が、久保山さんの遺影を携えてJR焼津駅を出発。ビキニ環礁自治体のアルソン・ケレン首長も参加した。「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」との久保山さんの願いが書かれた横断幕を掲げ、久保山さんの墓がある弘徳院まで約2キロを行進した。午後は焼津文化センターで「3・1ビキニデー集会」を開催。ケレン首長も水爆によるビキニ島民の被害を訴えた。

 

 

 

 

ビキニ首長「広島、長崎と同じ」 / (負の)世界遺産後、初の来日

940〜50年代に米国が核実験を繰り返した太平洋・マーシャル諸島にあり、10年「負の遺産」として世界遺産に登録されたビキニ環礁のアルソン・ケレン首長(42)が、11年2月27日までに東京都内で共同通信の単独インタビューに応じ、住民が今も放射能汚染で故郷に帰れない状況を説明。「私たちは広島、長崎の人々と同じく、人類の歴史の中で最も悲惨な出来事に遭遇した。二度と繰り返さないためにも、忘れてはならない」と訴えた。
 ケレン氏は、1954年に静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が操業中に被ばくして57年となる3月1日の「ビキニデー」に合わせ、初めて来日。焼津市などで開かれる集会に参加する。
 ビキニ環礁の島民は別の島に強制移住させられた。ケレン氏によると、環礁には現在、米エネルギー省職員が残留放射能測定のため、半年交代で常駐しているが、栽培している野菜は放射能の数値が高く食用が禁止されている。
 「米国は『きれいで安全になった。住んでも大丈夫』と言うが、島の作物を食べることができなくて、何が安全だ。長期間滞在することはできない」と述べた。
 元島民は今でもがんで苦しんでいる人が多く、ケレン氏の親族もがんで亡くなったという(11年3月1日配信『共同通信』)。

 

注;負の遺産

世界遺産には、自然遺産、文化遺産、あるいは文化遺産の中での文化的景観や産業遺産など、ユネスコ世界遺産センターやICOMOS(イコモス=International Council on Monuments and Sites=国際記念物遺跡会議。1964年に結成された歴史的な遺跡や記念物などの保存・復元などにあたる国際組織。ユネスコの協力機関)によって公式に認められた分類とは別に、非公式に使われている分類もある。

ただ、明確な定義付けがされているわけではなく、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のような戦争や人種差別など人類の犯した罪を証明するような物件が該当する。

そのほか、原爆ドーム、奴隷貿易の拠点であったゴレ島、マンデラ大統領が幽閉されたロベン島、ビキニ環礁の核実験場などである。

なお、ビキニ環礁は、2010年、第34回世界遺産委員会において、UNESCO(ユネスコ)の世界遺産に登録された。

 

注;ビキニ環礁(Bikini Atoll)

太平洋中西部、ミクロネシア、マーシャル諸島に属する環礁。旧名エショルツEscholtz環礁。36の小島が東西34キロメートル、南北18キロメートルの楕円形をなして礁湖を取り巻き、南東隅の幅14キロメートルのエニュー海峡が入口となっている。1946年からアメリカの核爆発実験場となり、167人の住民は北方のロンゲリクRongerik島に移され、さらにキリーKili島に転住させられた。実験は58年に終わり、68年以来住民の帰島要求が起き、残存放射能調査の後、帰島が許されたが、その後も放射能の影響が残っている。

 

 

inserted by FC2 system